梱包する箱
須能 雪羽
第一幕:在りし日の
第1話:在りし日の(1)
朝日というか、空の明るさが這って伸びる廊下に灯りは点いていなかった。よれよれしわしわの安全標語の張り紙は、それでもどうにか読み取れた。べったりと緑に塗られたコンクリートの廊下の突き当り、また出くわすドアから明かりも音も感じられない。それなのに、入った中には事務の
社長と部長の机、摺りきれかけた応接セット。その奥、ブラインドのかかる窓へ向かって佐々岡さんの机はあった。「おはよう」と言えば「おはようございます」と返る。それがスイッチだったように、隣の複合機で印刷が始まる。俺はその間に、洗面台の水をコーヒーメーカーへ入れる。
一杯目が取れるころには、たいてい印刷が終わった。佐々岡さんはその紙束をとり、ちょっと焦げたような安いコーヒーの匂いを掻き分けてやって来る。「昨日の分です」と毎日分かりきったことを言う。ひび割れから生地の色の見えるローファーを、ぎゅっぎゅっと鳴らしながら。
俺はその紙束を片手に受け、競馬誌と同様に丸めて脇へ抱える。反対の手にコーヒーを持ち、隣の更衣室へ。そこには休憩用の長机があって、新たな仕事をどうスケジュールに入れていくかを考えるのにちょうど良かった。
紙束はいつも、ワニ口のクリップで留めてあった。製本したように四辺をきっちりと揃えて。俺にはできない几帳面さに感心するが、しかし捲って読むには少しくらいずれていたほうが良いというものだ。
だから黒光りするクリップを外し、紙束を放り投げる。長机に着地するといい感じにばらける。クリップは机の上の灰皿に挟んでおけば、いつの間にかなくなっている。それから
ズボンを下ろし、シャツを脱ぎ、作業着を包んだビニールを破く。ドライクリーニングのなんとも正しい匂いを胸に吸いながら、視線は紙束を見下ろし続けた。内容は例外なく発注書で、違いがあるとすれば納品管理の担当が先にチェックを入れたものとないものがあるくらい。
床のタイルは夏でもひんやりとしていた。もうすぐ新年度というあのころは風邪をひきそうに寒く、急いで纏った作業着がまた冷たかった。そこで含むコーヒーが異様に温かかったのはなんだろう。熱いのでなく、ことさらに旨いということもなく、温かかった。
最後に姿見で全身を検め、自宅で整えてきた髪に櫛を入れ直す。美男子だのイケメンだのとは思わないが、身だしなみくらいは美醜以前の問題だ。少し乱れた分け目と、鏡に映る発注書の数字と、両方の交通整理をこなすくらい当然のこと。
すぐにパイプ椅子にかけ、発注書の二、三枚目までを捲る。壁に据えられたデジタル時計は、始業の七時にまだまだ遠い。その二十分かそこらで、新たな業務をスケジュールへ落とし込む。俺の仕事は、そんな脳内作業から始まった。
記憶力には自信があった。だから作業場のホワイトボードの前まで行かなくとも、作業工程は覚えている。けれども前日、遅番の
俺は作業管理のリーダーで、あいつは納品管理のリーダー。当然のことと反芻するのに毎朝の数秒を使った。どれだけ製造しても納品が整わなければ意味がない。当然のことだ。
前追の字は読みやすかった。書道の先生のような上手さではなく、喩えるなら絵本の活字だろうか。大きすぎず、小さすぎず、賢げな漢字を無理に使うこともなく。それらがすべて反対だったら、俺はこの発注書をどうするだろう。
──加えて二、三枚を捲ったところで、トイレへ行きたくなる。これも無意識の手順なのかもしれないが、どうであれ生理現象には逆らえない。発注書の束をまた脇に抱え、個室に籠る。男女共用のせいか、三つもある個室にどれも洋式なのは良かった。俺の選ぶのは、必ず奥の外壁沿いの個室だった。
たしか清掃は、午後には退勤する佐々岡さんが毎日の最後の仕事としてやっていたはず。朝となればおよそ一日の経った後で、それなのに埃の一つとて目に留まらない。パートの身で、俺が同じ立場なら同じくできるだろうか。さすが佐々岡さん、と毎日の称賛が欠かせなかった。ほかに誰も居ないこの時間、この空間が、神持機工で最高の思索に相応しい場所と言えた。
そんな一室で気持ちよく。二センチ角のタイル床と酸性洗剤の残り香を背景に、スケジュールの思案を続ける。神持機工という公的業務と、俺個人の生理的業務とを同時にこなすのだ。
それにしても。毎日十数枚の発注書は、十何人のパート工員で回す工場には多すぎた。いやだからこそ、急ぎの発注の合間に急ぎでない発注を捩じ込む俺が要るのだけれど。
ともあれ個室を出るまでに。さらに七時を回るまでに立案を終えることは、遂になかった。結局はホワイトボード前の机に座り、五分か十分ほどのロスタイムを要した。
一番乗りの作業場は、冷やご飯の匂いがする。機械の鉄と油、製品のダンボール、隙間という隙間へ詰まった
出勤してきた工員たちが次々と機械を立ち上げていく。冷やご飯に熱が加わり、茹でたトウモロコシになる。中でも大きな、しかもホワイトボードの目の前にある
いくつあるやら数えるのも面倒なモーターと、試動するカッター刃の叫喚が耳を衝く。そう軒下の雛みたいに騒がれても、まだ新しい餌が用意できていないのに。
書き換えが終わって、ようやく与えてやれる。だが実際に給餌をするのは工員で、既に始められた昨日までのスケジュールからの変更を指示しなければならなかった。たいていは引き続きで作業できるように組み替えるが、急ぎとなると機械をいったん止めてもということもある。
そういう仕事をとってくる社長が有能なのか節操がないのか、工員たちの感想はさまざま。俺自身はと言うと、あのころも今も前者と答えられた。なにしろ俺自身、指示を終えれば工員その一だったのだから間違いない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます