ヒトのモノ

@meat_misopaste

第1話 地獄のとなり

私の居場所が地獄でも、どうか天国がありますように

ホルヘ・ルイス・ボルヘス「The Library of Babel」




 ダナは奴隷だが幸せだ。

 いや、奴隷だからこそ幸せだ。

 ダナの住むマクラレン荘園は、マーロ帝国南西部に広がるウールエ平野の隅っこにある。このあたりは肥沃な土壌に適度な日照と降雨、さらに夏は涼しく冬は温暖な気候と、帝国の中でも屈指の恵まれた土地だ。

 ウールエ平野は皇帝直轄領や大小の荘園や自作農地が混在しているが、その中でもマクラレン荘園は小規模な部類に入る。人口は百名ほど、荘園を横切るように小川が流れ、その上流には石造りのどっしりした領主館が建っている。そこには領主のマクラレン様が住んでおり、ダナの住む奴隷小屋も敷地の隅に建っていた。少し離れた小川の下流に豊穣の女神を祀った祠があり、そこから水車小屋や鍛冶屋といった商店が続き、さらに下流には藁ぶき屋根と白い土壁の素朴な民家がポツポツと並ぶ。マクラレン荘園にはこの小さな村が一つだけなので、村の名前も当然マクラレン村だ。

 住人は優しい領主様を筆頭に、優しい村人たちと優しい奴隷たちと、優しい人だけで構成されていた。村の生活は基本的に自給自足だが、たまに行商人が来たり、村の大人がずっと先にある大きな町まで買い出しに出掛けたりしている。お友達のマリーちゃんとカトリーヌちゃんも読み書きを習うために二個先の村にある神殿まで週に一回通っている。二人によると勉強は面白くないうえに大変らしい。でもダナは奴隷だから勉強をする必要は無いし、荘園の外に出たこともない。

 村の大人たちも、お友達の二人も、奴隷じゃない。奴隷じゃない人たちは、自由民という。自由民は大人になったら自分で仕事を探して、自分で税金を収めなきゃいけないと、村の大人たちがぼやいていた。でもダナは奴隷だから、領主様が仕事をくれるし、領主様が食べ物も着る物もくれるし、お金を払う必要もない。ダナの人生のすべては領主様が面倒をみてくれる。ダナは奴隷で本当によかったと思った。

 でも奴隷が幸せなのは、この荘園だけらしい。ダナは大人たちの会話から、薄々そう気付いていた。外の世界は、怖くて、残酷で、惨めなところ。ダナは外の世界をそのように想像していた。「隣の荘園の逃亡奴隷が捕まったそうよ」「罰は鞭打ちと焼きごてらしいわ」「他の奴隷も連帯責任で服を取り上げられたって」「食事も残飯らしいわよ、お皿もスプーンも無しだって」「つまり裸で、ゴミ桶から手づかみで食べるってこと?」「そうらしいわ、まるで地獄よね」。

 ダナはこういった会話が聞こえてくるたびに、胃の腑がキュッとした。ダナはそんな酷い仕打ちを受けたことが無い。そんなことをされると想像するのも嫌だ。

 でも隣の荘園はすぐそこにある。ほんの三十分ほど歩いて、境界線の木柵を越えれば、すぐそこに地獄があるのだ。そのことにダナは微かな緊張と同時に、無責任な安堵も感じていた。すぐそこにぽっかり口を開けている地獄を崖の上から見下ろすような緊張と安堵。

 酷い仕打ちを受ける奴隷たちを可哀そうだと思う。自分だってそんなことをされたくないし、したくもない。でも話に聞くだけで、ダナは実際にそういった酷い仕打ちを目にしたことも耳にしたことはない。この荘園の中にいる限り、優しい領主様の庇護下にいる限り、ダナは安全地帯から隣の可哀そうな人たちを「なんて可哀そうな人たちだろう」と想像して心を痛めるだけで済むのだ。

 ダナは奴隷で幸せだ。マクラレン荘園の奴隷で本当に幸せだと思っている。でもダナは六歳で、この幸せがダナの努力のたまものでも誰かの善意でもなく、単なる偶然の産物であることを理解するには幼すぎた。




 青空が広がる春の日の午後、ダナは領主様所有の麦畑で雑草取りの仕事をしていた。昨年の秋の終わりに蒔いたパニス麦の種が、三月の終わりにはチロチロと可愛らしい緑の芽を見せ、春の陽気と共に一気に背を伸ばした。今や畑には緑の麦穂が一面にたなびいている。だが当然ながら雑草もたくさん生えた。きっと人間に気持ちのいい季節は、植物にとっても気持ちのいい季節なのだろう。

 ネイ科の雑草は根がはびこる前に抜いておかなきゃならない。鋭い葉に気を付けながらダナが無心に雑草を引っこ抜いていると、少し離れた場所でドサッとなにかが倒れる音がした。

「サイード! 大丈夫!?」

 ダナは慌てて音がした方へ走ると、二つとなりの畝の間に灰色のチュニックを着た老人が地面に倒れているのが見えた。老人は左ひざを抱え、痛みに耐えるように体を縮こませている。ダナは老人のそばに駆け寄ると、痩せた体の下に腕を入れ、なんとかその上体を起こそうとした。

「サイード、しっかりして! すぐ助けるからね!」

 だが所詮は六歳の幼女。いくら相手が小柄で痩せているとはいえ、大人の体を起こすことなどできない。ダナがウンウン唸っていると、サイードはなんとか自分で肘をついて上体を起こし、ダナの肩を軽くポンポンと叩いた。

「ダナ、ありがとよ。心配かけてすまんな」

 サイードは大丈夫だと示すように小さく笑っている。だがダナはサイードの笑顔がたまに嘘をつくことを知っているので心配になった。

「サイード、足が痛むの?」

「はは、ちと足がつってしまってな」

 サイードは大したことじゃないと言うように左脚を軽く撫ぜた。サイードもダナと同じく奴隷だ。もう七十は過ぎている老奴隷。日に焼けたほっそりした体、真っ白な短髪、皺だらけの顔。長年の労働で腰は曲がっているが、手先は器用だし、重い荷物もヒョイと担ぐ。ダナを見つけると顔をクシャッとさせて笑う、働き者の優しいおじいちゃんだ。そんなサイードをダナは大好きで、だからこそサイードの足が痛むことにダナの胸も痛んだ。

 サイードの左脚の足首から先は無い。足首のところで不自然につるりと丸く途切れていて、そこに木製の義足を布でくくりつけている。ダナは以前、どうして足首から先が無いのかサイードに聞いたことがある。問われたサイードはしばらく黙っていたが、やがてダナを安心させるつもりか笑顔を作って答えた。「前のご主人様に切られたんだよ」。

 前のご主人様が誰か、どうして足を切られてしまったのか、ダナは怖くて聞けなかった。ただその時のサイードの笑顔がなぜかとても痛ましく見えて、ダナは訳もわからず申し訳ない気持ちになって、小さくごめんと謝った。サイードは「どうしてダナが謝るんだ、ダナはなにも悪くない、今の領主様はお優しい人だから心配するな」と逆にダナを慰めてくれた。

 サイードは義足を外して砂粒を払うと、ふくらはぎを軽くマッサージし、また布で足首にくくりつけた。そうして右足に重心をかけてヒョイと立ち上がり、何度か足踏みをしてバランスを確かめた。

「うん、左に重心を掛けなけりゃいけそうだ」

 そう言ってまた腰を曲げて近くにあった雑草を引き抜こうとする。その様子にダナはギョッとして止めた。

「サイード、ダメだよ! 草を抜いちゃダメ!」

「は? いやダナ、雑草は抜かなきゃ」

「そうじゃなくて! 今日はもう仕事しちゃダメ!」

 ダナが雑草を守るように両腕を広げて立ちふさがると、サイードは困ったように笑った。

「ダナ、そうはいっても」

「私が全部する!」

「ダナ、気持ちはありがたいが」

「私が走りながら両手で抜く! 全部綺麗にちゃんと抜く! サイードは小屋で麻茎をほぐしてて!」

「いやだが」

「一人でできるもん! 私はもう六歳だもん! サイードは小屋に帰らなくちゃダメ!」

 なんで六歳だと可能なのかダナ自身よくわからなかったが、ダナは確固たる意志を込めて命令した。以前にもサイードが倒れた現場にダナはいたことがある。その時は別の奴隷がサイードを担いで小屋まで送り、仕事を肩代わりしてやっていた。ダナはサイードを担ぐことは出来ないが、六歳にだってやれることはある。

「さ、小屋に帰ろう。私が送ってあげる」

 ダナはそう宣言すると、サイードの右手を握り、奴隷小屋に向かって引いた。たまにダナがおねえさんぶるとサイードは面白そうに笑う。今回も孫のようなダナが保護者面するのに、サイードは笑って降参した。

「わかった、ダナ。だが無理はするなよ? 明日の夜明けに儂がするから」

「大丈夫、ゆっくり寝てて。サイードは細っこいもん。たくさん寝ないと大きくなれないよ?」

「はは、ダナ、おまえはまだ小さいからたくさん食べてしっかり寝なさい。でも儂はもうジジイだから必要ないな」

「え? おじいちゃんだと大きくなれないの?」

「そうだよ、老人はもう成長しないんだ」

「そんなことないよ。だって肉屋のブッチャーさんはまたお腹が大きくなったって言ってたもん」

「ああ、ブッチャーさんは特別だよ。豚の脂身がお好きだからな」

「じゃあ今度ブッチャーさんに頼んで脂身をもらってくる。サイード、たくさん食べて大きくなってね?」

「無茶を言うな、枯れたジジイに脂身はきついぞ」

 ダナとサイードが笑いながら奴隷小屋までの道のりを歩いた。柔らかな春の日差し、淡い水色の空にヒバリの歌声。左右には豊かな緑の海がたなびき、そして隣には大好きなサイードまでいる。ダナは上機嫌でサイードと共に帰路を歩んだ。

 と、どこか遠くから何かが聞こえ、ダナは足を止めた。

 ベチンッと鞭でなにかを叩く音。アーッともオーッともつかない野太い悲鳴。その悲鳴が空気を震わせ、ダナの鼓膜に届いた。あれは家畜の鳴き声じゃない。

 人だ。

 おそらく大人の男の人が鞭で打たれ、悲鳴を上げている。

 その恐ろしい事実に気付き、ダナは心臓がキュッとした。サイードとつないだ手に力が入り、危険を探して目玉が動く。すると境界柵の向こう、隣の荘園の麦畑の中に板張りの屋根が見えた。あそこだ。おそらくあそこで、誰かが誰かを鞭打っている。    これまで話でしか聞いたことがなかったのに、実際に今、悲鳴が聞こえている。鞭打ち、焼きごて、裸、残飯、手掴み。これまで聞いた地獄の断片がダナの脳みそに浮かび上がる。

 サイードも同じように立ち止まっていたが、ダナの手をギュッと握り返すと、奴隷小屋に向かって足を踏み出そうとした。

「ダナ、帰ろう」

 ダナを見るサイードの顔には、なんの表情も浮かんでいなかった。いや、もしかしたらなにかあったのかもしれないが、幼いダナにはいつも優しいサイードが突然人でなしの冷たい人間に変わったように思えた。

 だから思わず声を上げた。

「た、助け、なきゃ」

 ダナの小さな訴えに、サイードは表情を無くしたまま繰り返した。

「ダナ、帰ろう」

「で、でも、あれ、誰かが」

「ダナ、帰ろう」

「で、でもサイードだって聞こえたでしょう? ひ、悲鳴が。きっと隣の」

「ダナ、なにも聞こえない、なにも見えない。大丈夫だ、帰ろう」

 そのサイードの言葉を否定するかのように、また鞭打ちの音と悲鳴があたりに響いた。ダナは頭が混乱して、訳もわからず訴えた。

「サ、サイード、助けなきゃ。だってサイードが言ってたじゃない。人には優しくしなさいって。優しくしたら自分も優しくしてもらえるって」

「ダナ、隣は別の領主様の土地だ。儂たちに出来ることは無い」

「ね、サイード、助けに行こう。すごく痛そうだよ」

「ダナ」

「お願い、サイード。私、叩いている人に一生懸命お願いするから」

「ダナ」

「お願い、お願い、サイード。私、隣の畑の仕事をするよ、それで許してくれるかも。草抜きでもなんでもするから」

 また鞭打つ音と悲鳴が聞こえてきた。自分のことじゃないのに、自分のことのように怖い。早くあの悲鳴を止めたい。ダナは必死に頼んだが、サイードはギュッと目をつぶると繰り返した。

「駄目だ。ダナ、小屋に帰ろう」

「サイード、待って」

「ダナ、我々奴隷はヒトじゃない、モノだ。奴隷がどのような扱いを受けていても、誰も手出しはできない。他の奴隷を助けようとすれば我々が罰を受ける」

「サイード、お願い」

「ダナ、頼む。儂の頼みを聞いてくれ。儂はダナが鞭打たれ、足を切られるなど耐えられない」

「……」

 いまやサイードの方が泣きそうな顔でダナに頼んだ。その痛みをこらえるような表情に、ダナは言葉を失った。ダナの領主様は優しい。奴隷を鞭打つなんてしないし、足を切るなんてこともしない。ここは楽園で、外は地獄。

 だがこの時のダナは自分の領主様は優しくてよかったと思えなかった。初めて現実の悲鳴を聞いて、この世界への不安とか、助けられない罪悪感とか、自分に対する嫌悪感とか、よくわからない感情が噴き上がり、喉を塞いで喋れない。

 立ちすくむダナの耳をサイードはそっと両手でふさぎ、涙で緩んだ瞳を覗き込んだ。

「ダナ、大丈夫、儂がついている。ダナは大丈夫だ」

「……」

「ほら、大きく息を吸え。ゆっくり吐いて。そうだ、いい子だ」

「……」

 ダナは言われたとおりに何度か深呼吸してサイードを見つめ返した。サイードがそっと耳から手を離すと、断続的に続いた悲鳴がいつの間にか止んでいた。それでも顔を歪めているダナに、サイードは笑顔を作ってダナの手を握った。

「さあ、ダナ、小屋に帰ろう」

「……」

「ダナ、足が痛くて堪らない。小屋まで送ってくれないか?」

「……」

「そうだ、今晩はお屋敷にお客様がいらっしゃるそうだぞ? 早く帰って夕食の手伝いをしなくちゃな」

「……」

 サイードはダナに言い訳を与えてくれている。それがわかってダナはその優しさへの感謝よりショックを覚えた。サイードにもダナが本心では逃げたがっているがわかるのだ。ダナの助けたいという訴えはにせものだとわかるのだ。

 立ちすくむダナの手を、サイードがそっと引いた。

「ダナ、気に病むことはない。儂は知っているから」

「……なにを?」

「ダナは優しい子だってことを。さあダナ、小屋に帰ろう」

「……」

 サイードはこれで納得してくれといわんばかりに泣き笑いの表情をしている。だがその顔の奥には別のなにかがあって、ダナの胸は痛んだ。自分は今、サイードを困らせている。ダナは力なく頷くと、サイードと手をつないで自分たちの奴隷小屋へと歩き出した。

 優しい子。サイードはそう言ってくれたが、ダナはその言葉を飲み込めなかった。情けなさか、恥ずかしさか、自分でもわからぬ感情が身の中をグルグル回る。ダナは自分が安全ならば、いくらでも優しくなれる。サイードを助けることも、サイードの分の草抜きをすることも、ダナは喜んでやれる。

 でもそれ以上は出来ない。サイードの手を振り切って走り出すことができなかった。助けたいという思いのまま地獄に飛び込むことができなかった。ダナはわが身可愛さにあの悲鳴を見捨てたのだ。

 自分の優しさはにせものだ。おそらくかつてサイードは誰かを助けようとして足を切られてしまったのに。ダナは重い足取りで歩き続けた。




 翌朝、ダナは井戸端でフライパンを洗っていた。灰をつけた古い麻布でゴシゴシこすると脂が取れるが、ついでに指先もカサカサになる。でもおこぼれで貰った脂身たっぷりのベーコンと甘酸っぱい干しアンズに、ダナの頬は緩みっぱなしだった。昨日の悲鳴など、ベーコンとアンズですっかり消し飛んでしまっていた。

 ダナの所有者であるマクラレン様は、三十代の背の高い赤髪の男性で、若くしてマーロ帝国軍の中佐という地位にまで上り詰めた。なんでも南方の反乱奴隷鎮圧戦で目覚ましい成果をあげ、六年前にこの荘園を皇帝陛下から賜ったらしい。皇帝陛下から恩賞を賜るなんて、と村の大人たちは手放しで褒めそやしていた。

 そんなにすごいマクラレン様だが普段の食生活は極めて質素で、大麦パンや野菜スープや水で薄めたワインといった他の村人や奴隷たちとさほど変わらない。でも昨晩はお客様がお泊りになったので、夕食も朝食も豪華だった。夕食はキジの丸焼きに野ウサギのシチュー、朝食はベーコンに卵、それに干しアンズのパイまで。

 毎日お客様が泊まりにきてくれればいいのにとダナが食欲まみれの願望を抱きつつ洗い物をしていると、後ろから声がかかった。

「ダナ! ちょっとこっちに来て!」

 振り返ると、お屋敷の勝手口からエマさんが手招きしているのが見えた。エマさんはお屋敷の使用人で、厳しいけど優しい人だ。土がついたままでキャベツやニンジンを持っていくと「きちんと確認しなさい」と叱られるが、ちゃんと洗って持っていくと「よくできました」と褒めてくれる。

 ダナが急いで手を洗い勝手口に駆け寄ると、エマさんはしゃがんでダナの濡れた手を丁寧に前掛けで拭いてくれた。

「ダナ、指先がカサカサね。後で山羊の脂を塗ってあげるわ」

「ありがとうございます。でもあれ、臭いからちょっと苦手です」

「匂いくらい我慢なさい。ほら、髪の毛もボサボサだし」

「い、痛い! エマさん、痛いです!」

 ダナの絡んだボサボサ髪をエマさんは容赦なく手櫛で直そうとした。だがクルクル巻き毛はそうそう簡単にほどけない。エマさんは早々に諦めると、ダナのチュニックについた埃をパンパンと払ってくれた。

「身なりはこれ以上どうしようもないわね。ダナ、お行儀よくできる?」

「エマさんの命令なら。なにかあるんですか?」

「マクラレン様がダナをお呼びよ。応接室に来てくれって」

「え?」

 ダナは驚いてポカンとした。こんなことは初めてだ。なにせマクラレン様は領主様で、奴隷のダナとわざわざお話する必要はないし、なんなら敢えてダナを避けている節すらあったのに。

 ダナは遠くからマクラレン様のお姿を何度か見たことはある。背が高くて、がっしりした体型で、髪が燃えるように赤かった。マクラレン様は遠くにダナを見つけると、ほんのちょっとだけダナを見つめ、そのまま何も言わずにフイッとどこかに歩み去ってしまう。一見冷たい態度のようだが、ダナはマクラレン様を見かけると色んな想像で胸がほんわり温かくなった。

 そのマクラレン様が、どうしていきなり。いつまで経ってもダナがポカンとしたままので、エマさんは笑顔でダナの頭をなぜた。

「驚くわよね。初めてお父様に会えるのだから」

「えっ、と」

「ふふ、ダナの瞳、やっぱりマクラレン様にそっくりだわ」

「そ、そうですか」

 ダナは嬉しいのか恥ずかしいのかよくわからない感情で赤くなった。

 ダナはこのあたりでは珍しい緑色の瞳をしている。そしてマクラレン様の瞳も同じく緑色だ。二人は父娘だと村人たちは公然と噂していた。

 マクラレン様が南方の戦地から赤ん坊のダナを抱いてこの荘園へやってきた時、ダナの出自について村人にはなんの説明もなかった。ただ一言「この子はダナ、みんなで面倒をみてやってくれ」とだけ。その言葉に村人たちは察した。この子はマクラレン様の隠し子だ、と。

 嫡出子でなく隠し子だと言われる所以は、マクラレン様が独身だからだ。加えて瞳の色以外に二人の外見は全く似ていない。ダナはこげ茶のボサボサ髪に薄い褐色の肌、小さな鼻に瞳がギョロリと大きい。対してマクラレン様は鮮やかな赤髪に白い肌、高く通った鼻筋の奥に緑色の瞳が輝いている、らしい。なにしろダナはマクラレン様を間近で見たことがないので全部伝聞だが。

 村人たちはダナのことを公然と隠し子として扱っていた。「ダナの母ちゃんはきっと奴隷だったんだね」「マクラレン様は南方で道ならぬ恋に落ちたんだよ」「ダナ、奴隷扱いでもマクラレン様を恨むんじゃないよ」「奴隷は結婚できないからね、これはしょうがないことなんだよ」。

 村の大人たちの同情するような口ぶりに、ダナはちょっと困惑していた。ダナは奴隷であることになんの不満も無い。むしろ自由民の方が大変だなあと思っている。でも大人たちはダナを気遣ってくれているのもわかるので、いつもあいまいな笑顔で頷いていた。

 とはいえ、父親であるマクラレン様に興味がないと言えば嘘になる。ダナが赤くなってモジモジしているのを、エマさんは微笑ましく眺めた。

「さあ、応接室まで連れて行ってあげる。ダナは応接室に入ったことある?」

「いえ、ありません。台所にしか入っちゃダメと言われているので」

「ダナは口が達者で生意気だけど、言いつけを守れるいい子よね。だからマクラレン様もダナに会いたいと思われたのよ」

「そ、そうだったら嬉しい、です」

「ダナ、マクラレン様の前でもいい子にしているのよ? お客様もいらっしゃるから」

「お客様? 昨晩いらっしゃった?」

「そう、マクラレン様のご学友らしいわ。あ、学友っていうのは学校の友達のこと。ダナ、学校はわかる?」

「はい。マリーちゃんとカトリーヌちゃんが通っている所でしょう?」

「ああ、あれはニームの神殿が無料で教えてくれる子供教室よ。マクラレン様が通った学校は、もっと大きな街にある選ばれた人だけが行ける学校なのよ」

「え、マクラレン様、すごい」

「そうよ、とってもすごいの。マクラレン様は頭がいいのよ。それにお優しいし。この荘園にマクラレン様が来てくれて本当に良かった。前の領主様は」

「前の領主様は?」

「いえ、なんでもないわ。さ、行きましょう」

 エマさんはダナの手をキュッと握ると、台所を抜けて廊下に入った。ダナにとっては初めての空間だ。黒光りする板張りの長い廊下、灰色の壁にはどこかの風景やだれかの肖像を描いた絵がかかっている。ダナの生活は奴隷小屋と家畜小屋と畑、それにお屋敷の台所で完結していたので、こんな綺麗で清潔な香りまでする別世界にドキドキした。

 廊下の一番端まで来ると、エマさんはドアを控えめにノックした。

「マクラレン様、ダナを連れてまいりました」

「ありがとう、エマ。中に入れてくれ」

 低い男性の声が返事をすると、エマさんはドアを半開きにしてそっとダナの背中を押した。口パクで「ガンバレ」と伝えてくれる。なにを頑張るのかわからないがダナはコクンと頷くと応接室の中に入った。

 薄暗い廊下から一転、応接室の中は光で溢れていた。高価なガラスが嵌った縦長の窓がいくつも並び、隅には大きな暖炉がデンとある。黒々とした板張りの床には毛足の長いカーペットが敷かれ、その上には分厚いソファが据えられていた。

 一人掛けのソファに座る男性の髪は、燃えるように赤かった。マクラレン様だ。マクラレン様がこんなに近くに。マクラレン様は、聞いていた通り、ダナと同じ緑の目をしていた。軍人らしく長身でがっしりした体、意外と質素な白いシャツと黒いズボン。

 マクラレン様は、ダナに会えて嬉しいのかよくわからない複雑な表情をしていた。正直、ダナも嬉しいのかどうかよくわからなかった。森で大きな鹿を見つけて「うわあ、大きな鹿だ」と思った時のように、「うわあ、本物のマクラレン様だ」という訳のわからない感動に包まれていた。

 あんまりダナがマクラレン様を凝視するので、マクラレン様は気まずそうに視線を逸らした。それにもう一人の男性が笑って声をかけた。

「おい、おまえから彼女に声をかけてやれよ」

「そうは言ってもな」

 マクラレン様は困ったように返し、そこでようやくダナは自分がマクラレン様を見つめすぎていたことに気付いた。慌てて視線をもう一人の男性に目を向ける。この方がご学友のお客様だろう。お客様はマクラレン様と同年代の男性だった。マクラレン様より小柄で、陽気そうで、親しみやすそうな雰囲気。こちらの男性はマクラレン様と違い、白いシャツに繊細な金糸の刺繍が施された黒いジャケットを羽織っていた。

 ダナはマクラレン様に気に入られるよう、精一杯礼儀正しく名乗った。

「ダ、ダナと申します、お初にお目にかかります、ダナと申します」

「あは、ダナちゃん、そんなに固くならないで。もっとこっちに来てくれる?」

 ダナが緊張して二回名乗ると、お客様は笑って手招きした。ダナが恐る恐るソファに近づくと、お客様も名乗ってくれた。

「僕はジャルーズ。マクラレンの友達だよ」

「はい、ジャルーズ様、はじめまして」

「はい、はじめまして。ダナちゃんは礼儀正しい子だね」

「あ、ありがとうございます」

「それにとっても可愛いし。誰かさんにお目目の色がそっくりだ」

「おい」

 マクラレン様がギロッと睨んだが、ジャルーズ様は小さく肩をすくめただけだった。ダナがこのやり取りに首を傾げると、ジャルーズ様はダナに笑いかけた。

「ダナちゃん、きみはどうしてここに呼ばれたと思う?」

「いえ、聞いていません」

「僕はきみがどう考えているかを尋ねたんだ」

 ジャルーズ様は笑っているが、たぶん笑っていない。なんとなくそう感じたダナはちょっと身構えたが、恐る恐る自分の考えを話した。

「マクラレン様と私のお話かと思います」

「うん、どんな話だと思う?」

「私がマクラレン様の隠し子だということについて」

 さっきジャルーズ様が目の色をほのめかしたのは、きっとこの件についてだ。でも口にした途端、ダナは後悔した。道ならぬ恋、別れ、隠し子。村の大人たちが言っていた言葉がよみがえる。隠し子のことはマクラレン様にとって辛い思い出に違いない。マクラレン様がご気分を悪くされたらどうしよう。

 だがダナの後悔をよそに、マクラレン様はハアとため息をつき、ジャルーズ様は大きく吹き出した。

「ブハハ! 聞いたか、マクラレン! この子はおまえの隠し子だって! 本人の証言だ! こりゃ確かな情報だぞ!」

「そりゃな、村中でそう言われているのは俺だって知っている。当然この子も知っているだろうさ」

「結婚していない、女すら一度も買ったことがないおまえに隠し子! すごいな、おまえは童貞なのにパパだ! 処女懐妊ならぬ処女種付けか!?」

「黙れ、子供に下品なことを聞かせるな」

「下品だと!? 子供は愛の結晶だろう!? その言い草こそ子作りを下品なことにするぞ!」

 知らない単語が多くて意味がよくわらかなかったが、ダナはこのやり取りになんだか居たたまれなくなった。ジャルーズ様はダナの発言で笑っている。一方のマクラレン様は困っている。これは、つまり。

 ダナがぐるぐる考えていると、マクラレン様が腹を決めたように息をつき、ダナに顔を向けた。

「ダナ」

「はい」

 初めてマクラレン様に名前を呼ばれた。ダナが緊張して返事をすると、マクラレン様はまっすぐダナを見つめた。六歳の子供相手なのに、マクラレン様はとても誠実で、真剣な様子だった。

「ダナ、申し訳ない。はっきり言う」

「はい」

「俺は、おまえの父親ではない。目の色が同じなのは単なる偶然だ」

「……はい」

 まあ、さっきの会話で薄々そうかもと思った。ダナはマクラレン様の隠し子じゃない。村人たちやお屋敷の人たちはみんなそう言っていたけど、ご本人からはっきり否定されてしまった。がっかり、というのが一番近い感情なのかも。森で大きな鹿を見つけたと思ったのに近づいたら枯れたベリーの茂みだった時のような、そんながっかり感。なにかを期待していたつもりはないが、それでもなにがしかを期待していたのかもしれない。

 マクラレン様はダナの様子を心配そうに伺った。

「ダナ、大丈夫か?」

「……はい、大丈夫です」

「その、なんというか、本当にすまん。噂は知っていたんだが、そうしておいた方がおまえの扱いが良くなるかと思ったし、俺の子じゃないというと、その、おまえを傷つけそうな気がして」

 マクラレン様は悪くないのに、しかも領主様なのに、奴隷のダナに対して申し訳なさそうに謝っている。

 その心が嬉しくて、ダナはマクラレン様にお礼を言った。

「……ありがとうございます。マクラレン様はお優しいですね」

「六歳の子供に褒められると複雑だな」

 マクラレン様は情けなさそうに笑い、つられてダナも小さく笑った。うん、マクラレン様はやっぱり優しくて、いい人だ。だから大人たちもみんなマクラレン様が大好きなのだ。マクラレン様の奴隷でいられるだけでダナは幸せだ。

 ダナの様子にマクラレン様は安心したのか、本題を切り出した。

「ダナ、実は今、俺に結婚話が持ち上がっている」

「あ、え、ご結婚……? お、おめでとうございます!」

 いきなりで驚いたが、ダナは心から祝福した。村の大人たちはそんなこと一言も言っていなかった。むしろ「マクラレン様はご結婚なさらないのかしら」「優しい奥方様がいいわね」「きっと可愛い赤ちゃんが」と話していたのに。これは村の誰も知らない最新のビッグニュースだ。こんな吉報をわざわざダナに教えてくれるなんて、結婚式でダナに手伝って欲しい仕事があるとか、なにか素敵な頼み事かもしれない。

 ダナの興奮した様子に、マクラレン様はあまり嬉しくなさそうな様子で礼を言った。

「ありがとう。まあ、俺としてはここからが正念場だが」

「ええと、マクラレン様は、その、ご結婚が嬉しくないのですか?」

「嬉しい嬉しくないというより、やらなければという義務感が強いな。政略結婚だよ」

「せいりゃく結婚?」

「愛ではなく、利益を求めてする結婚することだ。いや、政略結婚自体は悪いことじゃない。そうすることで領民が幸せになるなら、領主はそうするべきだ」

「あの、そのご結婚は、どうしてもしなくちゃダメなんですか?」

 マクラレン様の表情がどうにも苦々しそうで、ダナは心配になって尋ねた。それにマクラレン様は笑顔を作った。

「大丈夫だ、ダナ。俺はマーロ帝国の軍人だ。人民を守る立場にある。俺が結婚することで一人でも救われるならなんでもするさ」

「あの、でも」

「なんだ?」

「マクラレン様、その、お辛そうです」

 ここまで踏み込んでいいのか迷ったが、ダナはマクラレン様の人となりに甘えて正直に言った。マクラレン様は笑っているが、笑っていない。サイードが左脚のことを教えてくれた時のような、痛そうな笑顔。

 小さなダナの心配に、マクラレン様の顔から笑顔が抜けた。やがてフウと息をつき、真剣な眼差しをダナに向けた。

「ダナ、おまえは奴隷だ」

「はい」

「マーロ帝国の法では、奴隷は人間扱いされない。所有物であり財産だ。鋤や鍬、椅子やテーブル、牛や豚と同じ。極端な話、殺してしまっても罪には問われないんだ」

「は、い」

「すまん、脅すつもりはなかった。俺はそんなことはしない。でもそうじゃない人も多い。奴隷の歴史は一千年以上も続いていて、奴隷の存在は家畜と同じく生活に欠かせないものだ。奴隷を鞭打つ人がいたとして、その人が特段人でなしの異常者という訳ではない。その人にも愛する家族や友人がいるのだろう、そういう人でも奴隷を鞭打つ。それが普通のことであり日常のことだから」

「……」

 どうしてマクラレン様はこんな話をなさるのだろう。ダナは不安になった。マクラレン様の話は、六歳のダナでも知っている。外の世界は怖い所。それをなぜわざわざ。

 ダナがなにも言えずにいると、マクラレン様は話を続けた。

「ダナは見たことあるか? 隣の荘園の奴隷たちの様子を」

「……」

 見たことは無い。でも昨日聞いた。誰かの悲鳴を。だがそれを口にするのが怖い。悲鳴を見捨てたことを言えば、きっと自分は軽蔑されてしまう。

 黙りこんだダナにマクラレン様はどう思ったのか話を続けた。

「ダナ、隣の荘園では奴隷に毎日の作業量が定められているそうだ。本来達成可能な基準よりも、ほんの少し困難な基準を。基準を達成できた奴隷にはパンとスープ、そして次の日はより困難な基準を。基準を達成できない者は鞭打たれ、食事を抜かれる。彼らは終わりのない踏み車を踏み続けている、死にしか安らぎが見いだせない」

「……」

「ダナ、俺は南方で追い詰められた奴隷たちを見てきた。だが二度は見たくない」

「……」

 マクラレン様の口ぶりは静かだが、その底にはなにか大きな感情を滲ませていた。ダナは南方の奴隷たちがどのような扱いを受けていたのかを知らない。でもこんなに強そうなマクラレン様がもう見たくないとおっしゃっている。きっとダナでは耐えられないようなことだ。

 ダナが黙って俯くと、マクラレン様は気分を変えるように明るく話しかけた。

「大丈夫だ、ダナ。そのために俺は隣の荘園の娘と結婚することにしたのだから」

「……どういうことですか?」

「俺にできることは少ないが、やれることはある。俺が隣の領主と姻戚関係を結べば、隣の荘園経営について口を出せるようになる。当然、奴隷の扱いについても。結果さえ出せば、隣の荘園主も俺のやり方に納得してくれるだろう」

「は、はい、マクラレン様、どうかお願いします」

「ああ、まかせろ」

 マクラレン様は安心させるようにダナに笑ってみせた。よかった。マクラレン様がなにをなさるつもりかわからないが、マクラレン様が大丈夫だとおっしゃっているのだからきっと大丈夫。あの悲鳴をもう聞かずに済むのだ。

 ダナも安心したように笑い返すと、マクラレン様は笑いを収め、真剣な表情になった。

「だがダナ、この結婚について一点、先方が難色を示している」

「なんしょく?」

「しぶっているという意味だよ。花嫁予定の娘さんが、ある問題が解決されない限り結婚はしないと言っているんだ」

「そんな、マクラレン様はお優しくて、頭もよくて、とても素晴らしい方なのに。あの、私、花嫁様にマクラレン様の良い所をたくさんお話してきます」

「はは、ありがとう。でもすまん、問題は俺じゃない、ダナなんだ」

「え、わ、私?」

「そうだ。俺に隠し子がいるという噂に、先方が難色を示しているんだ。隠し子がいる不誠実な男との婚姻は嫌だと」

「あ」

 なんと、まさか自分の存在がマクラレン様の結婚を邪魔するなんて。どうやら結婚に際して隠し子の存在は嫌われるらしい。

 ダナは焦って解決策を絞りだした。

「あの、私、花嫁様に説明してきます。マクラレン様の隠し子じゃないって。一所懸命説明すればきっとおわかりくださるかも」

「いや、説明は俺もした。先方は説明ではなく、行動を求めておられる」

「行動?」

「ああ。おまえが隠し子でないなら、おまえをどこかへ売り払え、と」

「え?」

「おまえが本当に拾ってきた奴隷なら、おまえを売ってそれを証明しろ、ということらしい。それが結婚の条件だそうだ。感情的な問題もあるだろうが、将来の遺産相続でもめるのを懸念しているのだろう」

「え、あ」

「まったく、ひどい話だ。ダナは俺だけでなく村人全員の娘なのに」

「……」

 マクラレン様はその時のことを思い出しているのか苦々しい表情で吐き捨てた。ダナは肯定していいのか否定していいのかわからず黙った。

 もちろんダナは売られたくない。どうやらマクラレン様もダナを売ることに否定的なご様子だ。でもマクラレン様はダナの存在が結婚の障害だとおっしゃった。あの荘園奴隷の悲鳴……。ここはわが身を顧みず、どうか自分を売ってくれと言うべきところなのか。

 ダナが葛藤に口をつぐむと、マクラレン様はダナをジッと見つめ、ポツポツと昔話を始めた。

「俺はどこかの奴隷女性と関係を持って、おまえを授かったと噂されている」

「は、い」

「だが俺にはかつて恋人がいたことはないし、当然おまえは俺の子供でもない」

「は、はい、それはもう承知して」

「六年前、俺は南方へ反乱奴隷の鎮圧に行った。その緒戦、ダーマラダという町での戦闘でのことだ。多くの建物が火を放たれ、打ち壊されていた。その中の一棟から、赤ん坊の泣き声が聞こえた。それがダナ、おまえだった」

「私?」

「そう、おまえだ。赤ん坊のおまえは若い女性に抱きしめられた状態で、崩れた梁の下敷きになっていた。俺が見つけた時、すでに女性は死んでいた」

「……」

 マクラレン様はギュッと拳を握りしめると、その女性のことを思い出せるだけ語って聞かせた。

「その女性は奴隷用のチュニックを着て、薄い褐色の肌をしていた。黒髪。目の色はわからん。顔立ちも血や煤で判然としなかった。細い体、折れそうに細い体だった。ただその女性は、死してなお、おまえをしっかり抱きしめていた。口元がほんの少し上がっているように見えたよ。まるでおまえに笑いかけているようだった」

「……」

 マクラレン様の声はほんの少しだけ震えていた。マクラレン様の話にダナは胸が苦しくなった。ダナを守って死んだ人。ダナの母親だったかもしれない人。記憶がないし、その腕の感触も覚えていない。そもそもダナは母親がどんなものかを知らない。だけど熱いなにかが胸を満たして苦しい。

 ダナがなにも言えずにいると、マクラレン様は気分を変えるようにコンとご自分の額を叩いた。

「つまりおまえは、俺にとって、小さな希望だったんだよ。あの悲惨な内戦から、ほんの少しでいい、なにか得られたものがあったとしたら、ダナ、それはおまえだった。おまえがたくさんの人に慈しまれ、健やかに育つ姿は、俺の慰めになったよ。ありがとう、ダナ」

「……わ、私こそ」

「だがな、ダナ。俺はマーロ帝国の軍人だ。一人でも多くの人民を守りたい」

「は、い」

 ああ、この流れは嫌だ。ダナはまだ六歳だが、マクラレン様がこの次になにを言おうとなさっているのかわかって奥歯を噛みしめた。

 マクラレン様は静かな、だが決然とした声で、ダナに宣言した。

「ダナ、俺はおまえを売ることにした」

「……は、い」

 やっぱり。そう言われるのがわかっていても、体がズンッと重くなった。目頭もジワリと熱くなった気がする。だがここで泣いてはマクラレン様が気に病まれる。ダナは指先の震えをギュッと拳を握って抑えた。

 マクラレン様は、その必要もないのに、また謝った。

「すまん、ダナ」

「……い、いえ、マクラレン様、どうか頭を。わ、私も、そうするのが、よいかと」

 マクラレン様がダナに頭を下げている。それをダナは慌てて止めつつ、機械的に言葉を紡いだ。

 本当は嫌だ。怖い。荘園の外は怖いところ。鞭を打たれ、足を切られる世界。恐怖が体を蝕む。でもダナは奴隷で、マクラレン様の持ち物で、ダナをどうするかはマクラレン様の自由で、だからダナの意思なんて関係なくて。

 ダナが自分の恐怖を必死に説得していると、それまでずっと黙ったままだったジャルーズ様が口を開いた。

「安心して、ダナちゃん。僕に任せて」

「ジャルーズ様、あの」

「僕は特別な奴隷商人につてがあるんだ。貴族や金持ちだけを相手にしている奴隷商人だよ」

「え、あ」

「そいつは違法なことはしないし、奴隷市場で叩き売るなんてこともしない。奴隷の適性を見極め、きちんとした買い手にだけ紹介している。きっとダナちゃんにも優しいご主人様を探してくれるよ」

「は、はい」

 ジャルーズ様はニコニコ説明してくれるが、ダナはさきほどの恐怖が抜けきれず、心ここにあらずといった返事をした。そんなダナの様子に、マクラレン様は厳しい視線をジャルーズ様に向けた。

「ジャルーズ、本当に頼むぞ。ダナはこの村の大切な娘だ」

「わかってるって。さ、ダナちゃん、行こうか」

「え、あ、今からですか?」

 あまりに唐突でダナが戸惑うと、やっぱりジャルーズ様はニコニコと続けた。

「せめてみんなに別れの挨拶を、だろう? 止めておいた方がいい。みんなが辛い思いをする」

「え?」

「きみを売ることと、隣の荘園奴隷たちの待遇を秤にかけて、マクラレンは後者を取った。だがこの村の人たちは、どうかきみを売らないでくれとマクラレンに泣きつくだろう。隣の荘園奴隷など放っておけ、どうして彼らのためにダナちゃんが犠牲になるのかって」

「そう、でしょうか」

「そうだよ。この村の人たちは、きみを愛しているからね。ダナちゃんだって彼らを愛しているだろう? 彼らの一人が誰かのために犠牲になるなら、止めてくれって頼むだろう?」

「……はい」

 ジャルーズ様の話は正しいように聞こえる。ダナはよくわからないまま頷いた。犠牲による愛なんて、やっぱり間違いなのかもしれない。でも、じゃあ、あの悲鳴はどうしたら。

 ダナがそれきり黙ると、ジャルーズ様は優しく語りかけた。

「ダナちゃん、マクラレンはね、いい奴なんだよ。憎まれ役だって引き受ける。ダナちゃんが売られた後なら、村人たちにはどうすることもできない。ただマクラレンを恨むだけだ。恨まれることをわかったうえで、マクラレンはきみを売ることを決めたんだ」

「……」

「ダナちゃん、マクラレンの決心を褒めてあげてくれないかい?」

「……」

 ジャルーズ様に促されて、ダナはマクラレン様を見た。マクラレン様はダナの前に膝をつき、慈愛に満ちた目で見つめた。

「ダナ、幸せになるんだぞ」

 そう言うとマクラレン様はダナをギュッと抱きしめた。初めての抱擁に、ダナは驚きに固まった。大きな体、土と汗の匂い、体温。そういったたくさんのはじめてにダナは頭が真っ白になったが、腕が自然にマクラレン様の体を回った。時間にしては僅かだった、二人は濃密な抱擁を交わし、そっと離れた。

「……ま、マクラレン様、い、今まで、ひっ、あ、ありが、ひっ、ござ、ました」

「ダナ、俺こそ、ありがとう」

 ダナが嗚咽をこらえ途切れ途切れにお礼を言うと、マクラレン様もしっかり返してくれた。間近で見る緑の瞳がほんの少し潤んでいるように見える。ああ、やっぱりマクラレン様のもとにいたい。お願いしますどうか売らないでと訴えたい。でもマクラレン様は決めたのだ。お優しいマクラレン様を困らせたくない。

 ジャルーズ様に促され、ダナは身が裂けるような思いで応接室を出た。




 ジャルーズ様の馬車はとても立派だった。少なくともダナが知る農作業用の馬車よりずっと立派だった。二頭立てで、屋根と扉が付いたコーチの黒い外装はピカピカに光っていて金色のつる草模様もピカピカに光っている。内装もクッション張りのフカフカの椅子。

 ダナはジャルーズ様の向かいに座り、ずっと緊張していた。頭はぐるぐる回っているが、考えが一つに集中できない。豪華な馬車、これから売られるという現実、初めて見る荘園の外の景色。そういった情報の洪水に圧倒され、考えているつもりで考えられない。

 しばらくの間、馬車の中には馬と車輪の音だけが響いていたが、やがて片肘をついて窓の外を眺めていたジャルーズ様がポツリと話しかけた。

「ねえ、ダナちゃん」

「はい」

「ダナちゃんはマクラレンのことが好きかい?」

「はい、もちろんです」

 どうしてそんな当たり前のことを。ダナは一瞬戸惑ったが、自分の気持ちをしっかり表明した。

 そんなダナの回答をジャルーズ様はわかっていたのか、さして感動したふうもなく流した。

「そうだね、優しくされれば好きになるよね」

「はい」

「ダナちゃんはマクラレンの奴隷で幸せだった?」

「は、はい」

 ジャルーズ様の質問にはなにか引っかかるところがある。でも否定はできない。実際、ダナはマクラレン様の奴隷で幸せだった。

 ダナの答えに、ジャルーズ様はチラリと皮肉げな視線をやってまた窓の外に見つめると、独り言のように話し出した。

「マクラレンはね、いい奴だよ。勇敢で、誠実で、賢くて、思いやりがあって。戦場でも部下に慕われていたし、理不尽な命令には毅然と反論していた。でも、というか、だからこそ、上層部の信頼も厚かった。そんな奴だから反乱奴隷もあいつの説得には耳を貸したんだろうしね」

「はい」

「マクラレンは優しい。弱きを守り、強きを挫く。でもさ、それってどうなのかな?」

「え? えっと」

 ダナは困惑した。ジャルーズ様の質問の意図はわからないが、それでもジャルーズ様が優しいマクラレン様に否定的なのはなんとなくわかる。優しいことのなにが問題かわからなくて、ダナはあいまいに口ごもった。

 ジャルーズ様はダナの回答にさして期待していなかったのか、淡々と持論を語った。

「奴隷制は人間が作り出した制度だ。法的に奴隷は家畜と同じ動産で、人間とコミュニケーションがとれる便利な道具にすぎない。だから僕は奴隷を道具扱いする奴らはまだ理解できる。だが奴隷を人間扱いする奴らはなんだ? 奴隷という身分をわざわざ作り出し、虐げられた人々に優しくする。社会的に惨めな人々を作り出し、その人たちをなんて可哀そうだと憐れむ。自作自演の喜劇だよ、ただし全然笑えない」

「……」

「ダナちゃんは自分の住む家が家畜小屋の隣でもなんとも思わないの? 食事にマクラレンと僕の残飯を出されて嬉しいの?」

「……」

「ダナちゃんは奴隷で幸せだって言うけど、奴隷が奴隷制を支持することになんの疑問もないのかな?」

「……」

 やっぱりジャルーズ様の言うことはわからない。質問に答えは「はい、なんの疑問もありません」だが、こう言ってはたぶんジャルーズ様の機嫌を損ねるのもわかる。

 ダナが相槌すら打たず無言でいると、ジャルーズ様はハアとため息をついた。

「マクラレンはいい奴だよ。でも奴隷に優しくすれば、奴隷制をより強固にする。奴隷自身が奴隷であることに疑問を持たなければ社会は変わらないのに」

「……」

「はは、ダナちゃんはおしゃべりだと聞いていたけどずっと黙りっぱなしだね。ごめんね、ぜんぶ僕の独り言だからダナちゃんは気にしないで」

「……あ、あの」

「ん、なにかな、ダナちゃん」

 ダナの生殺与奪の権利は今やジャルーズ様が握っている。ジャルーズ様の話は全く理解できなかったが、なんだか嫌な予感が胸を蝕む。

 ダナは勇気を出して聞いてみた。

「あの、ジャルーズ様は、私をどうなさるおつもりですか?」

 その漠然とした質問に、ジャルーズ様は初めて面白そうにダナを見た。

「ダナちゃんは不安なのかな?」

「その」

「いいよ、なんでも言って。奴隷と話をする機会なんてそうそう無いし」

「その、ジャルーズ様は、私に」

「私に?」

「私に優しくしたくないのですか?」

「おや、僕の話を理解していないと思ったけど、そうでもなかったんだ」

 ジャルーズ様はニコッと笑ってくれたが、ダナはこんな笑い方をする大人が初めてで思わずビクッと身をすくめた。ジャルーズ様の笑顔は、笑いながら殴りつけてくるような怖さがある。

 そんなダナの態度に、ジャルーズ様は笑顔のまま謝った。

「ごめん、そんなに脅すつもりじゃなかった。僕は残酷なことは苦手だし、子供を虐める趣味もない。でもダナちゃんをまた優しいご主人様のもとに届けたら、きっとダナちゃんはやっぱり奴隷最高!ってなると思うんだ」

「……」

「だからダナちゃんを一般的な奴隷と同じ扱いをする。それだけだよ」

「……」

 それだけと言われたが、それがどんなことを意味するのか考えるのが怖い。ダナが黙っていると、ジャルーズ様は構わず説明を続けた。

「たしかに僕は特別な奴隷商人に伝手がある。でも正直、ダナちゃんをそいつに売るのは無理なんだ。マクラレンには出来ると言ったけどね。やつらが欲しいのは美しい成人奴隷。いくら可愛くても六歳ではさすがに売れないよ」

「……」

「あはは、だから大丈夫だって。きみを普通の奴隷商人に売る、それだけだよ。他の奴隷はみんなそうやって市場に流通している。ダナちゃんは市場に行ったことはあるかい? 皿やスプーン、鋤や鍬、馬や牛、いろんな道具と一緒に奴隷も売られているんだ」

「……」

「ダナちゃんは六歳にしては賢いし口が達者だね。でもここらは公用語のマーロ語だけど、他の地方にいくと違う言語になる。売れ残って遠い市場まで回されると言葉が通じなくなるよ。早く売れるといいね、ダナちゃん」

「……」

 ジャルーズ様は、いまやダナの返事があろうがなかろうがどうでもよさそうで、また窓の外に視線をやると鼻歌を奏でだした。その楽しげな様子に、ダナの心はじわじわ蝕まれその重さに頭を垂れた。

 マクラレン様が信頼なさっているほどジャルーズ様は良い人じゃなかった。いや、良い人ではあるのかもしれない、たぶんジャルーズ様は奴隷制に反対なのだ。でもダナ個人のことはどうでもいい。ダナにも他と奴隷と同じように、奴隷の辛さを味わえと言っているのだ。

 これはきっと罰だ。あの悲鳴を無視した罰。心が痛んだし後悔もしたが、また同じように悲鳴が聞こえても、ダナは無視するだろう。自分にはなにもできないと自分に言い訳をして。サイードもマクラレン様も、誰かを助けるために辛い思いをしたのに。でもダナは辛い思いをするのが嫌で、あの悲鳴を無視した。だから罰としてあの楽園を追放されたのだ。

 ここはもう地獄。ダナがあの奴隷を助けなかったように、ここでは誰もダナのことを助けてくれない。六歳のダナは地獄の淵にあっさり放り込まれた。

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