【第2話 演技のキス、心の距離】

 夕焼けが校舎をオレンジ色に染める放課後。  人気のない中庭で、悠斗と梨央は向かい合っていた。

「……で? どういうこと?」

 悠斗の問いかけに、梨央は少しうつむいて唇を噛んだ。  蝉の鳴き声がかすかに響く中、彼女はゆっくりと口を開いた。

「ごめんね、急に。……でも、どうしても、悠斗くんじゃないとダメだった」

 その言葉に、悠斗の心臓が跳ねた。  それでも表情は変えず、彼女の言葉を待つ。

「最近、男子にしつこく絡まれたり、噂されたり……嫌だったの。だから、“恋人がいる”ってことにすれば、少しは静かになるかなって思って」

「……それで、俺?」

 梨央は静かにうなずいた。

「悠斗くんなら、安心できると思ったの。昔から、優しかったから」

 その“昔”という言葉が、二人の間に沈黙を落とす。

 ——中学の頃。  図書室の窓辺で、一緒に本を読んだ放課後。  手が少し触れただけで、ドキッとした。  何気ない会話、優しい笑顔、そして——  あの時のキス。

 悠斗は記憶を振り払うように息を吐いた。

「……わかった。引き受けるよ」

 自分の胸に渦巻く感情は、ひとまずしまっておくことにした。

 翌日——  噂はすでに学校中に広まっていた。

「えっ、姫野さんと真壁くん!?」「ウソでしょ!?」

 悠斗が教室でノートを開くと、隣の席の翔太がすかさず話しかけてくる。

「お前、まさか……本当に姫野さんと!? なにそれ隠し球?」

「ち、違うって。……そういうんじゃないから」

 翔太はにやにや笑いながら背中を叩いてくる。

「ま、相手が姫野さんなら、いろいろあるわな!」

 授業が終わると、梨央がわざわざB組までやってきた。

「悠斗くん、ちょっといい?」

 教室が一瞬でざわつく。  視線が痛いほど注がれる中、悠斗は彼女と一緒に廊下へ出た。

「……噂、すごいね」

「想定内。でも、これでちょっとは静かになるでしょ?」

 梨央はそう言って笑ったが、その笑顔はどこか寂しげだった。

「でもさ……なんで俺なのかって、正直まだよくわからない」

「それは……私、まだ悠斗くんのこと、忘れられてないのかもしれない」

 ふとした表情で、彼女がそうつぶやいた。

「え?」

「……冗談だよ。演技の台詞として、ね」

 からかうような笑み。  でもその裏に、何か本音があるような気がして、悠斗は視線を逸らした。

 昼休み。  ふたりは学食で一緒にご飯を食べることに。  向かい合う席に座るだけで、周囲の目がチラチラと刺さる。

「なんか、見られてるね」

「うん……でも、気にしないで。演技なんだから」

 “演技”。  そう言われるたびに、悠斗の胸に小さな棘が刺さる。

「……それ、何食べてるの?」

「カルボナーラ。悠斗くんは?」

「焼きそばパン。……地味でしょ」

「ふふ、変わってないね」

 そんな何気ない会話が、妙に心地よかった。  けれども、それが“偽り”だということが、どうしようもなく切ない。

 放課後。  駅までの道を並んで歩く。

 ぎこちない沈黙。  ふと、梨央がつぶやいた。

「手……つなぐ?」

「えっ」

「フリだよ。人目あるし」

「あ、ああ……」

 そっと手を差し出すと、梨央が優しく指を絡めてきた。  その温度が、胸の奥まで染みていく。

「悠斗くんの手、あったかいね」

「梨央の手……ちょっと冷たい」

「うん。緊張してるのかも」

 その時だった。

「おーい、姫野さんじゃん!」

 向かいから来た他校の男子が声をかけてきた。

「今度、連絡先教えてよ〜」

 困ったような顔を見せた梨央。  悠斗は、とっさに彼女の肩を引き寄せた。

「彼女なんで、やめてくれますか」

 びっくりしたように目を見開く梨央。

「……あ、そうなんだ。ごめんごめん!」

 男子は笑って去っていった。

 梨央はふっと笑って、顔を近づける。

「ありがと。……演技、続けるね」

 頬と頬が触れそうな距離。  目を閉じそうになる自分に気づき、悠斗は心の中で叫んだ。

 ——これも演技、なのに。

 別れ際。  駅の階段で、梨央が振り返った。

「悠斗くん。……今でも、優しいんだね」

 そう言って、笑顔を残して去っていく。

 その夜——  梨央はスマホを見つめたまま、ため息をついた。

「やっぱり、好きだったな……悠斗くん」

 画面をそっと伏せ、彼女はそっと目を閉じた。

 演技のキス、そのぬくもりは、まだ心に残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る