17 始まりの静けさ

「きゃぁぁぁあぁあ!?」


 な、何……!? 悲鳴の方へぱっと振り返ると、風に乗ってきた鉄臭さが鼻を掠めた。……血の匂い?


「な、なぁ、大丈夫なのかあれ?」

「知らないよ。ぼくに聞かないでくれ」

「あの子、今自分で切ってたよね」

「どうして突然……」

「異能の暴走?」

「2年生だよ?」


 人だかりの方からそんな声が聞こえてくる。その隙間から見えたのはいつまで経っても見慣れない赤。じわりじわりと白いシャツを染めていく。血を流しているのはあの中心にいる人で間違いなさそうだ。


 異能の暴走、ではない? 1年生ならまだしも2年生がそうなるとは考えにくい。今まで暴走したのだって全員1年生だ。それに自分で切ってたって……。


 ——まるで、異能を使う時の私みたい。


 そう考えてしまったら、私と無関係なことだとは思えなくなった。自意識過剰だったらそれでいい。むしろそっちの方がいい。でも、どうしてかこれだけでは終わってくれない気がする。そう遠くない未来に、私があの中心にいる。じわじわと嫌な予感が襲ってくる。


 手足から温度が引いていく。冷たい汗が背筋を伝う。得体の知れない気持ち悪さが迫ってくる。


「……陽翠、大丈夫?」


 いつの間にか爪が刺さるほど強く握っていた手を、綾世先輩が優しく解いてくれた。そして心配を浮かべた顔で、私の正面に立って両手を包み込む。……私の手、今すごく冷たいですよ。先輩の手はせっかく温かいのに、このままだと温度を奪ってしまう。


「俺たちはここを離れよう?」

「で、でも……」


 綾世先輩の肩の向こう側では、ざわざわと静かな混乱を伝えてくる。叫んだり倒れたりと、大きく取り乱している人はいないけど、未だ人だかりは解散しない。今までの異能の暴走では見なかったものだ。


「布目先生が対応しているみたいだから、大丈夫だよ」


 ……確かに私がここにいたって何もできない。あの嫌な予感だって今すぐどうこうなるものとは違う気がする。ここにいたって、ぐるぐると考え込んで先輩たちに迷惑をかけるだけだ。


「……分かりました、すみません」


 食欲なんてもうどこかに行ってしまったけど、私たちは食堂へ向かって歩き出した。さっきの悲鳴、さっきの血の匂い、さっきの混乱……脳裏で鮮明に再生される。つい視線が下がってしまう。


「スイちゃんだいじょーぶ?」


 薔薇色の髪が視界の端で揺れた。顔を上げると、眉を下げた汐梨ちゃんと目が合った。


「うん、……ごめんね。大丈夫」

「ほんとに……? 顔色すっごく悪いよ?」

「方波見陽翠、保健室に行った方がいいのでは?」


 宇治先輩はくいっとメガネを上げながらぶっきらぼうに声をかけてくる。その裏には心配が透けて見えた。


 私、そんなに顔色悪いのかな。……でも、保健室は行きたくない。今一人になったら、この怖さに耐えられない。異能を暴走させる自信だってある。それこそ、こんな自信はいらないけど。


「保健室はやめておきたいです」

「だが……」

「陽翠がそう言うのならやめておこう? 何も、考えなしで言ったわけじゃないでしょ?」


 綾世先輩の言葉にそっと頷く。私を見て、大きなため息を吐いた宇治先輩は「分かった」と呟いた。




 食堂に着いたはいいものの、全く食欲がわかない。夜には治ってる、かな。


「スイちゃんは何か食べるの?」

「私はやめとくかな。汐梨ちゃんは?」

「うーん、ボクもかな。あんなことがあった直後だしねー。お腹空いてたのどこかに行っちゃった」


 「そうだよね」と言葉を返して、いつものようにお盆を取った先輩2人を見やる。食欲、あるんだ。どうやったらそこまで落ち着いていられるのかな。


「2人は食べないの?」

「そうですねー。食欲が微妙なので」

「じゃあ先に席で待っててくれる?」

「はーい。スイちゃん、行こ!」


 唐揚げを1つ多めに盛ってもらっている先輩たちを横目で見ながら、汐梨ちゃんに手を引かれて、空いている端の方の席に着いた。


「にしても、センパイたちどうなってるんだろうね?」

「すごい、よね」

「うんうん。何か特殊な訓練でも受けてるんじゃないかって思うよ。響センパイも法月センパイも、食欲あるみたいだし、ボクたちを気にかける余裕があったしね」


 特殊な訓練……綾世先輩ならきっと、冷静さと強かさを笑顔に乗せて、程よく手を抜きながらもこなすかな。宇治先輩なら澄ました顔で1から10まできっちりやっていそうだ。メガネをくいっと上げて「こんなものか」とか言っているかもしれない。


「あー!」


 突然汐梨ちゃんが大声を上げた。


「……ど、どうしたの?」

「やっと笑ったね、スイちゃん!」


 その言葉と同時に、ぽんと温かいものが頭に乗った。その手の主は、綾世先輩。


「十川さん、ナイス。さっきからずっと暗い表情だったからね。考えるのも悪くはないけど、息抜きは大切だよ」


 言われてみれば表情筋が強張っていた気がする。気にかけてくれていた2人の温かい心が、冷え切っていた体に染み渡っていく。ふわりと笑みが浮かんだ。


「お二人とも、ありがとうございます」


 2人はどういたしまして、と頷いてくれた。

 遅れてやってきた宇治先輩はテーブルに唐揚げ定食を置いた後、メガネをくいっと上げて言う。


「綾世、早く食べないと授業に遅れるぞ」

「それもそうだね。じゃあ、いただきます」


 ことりと、私と汐梨ちゃんの前に水の入ったコップが置かれる。宇治先輩は知らないフリをして「いただきます」と食べ始める。思わず顔を見合わせて、先輩に感謝の言葉を伝えた。


 ……こんな穏やかな時間が続けばいいなって、黒の異能者の私が思っていいのかな。

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