花天月地【第25話 飛べない鳥】

七海ポルカ

第1話



 司馬懿しばいが長安から戻った。



 その報せを受けた時、甄宓しんふつ陸議りくぎを座らせて、化粧のやり方を曹娟そうけんに教えてやっているという、穏やかな昼下がりを過ごしていた。

 

 別に遊んでいるのではなく、曹娟は自分をよく見せる化粧に無頓着だったので、陸議が女に扮する時は甄宓が彼に化粧をしてやっていたのだが、いくらなんでも毎回甄宓の手を煩わせるのは、彼女に呼ばれた時だけ扮するとはいえ申し訳ないから自分で出来るようにしたいと彼が言ったのだ。


 なるほどと思って「では私が教えて差し上げます」と言ったはいいものの、普段自身が化粧をしない曹娟が、理屈では分かってやってみたのだが、何故か上手くいかないのである。

 何がというわけではないのだが不自然で、当然陸議も何が甄宓にしてもらった時と違うのか分からず、鏡を二人で首をかしげて覗き込んでいるのを甄宓が見つけて、思わず笑ってしまったのだ。


「なあに? あなた達、まるで姉弟のように一緒に鏡を覗き込んで。

 可愛らしいわね」


 甄宓しんふつが見本を見せて化粧を直してくれるとやはり自然であり、濃淡がちゃんとある。


「絵のようなのですね」


 陸議には女の姉妹もなく母もなく、一族とも疎遠だったため、女性の着飾りには全く知識がない。

 思わず興味深そうにそう言うと、側で曹娟も器用な甄宓の手腕に感嘆したように頷いている。


「わたしは……甄宓さまは元々美しい方なので、何をしても美しいのだと思っていました。

 けれど自らこうして飾られる腕も素晴らしいのですね」


 それ以来、曹娟そうけんが陸議に化粧を施すのを、甄宓が横で見ながら助言を与えてやるという不思議な時間が生まれた。

 陸議も、すでにこれは厳粛な任務なのだと割り切ったようで、真剣な様子で自らもやり方を覚えようとしている。


 司馬懿は最近ずっと許都きょとと、洛陽らくよう、長安を行き来している生活だったのだが、正式に涼州りょうしゅう遠征の許可を曹操そうそう曹丕そうひが共に出したらしく、許都に戻って出陣準備を整え次第出発となるだろうということだった。


 先んじて司馬懿が戻り準備を整えるが、曹丕も一度許都に戻って来るという。

 

 だから甄宓しんふつはこの数日、非常に心が浮かれていた。

 表面上はいつも通り優雅に過ごしながらも、心境は踊り出したいほど明るくて、ついつい生真面目なこの二人の様子を可愛らしく思いながら眺めていた。


 曹娟はもしかしたら素性が分からず、司馬懿の側にいる陸議を警戒して嫌うかもしれないと思っていたのだが、意外なほど、彼女はあっさり陸議を受け入れたのも非常に興味深いことだった。


 少しでも正体の分からない人間が甄宓の側に寄るのを誰よりも嫌がるというのに。


 勿論、一番最初に甄宓が「陸議の素性を探るな」と命じたことも関係しているとは思うが、それだけでは曹娟は得体の知れないものにも、男にも気を許すはずがないのだ。

 陸議の誠実な人柄が、伝わっているのだと思う。


「まあ仲達ちゅうたつ殿がお戻りになられたのね。少し遅れていたから心配していましたけれど、きっと遠征になるから司馬家のご用事を済ませてきたのでしょう。

 私に遠征の詳細を話しておきたいと書かれているわ。

 ありがたいこと。これでわざわざ自分で探りを入れずに済むわ」


 フフ、と甄宓が微笑む。

「春まではご出陣はないと窺ってましたけれど、きっと事情が変わったのね」

 彼女は優雅にその事実を受け入れただけだった。

「涼州で冬を過ごすことになるのかしら」

「まだ……仔細は聞いていないので分かりませんが、恐らくそうなると思います」

 陸議がそう答えると、甄宓は頷いた。

「そうね。貴方はあまりお体が強くていらっしゃらないから……気をつけていらっしゃってね。伯言さま」

「はい。ありがとうございます」


 陸議は元々身体は頑強な方だった。

 呉にいた時も、多忙だったし色んな場所へ行軍したが、体調を崩したことはほとんどない。それが魏に来て、頻繁に熱を出したり、一日中目眩がして伏せっていることもある。


 多分、どこかが悪いわけではなく、全てが繋がっているのだろうと陸議は自分のままならない状況を冷静に考えている。

 気分が沈み、伏せっていると体調も崩れてくる。

 崩れてくると食欲がなくなり、また体調がおかしくなってくる。

 そういう連鎖の中にいる。


 司馬懿しばいは「戦場に身を置けば、自然と戦場に集中し、他のことなどどうでもよくなる」と言っている。


 本当にそうなるのかどうかは、陸遜は分からなかった。


 とにかく、司馬懿が連れて行くというのなら連れて行かれるのだ。

 いざ戦場となれば自分の役目は司馬懿の護衛、そんなものになる。

 


孫呉そんごの為に敵を斬る。

 それが私の誇りだった)



 それが今や、司馬仲達しばちゅうたつを守る為に人を殺めようとしている。


 別に相手に憎しみもなく、

 や司馬懿に忠誠を誓っているわけでもなく、

 未来をここで願っているわけでもないのに。


 そういう自分に殺される人間とは。


 ……死とは。


 魂とは。


 そんなことをふとした瞬間に思う。


 許都の新しいが、整然とした灰色の街を見下ろす時。

 修練場で、編成されたという部隊の修練を眺めている時。


 まるで救いを求めるようにそんな答えの出ないことをずっと考えている。



「あなたは、そうやって憂いていらっしゃる顔が一番美しいわね」



 ハッと顔をあげると、鏡の中で甄宓しんふつが微笑んでいる。


 彼女は夫を曹丕そうひに殺された。

 そしてその男に略奪されて妻になっている。

 かつて孫黎そんれいと会った時、孫呉そんごの姫にその境遇に対して同情を寄せられた時、この優雅な顔が豹変し、激怒して牙を剥いてきたのを陸議は間近で見ている。


 あれは、苛烈な怒りの表情だった。


 お前に同情などされる私ではない、と本当に己の根幹、信じ抜くものを侮辱されたかのように激怒したのだ。

 自分がこういう状況になって、初めて甄宓の強さが分かった。

 それは尊敬にすら値するものだと言ってもいい。

 彼女に迷いは本当にない。ただ曹丕の為に生きて行くだけだ。



(わたしのなかには、怒りすらない)



 空虚だ。


「とはいえ、そんな沈んだ顔では仲達ちゅうたつ殿が心配なさいますわ。

 お留守の時は貴方が私の所にいらっしゃるからと、安心して公務に励んでいるのに、戻ってきたら貴方が悲しげに沈んでおられては……」


「申し訳ありません。よく、気をつけるようにいたします」


 陸議がそんな風に生真面目に頬を擦り、表情を気をつけようとした仕草に、甄宓は「そうだわ」と明るい表情を浮かべた。


「折角だから仲達殿の驚いた顔を一度くらい見てみたいの。

 あなたに協力して欲しいわ」


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