第33話:諦めを斬り、絶望を越えて
黒騎士の剣が振るわれるたび、空気が揺れる。
衝撃の波が壁を叩き、耳の奥まで響き渡る。
僕は刀を構えながら、息を吐き切ることで恐怖を押し殺していた。
アリシアも同じだろう。剣と剣が打ち合うたびに伝わってくる衝撃で、彼女の腕が震えるのが分かる。
「……ッはぁ、はぁ……!」
アリシアの息が荒い。
普段なら一撃ごとに鋭く、無駄のない剣筋を見せる彼女だが、疲労は確実にその動きを鈍らせている。
ここまで来るのに、どれほどの魔物と戦い続けたか。
僕らの体はすでに限界を超えかけていた。
それでも黒騎士の動きは緩まない。
一歩、一振り。
そのすべてが、練り上げられた“完成”を体現している。
「……ッく! ――がっ」
轟音と共に、アリシアの体が弾かれるように吹き飛んだ。
重い衝撃が床を揺らし、石の砕ける音と彼女の短い悲鳴が耳を貫く。
「アリシアッ!」
叫びながら駆け寄る。息を切らし、必死に音と気配を追う。
倒れ伏した彼女の脈はまだ確かに打っていた。だが、肺を震わせる呼吸は荒く、立ち上がろうとした瞬間に苦痛の呻きが漏れる。
「……っ、まだ……っ」
彼女は震える腕で剣を支えようとする。
「アリシア、一緒に――」
だが、その視線の先に立つ影を見た瞬間――硬い金属の音を残し、握っていたアリシアの剣が地面に転がった。
「……無理よ……」
「……え?」
その声はもう、戦う者の声ではなかった。凍てつくように静かで、どこか遠くから聞こえてくる祈りのようにも思える。
「あんな相手、勝てるはずがない。私がどれだけ剣を磨こうとも、届かない。まるで最初から決まっていたみたいに、何をしても無に帰す……」
言葉に力はなく、吐き出されるのは自分自身への哀れみと怒りだけだ。
鼓動は速いのに、声は絶望に溶けて薄くなる。
「それに……あなたまで。あなたまでこんなに……傷だらけで。私は、私だけならまだしも、ノクスは私を転移トラップから助けたばかりに……」
言葉が途切れ、彼女の体が小さく震えた。
剣を落とした手の震えが、希望が抜け落ちたことを伝える。
アリシアの言う通り、僕の腕は切り裂かれ、足は裂傷と打撲で立つだけで精一杯だ。
全身が血に濡れ、握る刀の柄は手汗と血で滑りかけている。
――それでも。
僕は笑った。
口元に浮かぶ笑みは、苦痛を超えた先にある昂ぶりそのものだった。
「そうだね。僕はボロボロだ。いつ倒れてもおかしくない。……でも――」
――だからこそ、剣を振るんだ。
「もう十分じゃない! これ以上は無駄なのよ! あなたが一緒にいてくれて、本当は嬉しかった。でも……」
諦めは静かに、しかし重く空間を満たす。
アリシアの息遣いが細くなり、胸の奥で消え入るような光が確かに掻き消されていった。
初めて零す、彼女の弱音、絶望、諦めの感情。
「本当に、君は……アリシアはそれでいいのか? こんな結末を、君は受け入れるのか?」
僕の静かな問いに、彼女は自嘲気味に笑う。
「ええ。もう、私は……いいの。……国を背負う剣士になりたいと、叶わないというのに……私はもう、疲れてしまったの……」
「そうか」
僕は天星一文字を携え、黒騎士の脅威から守るかのように、アリシアの前で背を向けて立つ。
「……ノクス? 何をして……」
「なら、アリシアはそこで見ているといいさ。僕は諦めないよ。諦めたら、僕が目指した夢に辿り着くことができないから。だからここであいつを倒して、君を助ける」
僕と黒騎士、互いに一歩を踏み出したことで戦いが再開される。
黒騎士の剣が振り下ろされるたび、地鳴りのような衝撃が世界を震わせる。
剣圧と魔力が渦を巻き、空気が悲鳴を上げるのが分かる。肺を押し潰す重圧に、心臓が凍りそうになる。
――それでも。
僕は刀を構えた。
喉の奥から込み上げる恐怖を、深い呼吸で押し流し、ただ一つ残す。
剣を振りたいという衝動だけを。
「……はぁ、はぁ……っ」
血の匂いが濃くなっていた。僕自身のものも、アリシアのものも。
だが耳に届く彼女の荒い息はまだ確かに続いている。それだけで、僕は立つ理由を失わない。
師匠の声が、脳裏で甦る。
『戦場で生き延びるために必要なのは、刀の腕だけじゃない。体も心も、全部を武器に変えることじゃ』
黒騎士が踏み込む気配。石床を裂く重み。
瞬間、僕は刀を振らず、身を沈める。地を蹴り、肩で体をぶつけた。
金属の衝撃。刃と刃ではなく、肉体と鎧がぶつかる硬質な音。
体術――師匠から叩き込まれた、剣術と同等に用いる戦場の技。
僕の体格では押し返すのは不可能だ。けれど、一瞬の揺らぎを生むことはできる。
「――はあぁぁっ!」
振り上げた刀を、渦巻く魔力の隙間へと叩き込む。
金属が軋み、僅かにだが刃が通った。
黒騎士の気配が、確かに後退する。
……通じる。どれほど圧倒的でも、傷は刻める。
「ノクス……っ!」
アリシアの声が背後で震える。
僕は応えず、ただ一歩を踏む。歩法――〈幽影〉。
気配を殺し、無駄を削ぎ落とす。
黒騎士の魔力が荒れ狂う。漆黒の剣が唸り、風が裂ける。
紙一重で身を捩り、斬撃を往なし、刀を閃かせる。
腕に走る激痛。
皮膚が裂け、骨にまで響く。血が散り、足元を濡らす。
「……ッぐ、ぁ……!」
吐息と共に、血が口から零れる。視界の代わりに世界を描く音が一瞬、滲む。
その瞬間、アリシアが駆け寄る気配。
「ノクス! なんで、どうして……もう戦えないはずなのに!」
彼女の声は泣き出しそうに震えていた。
僕は笑って、息を荒くしながら答える。
「戦えない? 違うよ。今の僕は――生きてる。ただそれだけで、剣を振る理由になる」
その時、頬に冷たい感覚。
眼帯が解け落ちたのだと気づく。額を伝う血と汗が、眼窩を焼くように濡らしていく。
僕は震える指でそれを拾い上げ、ゆっくりとアリシアの方へ向き直った。
黒騎士の気配が膨れ上がり、濃密な魔力が刃のように張り詰める。
――どうやら、向こうは決める気らしい。
「……アリシア。これ、預かってくれるか?」
眼帯を差し出すと、彼女が躊躇いながらも受け取る気配が伝わった。
その手の震えを感じながら、僕は静かに微笑む。
刀を握る手が、今まで以上に鮮明に世界を映し出す。
黒騎士の一歩、空気の震え、魔力の奔流。
すべてが鏡面のように、澄み切った心に映り込んでいく。
「さあ……ここからだ」
息を吐き、足を進める。
僕の身体は悲鳴を上げている。
――次が、決着だ。
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