第4話 死に場所で、出会った僕らは生きたくなった。


 やがて、東の空が淡く染まりはじめた。


 濃い闇の中に、少しずつ橙色の光が差し込んでくる。

 その光はまるで祝福のように、俺たちの存在を、そっと包んだ。


 明夜は、窓の外をじっと見つめていた。


 その目に希望があるわけじゃない。

 でも、絶望しかなかったあの瞳が、今は確かに変わっていた。


 明夜がぽつりと、呟く。


「きれい、ですね。朝日って、こんなに静かなんだ」


 俺は明夜を抱きしめたまま、黙ってうなずく。


 今日の朝日が、彼女の中に何かを残してくれることを願いながら。


「ねえ、尚人さん……」


「ん?」


「さっき、朝日を見ながら思い出したことがあるんです。

 ――もう、二度と思い出したくないって思ってたこと」


 明夜はゆっくりと、膝を抱えたまま語りはじめた。


「……私、母を早くに亡くしていて。

 小学校に上がる直前だったかな。まだ六歳くらい。

 事故だったんです。車にはねられて、即死だったって」


「……そうだったのか」


 明夜はふっと笑った。

 それは諦め混じりの、乾いた微笑だった。


「さっきも言いましたけど。お母さんは病弱でよく入院してたから、覚えてることなんて、ほとんどありません」


 明夜は小さく息を吸って、言葉を継ぐ。


「でも、本当なら忘れちゃいけない夜の思い出があるんです」


「……どんな夜だ?」


「ある晩。私、熱を出して寝込んでたんです。布団の中で、苦しくて、うまく眠れなくて……。

 そのとき、退院したばかりの母が隣に来て、ずっと頭を撫でてくれました」


 そこまで言って、明夜は言葉を止めた。

 少しの沈黙が流れ、風の音が草を揺らす。


「お母さん、何も言わなかったけど……最後に、こう言ったんです」


 明夜は、顔を上げた。声が、かすかに震えている。


「“明夜”って呼んで、“……大好きよ”って。

 そのあと、そっとおでこにキスをしてくれました。

 ほんの少しだけ触れるような、優しいキスでした。

 それから、私が眠りにつくまで傍にいてくれた……」


 俺は言葉を挟まず、ただ静かに聴いていた。


「たったそれだけのこと。

 でも、たぶんあの夜が、私の人生で一番幸せな夜だったんです。

 だけど……私はその手を、ちゃんと握り返せなかった」


 明夜の声が、わずかに揺れる。


「何も言えなかった。

 “ありがとう”も、“大好き”も、言えなかった。

 ただ、黙って布団にくるまって、息を潜めてた」


 明夜が少し息苦しそうに言葉を紡ぐ。


「……怖かったから。

 今、思い返しても、何で怖かったかは分かりません……。

 ただ、なんとなく父親の影響かな、とは思います」


 ぽつりと、呟くように続ける。


「そのあと、すぐにお母さんは死んだんです。

 事故の知らせを聞いても、私は泣けなかった。

 悲しむよりも先に、自分を責める気持ちが来て――

 “どうしてあの時、ちゃんと声に出せなかったの?”って」


「明夜……」


「ねえ、尚人さん」


 明夜は俺を見て、真っ直ぐに問いかけた。


「言えなかった“ありがとう”って、誰かに抱きしめられることで……代わりに伝わったりしますか?」


 俺は黙って頷いた。


「伝わるさ。

 きっとお母さんも、それで十分だったと思う」


 明夜の目に、涙が溜まっていた。

 だけど、それは絶望の涙じゃなかった。


「今ようやく、わかった気がするんです。

 私があの夜のことを思い出したのは、尚人さんに抱きしめられて、あたたかさを思い出せたからだって」


「……そっか」


「もう遅いって思ってたけど……。

 今さらだけど、もう一度ちゃんと、生きて伝えたいって思いました」


 明夜は、ぽつりと、小さく、でも確かな声で言った。


「誰かとちゃんと、つながって、生きて……。

 “ありがとう”とか、“好き”とか、“嬉しい”って気持ちを、

 ちゃんと、言葉で届けていきたいです。

 それができる人生なら、私は、まだ捨てたくないって思ったんです」


 俺は、そっと彼女の背中を撫でた。

 それが答えだった。


「ねえ、尚人さん」


「うん」


「やっぱり……私、もう少しだけ生きたいです」


 その声は、ほんの少しだけ震えていた。

 けれど、迷いよりも強い願いが、確かに宿っていた。


「こんなふうに誰かの腕の中にいて……。ああ、私って、ちゃんとここにいるんだって……。

 そう感じたから……。

 もう少しだけ、生きたくなったんです」


 『死にたい』じゃなくて、『生きたい』。


 明夜はゆっくりと俺を見た。

 そして、ささやくように言う。


「今日、尚人さんに会えて……抱きしめてもらって……。

 はじめて、自分のままでいていいって思えた気がします」


「俺もだよ。明夜がいてくれて、救われた」


 明夜は微笑んで、涙を一滴、頬にこぼした。


「私ね、生きててもいいって思いたかったんです。

 ちゃんと誰かと心がつながったって思いたかった」


「それ、叶ったか?」


「うん。叶いました」


 明夜は、空に向かって深く息を吸って、吐く。

 まるで、新しい一日を受け入れるように。


 そして――


「尚人さんに抱きしめられてよかったです。

 なんだか、心から生を実感できたといいますか……。

 ………

 尚人さん」


「うん?」


「誰かと呼吸を重ねて、鼓動を感じて……。

 それだけで、なんだか生きてるって思えたんです」


 少しだけ目を伏せたまま、明夜が言った。

 その声は震えていたけれど、芯があった。


「……尚人さん。

 私、また生きたいって思っても、いいんでしょうか?」


 その問いに、彼女を抱きしめる力を少しだけ強めながら答える。


「いいんだよ。

 明夜が生きたいと思えたなら、それでいいんだ」


 それが俺の本心だった。


「明夜。

 俺も明夜を抱きしめて。

 ……いや、明夜がそこにいてくれるだけで、

 それだけで、また生きたいって思えた」


 俺は確かにそう感じていた。


「もし、抱きしめたのが明夜じゃなかったら、こんな事、思わなかっただろうな……」


「私もです。尚人さんに抱きしめてもらえたから、生きたいと思えました……」


 彼女も同じ気持ちのようだった。


「こんなふうに、誰かに抱きしめられてよかったって思える日が来るなんて。

 想像もしてませんでした」


 彼女は俺を見つめながらそう言った。


 ――だから、俺は。


「じゃあさ、明夜。

 一緒に生きてみないか?」


 声に出した瞬間、自分でも驚いた。

 ほんの半日前までは、そんな言葉、口にする資格なんてないと思っていたのに。


「はい」


 明夜は迷いなく、そう答えてくれた。


「尚人さんとなら、もう一度、ちゃんと生きてみたいって思えます」


 明夜も俺の顔を見て微笑んでくれた。


「じゃあ一緒に住むか、俺達?

 俺の家はボロアパートで1K。

 一応、古びた風呂場だけはあるような、そんな家だけどさ」


「尚人さんらしい、酷い家ですね。

 でも私にとっては、尚人さんがいてくれたら、どんな豪邸よりも立派なおうちですよ」


 明夜はそんな事を言って無邪気な笑みを見せる。


「家出少女と一緒に住むなんて、尚人さんにとってはリスクしかないのに……。

 本当に……ありがとうございます」


「お礼を言うのはこっちの方だ。

 30手前のバイト暮らしのおっさんについて来てくれる女性なんて明夜ぐらいだぞ」


「私はいい女ですから。男の人をスペックじゃなくて、中身で判断できますからね。

 それに尚人さんはまだ28歳ですよ。

 まだまだこれからの人間なんですから、おっさんだなんて言わないでください」


「全く、どの口が言うかね……」


 当たり前の様に言う明夜に、俺は呆れた声を出す。


「本心ですよ。

 尚人さんが40歳でも50歳だったとしても同じです。

 人は何歳からでもやり直せるって、今はそう考えが変わりましたから」


 明夜は目を閉じた。一晩の出来事で人生観すら変わったようだ。


「ねえ尚人さん。

 まだしばらく、抱きしめててもいいですか?

 尚人さんの体温が感じられてるのが、嬉しくて……。

 もう少しだけ、こうしてたいんです」


「もちろんだ。明夜」


 この温もりを求めてくれる限り、俺は彼女の隣にいようと思った


 俺達は抱きしめ合ったまま、互いの鼓動を感じながら、しばらく静かに目を閉じていた。


 鳥の声、風の匂い、そして薄く差す光――すべてが『生きている』と語りかけてくるようだった。

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