第3話 “ほんの少しの生きたい”は、腕の中で生まれた
俺と
腐った床板の軋む音すら聞こえない静寂の中、明夜はランタンの灯りに照らされている。
「……じゃあ、その……」
彼女が何か言いかけて、すぐに口をつぐむ。
その唇が、何度も形を変えて揺れていた。
「……一ノ瀬さん。
あの、いえ……尚人さん、って呼んでもいいですか?」
その声音は、かすかに震えていた。
俺は小さく息を吐きながら、無理やり口角を上げる。
「ああ、構わないよ。
俺も最初から明夜って呼んでるしな」
言葉にしてみると、自分の声も少しだけ震えているのがわかった。
こんな夜に、こんな状況で、誰かの名前を呼び合うなんて、普通じゃない。
でも、普通じゃないからこそ、名前を呼ぶことが、変に嬉しかった。
少しの
空気が重たい。
けれど、それだけじゃない。
どこかで、何かがほどける様だった。
「……それじゃあ、よろしくお願いします」
明夜がほんの一歩こちらに近づき、廃屋の床へ寝そべった。
身体の動きにぎこちなさが残っている。
震えているのが分かった。
俺も同じように一歩踏み出し、明夜の傍に横になる。
そして、躊躇いがちに、けれど確かに、彼女の身体に腕をまわした。
そっと、壊れ物を包むように、優しく抱きしめる。
――時間が、止まったようだった。
なにも言えなかった。
なにも聞こえなかった。
ただ、腕の中の少女のかすかな震えだけが、俺に生きてるという事実を教えてくれる。
壊れそうなくらい、軽くて、細くて、脆い体。
それでもその小さな背中には、目に見えない重たいものが、ずっとのしかかっているんだろう。
頬に触れた彼女の髪から、微かに木の匂いがした。
湿った空気の中で、それだけが妙に生っぽくて――やけに胸に刺さった。
生きている。俺も、彼女も。
なのに、どうしてこんなにも苦しいのか。
明夜は最初、反応を返さなかった。
まるで自分の存在が、抱擁するのに値するものかを、確かめているようだった。
長い、長い、沈黙のあと。
彼女の両腕が、ゆっくりと俺の背中へまわされた。
細い指先が、俺のシャツをぎゅっと掴む。
その手は、震えていた。
けれど、それでも確かに、求めていた。
「こうして誰かに抱きしめてもらうの……お母さん以来……」
明夜がぽつりと呟く。
懐かしさ。戸惑い。安堵。すべてが混ざった声だった。
俺は何も言わず、彼女を包む腕にそっと力をこめた。
木々のざわめきが遠くから聞こえる。
虫の鳴き声ひとつない夜に、風の音だけが生の証のように存在していた。
明夜の頬が、俺の胸元にふれる。
冷たい。でも確かに、生きていた。
彼女の鼓動が、微かに伝わってくる。
それは小さな音で、とても不安定なリズムだった。けれど、たしかにここにいると主張していた。
「……私、ずっと思ってたんです」
明夜の声が、かすかに震えた。
「誰にも気づかれずに、消えていけたら一番楽だなって」
その言葉に、俺は少しだけ目を閉じた。
俺も、何度もそう思ってきた。
「でもね。こうやって誰かに触れられるのって、意外と、あたたかいんですね」
その瞬間だった。
明夜の身体が、わずかに揺れた。
そのまま崩れるように、彼女の腕が俺の背にしがみついてきた。
抱きしめられる腕の強さが、少し痛い。
肩に明夜の頬が当たる。
――濡れている。
少し経ってから気づいた。
涙。
それは、音も言葉もない感情の奔流だった。
「明夜」
「……はい……」
「お前がここにいること、俺はちゃんと知ってる。ちゃんと、今、明夜のことを考えてるぞ」
俺の言葉に、明夜が俺の服の裾をより強く掴んだ。
「尚人さんって、優しい人だったりします?」
「いや、ただ、モテたいだけかもな」
「ふふっ」
明夜がかすかに笑った。
その笑顔は、小さな光だった。
壊れかけた心の隙間をそっとあたためるような、そんなやわらかい光。
空気が、ほんのわずかに変わってきていた。
廃屋の隙間から吹き込む風の音に、かすかに鳥の声が混じり始める。
夜明けが近づいているのだと、ぼんやりと気づいた。
明夜は、俺の腕の中で目を閉じたまま、静かに息をしていた。
さっきよりも少しだけ深く、落ち着いた呼吸。
俺たちは、まだ生きていた。
お互い、死に場所を求めてここに来たのに、今はただ、こうして生きていた。
「明夜」
呼びかけると、彼女はそっと目を開けた。
「……ごめんなさい。
いっぱい泣いちゃって」
「謝らなくていいよ。
泣けてよかったんだと思う」
「どうして?」
「だって、痛いってちゃんと感じられるってことだろ?
それって多分、まだ生きてるってことだからさ」
「……そんなふうに言われたの、初めてです」
明夜は、うっすらと笑った。その笑みはまだ不安定だけど、どこかあたたかかった。
もう何も喋らなくてもいいと思っていたのに、気づけば言葉がこぼれ落ちる。
「俺さ、昔からずっと思ってたんだ」
「なにを?」
「このまま誰にも知られずに死ねたら、それでいいって。
でも、誰かに生きててもいいって、言われたかっただけなのかもなって、今思ってる」
明夜は何も言わず、俺の袖をぎゅっとつまんだ。
「尚人さん」
「うん」
「朝日、見たことありますか?」
「当たり前だろ。見飽きるほどだ」
「でも、死にたい朝に見たことありますか?」
俺は少し考えた。
「……いや、それは、ないかもな」
「私はあるんです。何度も。
だけど、今日だけはなんか、ちょっとだけ違う気がして」
「違う?」
「このまま朝日がすごくきれいだったら、明日も見たいって思っちゃいそうで、怖いんです。無駄な希望を持ってしまいそうで……」
「……わかるよ」
俺は頷いた。
「俺もそうだ。ずっとそうだった。
生きたいなんて思わない方が楽だって思ってた。
期待なんか、裏切られるだけだし」
「尚人さんも、そう思ってたんだ……」
「ああ。でも今は……」
「今は?」
「……それでもいいかもって、ちょっとだけ思った」
「それでもいいかも……」
明夜はその言葉を繰り返すように呟いた。
それから、そっと俺の胸に頭を預けた。
「尚人さん。今日だけでいいから、一緒に朝日、見てくれませんか」
「もちろん」
俺は迷わずそう答えた。
誰にも見つからずに死にたくて来たこの場所で、誰かと一緒に朝日を見ることになるなんて、思ってもみなかった。
でも今は――その思ってもみなかったことに、少しだけ救われている自分がいる。
俺たちは、今日も明日も死にたいって思うかもしれない。
でもそれでも、今、この瞬間だけは、そうじゃないって思えた。
その一瞬の気持ちが、消えないまま夜明けを迎えたなら――それでいいんじゃないかって、今は思える。
窓の外が、ほんのりと明るくなり始めていた。
夜が終わる。
俺たちの死に場所だったはずの夜が終わろうとしていた。
何かが少しだけ変わった気がする。
死にたい理由が消えたわけじゃない。
だけど、死ななくちゃって気持ちが、ほんの少しだけどこかへ流れていった。
「尚人さん、ありがとう。
今日は凄く、あたたかい夜になりました」
「俺も、生きてて初めて、誰かのために何かできたって思えたよ」
俺の背に手を回している指先は、もう震えていなかった。
「尚人さん。
もう少しだけ、こうしててくれますか?」
「もちろん。夜が明けても、俺は明夜を抱きしめてるぞ」
――夜が明ける。
そして、またひとつ明日がやってくる。
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