二、「開明自律」

「かなちゃん、起きて! ねえ、かなちゃんったら~!」

「う~ん……ミルクキャラメル……」

 まぶしい。意識の遠くで喇叭の音と、わたしを呼ぶ声がするけれど、頭はそれを遠ざけて、静けさとキャラメルの夢を求めている。

 寝ぼけて寝返りを打って布団に顔をうずめてから、はっ……と我に返って起きあがった。

「うわっ! いま何時!?」

「もう六時二十分まわったよ~……早く起きなきゃ!」

 目をこすって時計を三度見した。寮の相部屋の徳一とくいち吹雪さんが言うとおりだった。最悪だ……。

「いやぁ! 大変~!!」

 わたしは飛び起きて天井に頭を打ち、三段寝台を転げ落ちると、大慌てで体操服に着替え、壁に掛けてある信号喇叭を持って寝室を飛び出した。

 千鳥足なわたしを心配して、吹雪ちゃんもあとから走ってついてきて、左手を繋いでくれた。出自は知らないけれど庶民的な普通の子で、背が小さい同士もあって真っ先に親友になった。

 寝ぼけてしどろもどろな起床喇叭号令を吹いて、わたしの担当する予科一年生の寮を回る。あちこちで、「うわぁもうこんな時間じゃない!」「喇叭手なにやってんの!」という阿鼻叫喚と怒声が上がる。

「かなちゃん、どんまい……!」

 泣きそうなわたしの手を、吹雪ちゃんはぎゅっと握ってくれた。

「うう、吹雪ちゃんありがとう……一緒に遅刻させちゃってごめんね……」


 わたしたち予科一年生が揃う頃には、朝のラジオ体操はもう始まっていた。最後に合流するわたしと吹雪ちゃん。とても気まずい。

「予科一年生は残るように」

 案の定、体操のあとには居残り令が発せられた。シベリア極東の白系ロシア人の国、アムール・ルーシ大公国の首都ウラヂミロフスク(旧・ウラヂヲストク)から招聘された、長身で鼻筋の通った日系人の女性体育教諭、コヴァレンコ=カミモト先生だ。こってりお説教食らうのかな……お説教で済めばいいけれど……。

「遅刻した理由は何ですか」

 みんなの鋭い視線がわたしに集まる。

「えと……こともあろうか喇叭手であるわたしが寝坊しました! 全部わたしの責任です、申し訳ございません!」

 わたしは地面に頭が着くほど勢いよく最敬礼で謝った。

「責任感があるのは宜しいことです。しかし、全部が前田さんの責任ではありません。分かりますか、皆さん」

 怒鳴られることを覚悟していたわたしは、肩すかしを食らって涙目をこすった。

「誰も起こしてあげなかったのですか?」

「いえ、徳一さんが起こしてくれました……けれど、なかなか起きられずに……」

 吹雪ちゃんに目配せを投げつつ、わたしはおずおずと答えた。

「よろしい。徳一さん以外は遅刻・不遅刻にかかわらず一減点、前田さんは二減点、徳一さんは一加点です」

「え……? ひっ!」

 驚く間もなく、さらに殺気を帯びたみんなの視線が、再びわたしに集まる。

「皆さん、前田さんを責めてはなりません。くれぐれも、責め立て苛めたりなどしてはなりません。苛めの処分は最高で退学です。――さて、本校の校訓は何ですか?」

「開明自律、献身護民、世界平和、であります」

 級長の芝小路しばこうじさんがはきはきと答える。予科・尋常科・高等科・専攻科の全てに通ずる校訓だ。

「そう、自律です。他律ではなく、我自らを律することです。自力で起きられなかったのは、前田さんも他の遅刻者も同じです。喇叭手は上官・責任者ではなく、あくまで代表委員。同列の隣人に責任を押しつけてはなりません」

 先生は、生徒一同をぐるりと見渡して、続けた。

「また、自律と相互扶助は矛盾しません。自分で起きられた方は、わたくしの把握する限り、同じ寮室の生徒や前田さんを起こさず、我こそ良けれとすまし顔で先着しました。すなわち、隣人を互助せず見捨てましたね。それが減点理由です。ラジオ体操に遅刻しても死にはしませんが、相互扶助を洋上で怠れば人が死に、世界規模で怠れば人類が滅びます――この裁定に不服はありますか?」

 先生の言葉に、みんな押し黙ってしまった。先生は懐中時計で一分間を計って、言った。

「不服なしと見なします。では、皆さん食堂へ行ってよろしい」

 これがわが校・舞鶴海軍女学校の校風だ。粗相をしても、どやし叱られたり、バケツ廊下のような懲罰を受けることは無い。ただ、生活成績の点数が引かれて、最悪ばっさりと退学処分になる。ただし、申し開きや不服申し立ての機会は必ず与えられる。「自主・自律」とともに「互助・連帯」が徹底された社会だ。

 わたしもしっかりしなきゃ……。

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