逃げないで、正面から見てよ(3)



「そうだね。確かに俺は10歳にも満たない頃の初恋を、高校生になった今でも鮮明に覚えてるような痛い奴だよ。……だけど、“彼女”と今俺の目の前にいるキミとが全然違うことぐらいもう知ってる。ちゃんと、わかってる」


 レモンの香水の爽やかさとはかけ離れた、必死で、激しさのある声。


 それでもわたしは首を振る。どうしても否定してしまう。


「うそ……。わたしのことなんて大して知らないくせに」

「じゃあ教えてよ」

「え……」

「武藤瑞紀のことをもっと俺に教えてよ。そして逃げないで、俺を正面から見てよ」


 息を飲んだ。

 恭くんから全力で逃げる、距離をとればわたしの中で『別世界の住人恭くん』のままでいてくれる。そんなことを、彼が転校してきた日に決めた。


 だから「逃げないで」という言葉が重く胸にのしかかった。


 ──「推しの若手俳優天羽恭」と「クラスメイトの天羽くん」を分けて考えられてるなんて得意げに思ったこともあったけど、勘違いも甚だしい。


 「推し」とカテゴライズすることで恋愛対象と成り得ない偶像をつくり、彼が転校してきてそれが難しくなると「クラスメイト」として一定の距離をとり、深いところまで見ないようにしていた。

 そうだ。わたしは、天羽恭という一人の人間を見ることから、逃げていた。

 彼に目の前から向き合うことで、気持ちに取り返しがつかなくなることを恐れて、逃げたんだ。


「わたし、さ」


 ぎゅっと拳を握る手に力が入る。


「逃げ癖がついちゃってるみたいなの。いろいろと」

「……うん」

「恭くんがわたしを知りたいって思ってくれてるのは嬉しい。わたしを知って欲しいし、わたしも恭くんのことを知りたいって、今この瞬間は本気で思ってる」

「うん」

「だけど……きっとまた、自分を見せることからも恭くんを一人の人間として見ることからも、逃げようとするよ?」

「いいよ」


 彼はうなずいた。

 やけにきっぱりと、だけど嬉しそうに。


「瑞紀ちゃんが逃げるなら、俺はそのたびに何度だって追いかける」

「追いかける、か……あはは」


 その言葉には思わず笑いがこぼれた。

 推しに追われるってどんな状況だよ。

 だけどそっか。考えてみたら今だって、仕事帰りなのにわたしを見つけて、こうやって追ってきてくれたんだ。


「とりあえず当面の目標は決まったね」

「目標?」

「そう。瑞紀ちゃんはもっと自分のことを俺に教えること。で、ありのままの俺についてももっと知ろうとすること」


 恭くんはそう言ってから、思いついたように付け足す。


「あ、それと前に『苗字でも名前でも呼びやすいように呼んで』って言ったことあったけど、やっぱり苗字呼びは禁止で」

「え」

「瑞紀ちゃんが俺を苗字で呼ぶのって、わざと距離をとろうとしたときでしょ? そう思うと結構寂しいなって」


 おっしゃる通りで。

 恭くんのことは、初めて存在を知った日からずっと「恭くん」呼びだ。

“ただのクラスメイト”らしく苗字呼びするときは、正直違和感が半端じゃない。そして結局すぐに恭くん呼びになってしまいがちだ。


「わかった。無理して天羽くん呼びするのもやめる」


 わたしはそう素直にうなずいて、それから言った。


「じゃあわたしからも一個いい?」

「うん?」

「推すのはやめないから」


 これはもう癖だし。

 恭くんのことが恋愛感情という意味の好きだと自覚したけど、恭くんの素晴らしさが全世界に広まって欲しいという気持ちもどうやらちゃんとわたしの本心らしい。


「『天羽恭の限界オタク』っていうのが、まず最初に教える武藤瑞紀の情報だよ!」

「ふふ、それはそれで……だいぶ嬉しいな」


 恭くんは両手で軽く口元を押さえながら笑う。

 それは本気で嬉しいことがあったとき、彼が無意識にする仕草だった。


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