Tender Rain (下)
「そうそう、つぶれちゃったの。半年くらい前かな。まあ、しょうがないよ。子ども減ってきてるし」
さっきまで一人でいた場所に、今度は二人で並んで立っている。
「懐かしいなあ。宮下、全然勉強してこなかったよね。いっつも怒られてた。何しに来てるんだーって」
「そんなこと覚えてんなよ」
「あはは」
彼女は手を叩いて笑った。
いつも教室の中心にいて、誰とでも仲のよい人だった。だから、当時は僕のような女子とあまり話さない人間にもどんどん声をかけてきたものだ。
「平野だって、ろくに勉強してなかったろ」
「してたしちょっとは」
「ふうん」
「疑ってるな」
「あの四人衆の中では点数一番低かったじゃん」
「千夏とかが高すぎたんだって」
彼女は頬を膨らませる。
数年の時を飛び越えたかのようだった。それどころか、僕と彼女の距離は今まで一番近づいているようにさえ感じた。化粧を施して、ハイヒールを履いて、あのころとは全く違う見た目なのに。
「雨、やまないよね」
「そうだな」
音もなく下町に降る雨。さっきまでうとましかったそれも、今はバックグラウンドミュージックのようで、心地よい。
「私、雨好きだよ」
「知ってる」
「……そう」
夜だった。
授業中から雨が降っていて、傘を持ってきていない友人たちは絶望していた。
しかし、授業が終わる頃には覚悟が決まったのか、みんな雨の中を駆けていった。
僕は追試を受けて、22時を回るころ、ようやく塾を出た。母の言いつけを守って、置き傘を用意していたのは正解だった。
「あ」
「あ、宮下」
平野はかばんをわきに挟んで、困ったように眉を寄せていた。
「何してんの」
「あー……ちょっとね」
外を見ると、雨はもうずいぶん弱まってきたようだが、まだパラパラと降っている。
「傘ねーの?」
「あ、えっと、うん。そうなの」
「迎えは?」
「来られないと思う。すぐそこだから、走っていけばいいんだけど」
「ふうん」
僕は、バサッとビニール傘を開いた。
「入れよ」
「えっ」
「送る」
「いいの?」
「うん。でも、見られたら冷やかされるから。はやく」
「う、うん」
夜の闇が深くて、彼女の顔はよく見えない。
僕も彼女も黙ったまま、ひたすら歩いた。
「ありがとう。送ってくれて」
「うん。じゃあ」
「じゃあ」
たったそれだけ。相合傘の盛り上がりなんてない。それだけの一コマだ。
けれど、それがずっとのどに引っかかっている。
翌日。何事もなかったかのように過ごしていた彼女は塾の休み時間に、ふと「あっ」と大声を上げた。
「どうした?」
「折り畳み、いれっぱだった」
「えー。今日、晴れなのに?」
「忘れてた」
「たまーに抜けてるよねー」
「いいじゃんか。かわいいだろ」
「かわいいかわいい」
四人衆は笑っている。そしてすぐにドラマの話に移った。
僕は、ペンを動かしていた手を、止めるしかなかった。
雨はしとしとと降り続く。
ネジを回せばオルゴールが鳴るように、同じ雨の音を聞いて、記憶が呼び起こされた。
「ねえ宮下」
「うん」
「あの、さ」
「うん」
「昔、こんな雨の日、あったよね」
「……」
「そのときさ、私……」
「俺も」
言葉を切る。わかっていた。わかっていたけれど、今聞くべきではない気がした。
「俺も、雨好きだよ」
それにしても、何でこんなことを言ったんだろう。
さんざん嫌いだったはずなのに。けれど、嘘をついた気はしなかった。
平野は一瞬驚いた表情を見せて、やがて笑った。
「そうなんだ。いっしょだね」
「うん」
「いっしょだ」
とたん、彼女は傘を投げ捨てて、雑踏に躍り出た。くるんと一回転回って、しぶきが上がる。
また転ぶぞ。
そんなことを言うのも忘れるくらい、僕は見とれていた。
「その傘あげる!」
「ええっ?」
「傘、持ってるの?」
「それは……」
僕は、折り畳み傘を咄嗟にポケットに隠した。
彼女は無邪気に笑う。
「もう冷やかされないよ! 風邪ひかないようにね」
にししっと笑って彼女は消えていった。ハイヒールを器用に操って、消えていった。
黒い傘だけが残される。僕はそれを拾い上げて微笑む。
「なんで」
困惑した。瞳から流れる雨。別に大した仲じゃないのに。物語のような話なのに。
のどのつかえはいつの間にかなくなっていた。雨に溶けてしまったのだろうか。
優しい雨は、まだ降り続くようだった。
【解釈小説】Tender Rain 蓬葉 yomoginoha @houtamiyasina
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