月の風呂
緑茶
月の風呂
少女はたったひとりで、月でくらしていた。
ずいぶん長いもので、もうどれだけの年月がすぎたのか、わからなかった。
なにより、彼女はおさなかった。
小さいころからずっとひとりで、月の表面をきれいにする仕事をまかされていて、それには複雑な計算や暗記は必要がなかった。
それらはポコポコと、どこかからわいてくる『ほこり』で、少女はまいにち同じ時間にすみかから出て、ひとつひとつ、ていねいにとりのぞく必要があった。
どこからどうやってやってくるのだろうと思うこともあったけれど、考えたところで、誰も答えてくれなかったので、何百回目かの24時間をへて、考えないようになった。
つらくはなかったけど、らくでもなかった。
なにより、退屈で、寂しかった。
だから、帰ってくるころには、必要以上にへとへとになっているのだった。
そんな少女の唯一のたのしみは、お風呂に入ることだった。
どういうわけか、すみかでいちばんきれいで整っているのはお風呂だった。
ほんのりと優しい黄色の照明が、まぁるく小さな空間をつつんでいて、蛇口からは、少女にとっていちばん気持ちいいと感じるお湯が出た。
せっけんはいいかおりがしていて、仕事のときに鼻をツンツンと痛める、あのいやなにおいをすっかりからだから取り除いてくれるようだった。
そこまできて少女はようやく、笑顔のようなものを浮かべる。もっとも、その表情が笑顔という名前であると知る手段を、彼女は持っていなかったけれども。
湯船につかって、ぼんやりと意識がまどろんでいくなか、丸と十字で区切られた窓からは、月の空がみえる。
それはどこまでも真っ黒で、ところどころに小さな白い点が浮かんでいるばかり。なんの面白みもないといえば、少女にとっては、そうではなかった。
よく目をこらしてみると、真っ黒の奥の奥に、小さなべつの光が見えるのだ。それはほかの光の点とは違う色で輝いていて、見つけるたびに、少女はなんだか、とても幸せなきもちになるのだった。
なんの確信もないけれど、そこには、自分の『ともだち』が居る気がしてならないのだった。
だから少女は、その点を、『青い点』を、月の風呂からみつけだしてながめるのが、ほんとうに好きだった。
でも、だからこそ、ときどき少女は、とてもさびしいきもちになるのだ。
月の風呂の窓を見つめる習慣ができてから生まれたきもちだった。
うれしいことがあるときは、それ以外の時間がうれしくないのだと知ったのだ。
少女はいつしか、祈るようになった。
いつか、その光のかなたから、自分にとってのほんとうのお友だちが、会いにきてくれるように、と。
そのとき、だらしがなくて、はずかしかったりしないように、いっしょうけんめい、やれることをやろうと決めた。
だから、仕事を、さらに真剣にやるようになったのだった。
――その祈りのはじまりから、さらに年月が経って。
ずいぶんと、疲れた日だった。
ほこりがいつもよりずっと多くって、からだじゅうがぺたぺたして、自分の真ん中に、とても重いなにかが入り込んでいるようだった。
少女は風呂に入ると、いつもより時間をかけて身体を洗い、てっぺんからいちばん端まで、せっけんのかおりがしみこむようにした。そこまでしてようやく、ほこりのにおいがとれた。
湯船に浸かって、大きく息を吐くと、じぶんの内側にあった重いものが少しずつ流れ出て、とけていくようにかんじた。
目を閉じると眠ってしまう。そうしたいけれど。
それよりも、もっとやりたいことがあった。
窓の外を見た。
――今日は、これだけがんばった。すごくがんばった。
――だから、お友だち、会いに来てくれないかな。
心のなかで祈りを唱えて、少女は、あの青い光を探した。
すると驚くことが起きた。
青い光を見つけただけではなかった。
そこから、いくつものさらにちいさな光が枝分かれして、少しずつこちらに向かってきているのがわかった。
最初、どういうことか分からなかった。湯気で目がかすんだのかと思って、ぱちぱちした。けれど、変わらずそれらは、こちらにやってくる。たくさんの光。
ざばっ。
少女は立ち上がった。いっしゅん頭がくらっとしたけれど、強く自分をたもった。
湯気をかき分けて、窓の向こう側へと両手をのばす。
そして、あらん限りの力をこめて、生まれてはじめて、ため息以外の声を出した。
「お友だち、会いにきて! わたしは、ここにいるよ!」
少女は、当然知らなかった。
生まれたときから与えられた仕事――月面に降り立った『人類』の殺戮。
そう呼ぶことを知らない。自分よりずっと小さな者たち、ほこりのような。
青い光の名は地球。多数の報復部隊が、今まさに、自分を殺しにやってくる。
少女は、知ることがない。
何も知らないままに、彼らを受け入れるために、真っ黒な虚空に浮かぶ、ひとりぼっちの黄色い月の風呂から、呼びかけている。
月の風呂 緑茶 @wangd1
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