第1話 狐火と剣鬼の封印

人の気配の絶えた裏路地を、

蓮木カイは血の滲んだシャツを押さえながら歩いていた。


足元に転がる錆びた缶が、小さな音を立てて闇に吸い込まれる。

どこか遠くで野犬が吠える声がした。


街は静かだ。

それでも耳を澄ませば、誰かの声がずっと頭の奥でささやいている。


「――あの家は噂の神様に祟られたんだって」


「父親が横領してたんだろ?」


「だから家族ごと……」


家を燃やされ、父も母もいなくなったあの夜から、

街の噂はカイの血肉を喰うように生きている。


(ふざけんな……)


喉の奥が焼けるほどの息苦しさの中、

ポケットに仕込んだ古びた祈願札を握りしめる。


噂が現実になる街なら――

俺が噂を喰らい尽くしてやる。


月もない空の下、カイの前にひっそりと佇む廃れた祠があった。


祠の中には、埃を被った木箱。

その中に狐の面と、朽ち果てた刀の柄だけが鎮座している。


誰も来なくなったこの祠だけは、

昔から「噂の神魔が眠る」と言い伝えられていた。


カイの吐息が、冷えた空気の中に白く滲む。


(ここに……俺に力を貸す“囁き”が……)


背後で、かすかに火が灯った。

白く揺らぐ狐火だ。

誰もいないはずの祠に、獣の気配が満ちていく。


草履の擦れるような足音が近づく。

闇の奥で、九つの尾を引きずる白狐の影が姿を現した。


それは人のようでいて人ではない。

面を付けたまま、狐帝はふっと微笑む。


「来たか……噂の器よ」


低く艶やかな声が、直接頭の中に落ちてくる。

その声を聞いた瞬間、カイの背筋がぞわりと逆立つ。


「お前は、囁きを信じるか?」


狐面の奥の瞳が紅く灯る。

月も星も見えない夜、祠の中にだけ世界がある。


カイは奥歯を噛み締め、狐帝を睨み返した。


「信じてるさ。

 噂は現実になる――俺の家族を殺したのも、

 あのクソ教団の“噂の女神”だ……!」


狐帝は尻尾を揺らしながら、楽しそうに笑った。


「ならば、逆に喰らうがいい。

 噂を喰い、囁きを現実に変えろ。」


狐火のひとつがふわりと舞い、カイの胸元に吸い込まれていく。


「お前は“復讐の狐火”だと、街に囁かせろ。

 誰か一人でも信じれば、力は現実になる。」


カイはポケットからスマホを取り出した。

血で滲む画面を見つめながら、震える指で短い文を打ち込む。


《廃都の祠に復讐の狐がいる――》


投稿ボタンを押すと同時に、遠くの路地の奥で誰かが呟いた。


「見たか?狐火……」


「マジで?噂の祠って……」


それだけで十分だった。


狐帝の九つの尾が一つ、カイの背に絡みつく。


「よくぞ囁いた。

 これでお前の復讐は“噂”になった。

 噂は――お前の刃となろう。」


カイの口元に、血混じりの笑みが滲んだ。



だがその瞬間、祠の外に冷たい気配が立った。


ガシャン――と金属の鈍い音が響く。


闇から現れたのは白い仮面を付けた“噂執行者”。

教団の手先だ。

黒衣の裾が揺れ、月のない夜に人の形をした刃だけが浮かぶ。


「……蓮木カイ。噂の器。」


感情のない声。

白い仮面に刻まれた“囁きの女神”の紋が、

カイの喉元に突きつけられた短剣に映り込む。


「お前の噂は……ここで潰える。」


噂執行者の刃が振り下ろされる。

狐帝の幻惑が祠の中を満たすが、

執行者の刃は迷わない。


刃はカイの腹を抉り、鮮血が祠の石段を赤く染める。


「――ぐっ……!」


肺の奥が引き裂かれるような痛み。

噂が現実になる街で、「カイはここで死ぬ」という囁きが

確かに誰かの口から漏れているのが分かった。


その囁きに負ければ、本当に死ぬ。


――だが。



カイの血が祠の奥に流れ込む。

朽ちた刀の柄が血を吸い上げ、どくりと脈を打った。


どこからか、嗄れた咆哮が響く。


『死せよ……そして蘇れ……

 英雄は死して噂となり、噂となって現実に帰る。

 ――噂を信じろ、器よ!』


八つの蛇の首が絡みつくような幻影が、

カイの背後に膨れ上がった。


八岐剣鬼ヤマト――

死して尚、噂の中に生きる剣の鬼だ。


「……俺は……まだ……死ねない……!」


カイは血を吐きながら、刀の柄を握った。


すると柄は骨のように白く軋み、

肉のように蠢いて一振りの鬼骨刀となる。


執行者が無表情のまま刃を振り上げる。

だが次の瞬間――


カイの刀が一閃した。


仮面の奥の空洞が裂け、

教団の執行者は音もなく崩れ落ちた。


血の匂いの中で、カイは肩で息をする。



---


八岐剣鬼ヤマト(高笑い)

『良いぞ、器よ!

 噂を斬り裂け!血で繋げ!

 英雄の剣鬼はお前の噂となろう!』



---


狐帝の尾が舞い、祠の周囲に狐火が咲き誇る。


街の片隅で、誰かが再び囁いた。


「……本当だった……

 復讐の狐火と剣鬼が現れた……」


夜が、噂で満ちていく。




祠の石段の上、血の匂いと狐火の明かりに照らされながら、

カイはゆっくりと立ち上がる。


背には九つの尾を持つ狐帝。

そして八つ首の剣鬼が、仮初の主に嗤いかけている。


「囁きを喰らえ……噂を信じさせろ……

 この街を……俺が塗り潰す……」


夜風が血の匂いを攫っていく。


新たな噂が街を覆い尽くすのは、もう時間の問題だ。


――復讐の噂は、必ず現実になる。

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