闇語り─短編オムニバス

茂上 仙佳

鏡の向こうの隣人

新しい部屋


佐藤美咲は荷物を床に置くと、深くため息をついた。六畳一間の狭い部屋に、段ボール箱が山積みになっている。実家を出て一人暮らしを始めてから、もう三週間が経つのに、まだ荷解きが終わらない。




「やっと自由になれる」




そう思って飛び出してきた実家だったが、現実は甘くなかった。慣れない一人暮らしの家事に追われ、仕事では新しいプロジェクトを任されてプレッシャーが増している。Webデザイナーとしての仕事自体は好きだったが、クライアントからの無理な要求と短い納期に、最近は夜中まで作業することが多くなった。美咲は洗面所に向かい、鏡を見た。顔色は悪く、目の下にはくまができている。髪も伸びっぱなしで、全体的にやつれた印象だ。




「こんな顔してたっけ…」




洗面所の鏡は縦長で大きく、この古いマンションの数少ない良い点の一つだった。身だしなみを整えるのに重宝していたが、最近は自分の疲れた顔を見るのがつらくなってきていた。築三十年の「グリーンハイツ」は、駅から徒歩十五分の立地にある四階建てのマンションだった。外壁は薄緑色に塗られているが、所々剥がれて見すぼらしい。美咲が住む三階の3-A号室は、家賃四万五千円という安さに惹かれて選んだ物件だった。




隣の3-B号室は空き部屋らしく、入居してから一度も人の気配を感じたことがない。管理人の田中さんに聞くと、「もう半年以上空いてますね」ということだった。美咲は鏡の前で髪を整えながら、ふと隣の部屋のことを考えた。壁一枚隔てた向こう側は、自分の部屋と同じ間取りのはずだ。左右が反転しているだけで、洗面所の位置も同じなのだろう。


そのとき、鏡の中で何かが動いたような気がした。


美咲は手を止めて鏡を見つめた。自分の姿がそこにある。特に変わったところはない。疲れのせいで、目の端で何かを捉えたような錯覚を起こしたのだろう。最近、こうした些細な錯覚が増えている。集中力が落ちて、仕事でもミスが多くなった。体調を崩しているのは明らかだったが、病院に行く時間もない。


美咲は鏡から視線を外すと、パソコンの前に戻った。今日も徹夜になりそうだった。




微妙な違和感


翌朝、美咲は寝不足の頭をかかえながら洗面所に向かった。昨夜は結局、朝の四時まで作業していた。鏡に映る自分の顔は、さらにやつれて見える。


歯を磨きながら鏡を見ていると、また妙な感覚を覚えた。鏡の中の自分が、ほんの少し違って見えるのだ。何が違うのかはっきりしないが、微妙な違和感がある。


美咲は歯ブラシを持つ手を止めて、鏡の中の自分をじっと見つめた。鏡の中の自分も歯ブラシを持って、こちらを見つめている。当然のことだった。


しかし、次の瞬間、鏡の中の自分がほんの少し微笑んだような気がした。


美咲は慌てて鏡から目を離した。心臓が早鐘を打っている。振り返って鏡を見ると、そこには普通の自分の姿があった。疲れすぎているのだろう。幻覚を見るほど追い詰められているのかもしれない。


その日の夜、美咲は珍しく早めに仕事を切り上げた。体調が悪すぎて、集中できないからだ。


ベッドに横になると、隣の部屋から微かな音が聞こえてきた。




「コトン、コトン」




何かを置くような音だった。美咲は身を起こして耳を澄ませた。確かに隣の部屋から音がする。




「誰か入居したのかな」




でも、昼間に管理人の田中さんと会ったときは、何も言っていなかった。




「カチャカチャ」




今度は食器を洗うような音だった。時計を見ると、夜の十一時を過ぎている。遅い夕食の後片付けをしているのだろうか。


美咲は安心した。隣に人が住んでいるという事実が、なぜか心強かった。一人暮らしの不安が、少し和らいだ気がする。


しかし、その後も微妙な音は続いた。テレビの音、掃除機の音、そして時々聞こえる笑い声。女性の声のようだった。




鏡の向こう


翌日、美咲は管理人の田中さんに確認した。




「3-B号室、誰か入居されました?」




田中さんは首を振った。




「いえ、まだ空き部屋ですよ。どうかしました?」




「いえ、昨夜、音が聞こえたような気がしたので…」




「音?」田中さんは眉をひそめた。「古い建物だから、配管の音とか、上の階の音が響くこともありますからね。何かあったら、また言ってください」


美咲は納得できなかった。確かに隣の部屋から音が聞こえていたのだ。上の階の4-B号室は、中年の夫婦が住んでいるはずだ。あの若い女性の笑い声が、上から聞こえてくるとは思えない。


その夜、美咲は意識して隣の部屋の音に耳を澄ませた。十時を過ぎた頃から、また音が聞こえ始めた。




「カタカタ」




料理をしているような音だった。




「ジャー」




水道の音だろうか。


そして、女性の鼻歌が聞こえてきた。楽しそうな、軽やかな歌声だった。


美咲は壁に耳を押し当てた。間違いなく、隣の部屋から聞こえてくる音だった。




「誰かいるはずなのに…」




美咲は洗面所に向かった。もしかしたら、鏡越しに隣の部屋を覗くことができるかもしれない。洗面所の電気を消して、鏡を見つめた。月明かりがかすかに差し込んで、鏡の表面がぼんやりと光っている。




最初は自分の部屋の暗闇が映っているだけだった。しかし、じっと見つめ続けていると、鏡の向こうの景色が少しずつ変わってきた。


自分の部屋の間取りが左右反転して映っている。それは当然のことだった。しかし、隣の部屋の壁の向こうに、かすかな光が見えた。


美咲は鏡に顔を近づけた。


隣の部屋に明かりが灯っている。そして、そこに人の影が動いているのが見えた。


女性の影だった。キッチンで何かを作っているようだ。エプロンを着けて、楽しそうに料理をしている。


美咲は息を呑んだ。確かに隣の部屋に人がいるのだ。


しかし、その女性の顔は見えなかった。後ろ姿だけが鏡の向こうに映っている。


美咲は鏡から離れて、電気をつけた。心臓が激しく鼓動している。




「どういうこと?」




管理人は空き部屋だと言った。でも、確かに誰かが住んでいる。


美咲は再び鏡を見た。普通の洗面所の鏡に戻っている。隣の部屋の様子など、もう見えない。




理想の生活


それから毎夜、美咲は電気を消して鏡を覗くようになった。


隣の部屋の女性は、とても充実した生活を送っているようだった。料理を作り、部屋を掃除し、友人と電話で楽しそうに話している。時々、大きな声で笑う声が聞こえてきた。


美咲は次第に、その女性に興味を抱くようになった。いつも楽しそうで、生き生きとしている。自分とは正反対の生活を送っている人だった。


ある夜、美咲は鏡の向こうの女性がソファに座って、雑誌を読んでいるのを見た。リラックスした様子で、時々微笑んでいる。




「いいな…」




美咲は思わずつぶやいた。


自分は毎日、仕事に追われて疲れ切っている。友人と遊ぶ時間もないし、料理をする気力もない。コンビニ弁当ばかり食べて、部屋は散らかったままだ。


隣の部屋の女性は、美咲が憧れる生活を送っているのだった。


「私も、あんな風に生活したい」


美咲は鏡に向かってつぶやいた。


すると、隣の部屋の女性が突然こちらを振り向いた。


美咲は驚いて息を呑んだ。


女性の顔が見えた。


それは美咲自身の顔だった。


しかし、鏡の向こうの自分は、美咲よりもずっと健康的で、生き生きとしている。肌の色もよく、目には輝きがある。髪も手入れが行き届いて、きれいにセットされている。


美咲は鏡の向こうの自分と目を合わせた。


向こうの自分は微笑んで、手を振った。


美咲は震える手を上げて、手を振り返した。


鏡の向こうの自分は、口の形で何かを言っている。




「こっち…おいで…」




そう言っているように見えた。


美咲は鏡に手を伸ばした。




境界線


翌日、美咲は仕事が手につかなかった。昨夜のことが頭から離れない。


鏡の向こうの自分は、一体何だったのだろうか。


幻覚だったのかもしれない。疲労とストレスで、正常な判断ができなくなっているのかもしれない。


しかし、あの鏡の向こうの自分は、あまりにもリアルだった。そして、美咲が心の奥底で望んでいる姿そのものだった。


健康で、幸せで、充実した生活を送っている自分。


美咲は鏡を見るのが怖くなった。しかし、同時に、もう一度あの自分に会いたいという気持ちも強くなっていた。


その夜、美咲は意を決して洗面所に向かった。


電気を消して、鏡を見つめる。


しばらくすると、隣の部屋の明かりが見えてきた。


鏡の向こうの自分は、キッチンで夕食を作っている。手際よく野菜を切り、フライパンで炒めている。美咲が最近、全くやらなくなったことだった。


料理が出来上がると、向こうの自分は小さなテーブルに座って、一人で食事を始めた。しかし、その表情は寂しそうには見えない。むしろ、自分の時間を楽しんでいるようだった。


食事を終えると、向こうの自分は洗面所に向かった。


鏡の前に立って、歯を磨いている。


美咲は、鏡の向こうの自分が鏡を見ていることに気づいた。


つまり、向こうの自分も、こちらを見ている可能性がある。


美咲は緊張した。


向こうの自分は歯磨きを終えると、鏡をじっと見つめた。


そして、微笑んだ。


美咲は思わず身を乗り出した。


向こうの自分は、手を鏡に向けて伸ばした。


美咲も、無意識に手を伸ばしていた。


二人の手が、鏡の表面で触れ合いそうになった。


その瞬間、美咲は手を引っ込めた。


何かがおかしい。これは普通のことではない。


美咲は電気をつけて、鏡から離れた。




誘惑


次の日の夜、美咲は再び鏡の前に立った。


もう止められなかった。鏡の向こうの自分が、どんどん魅力的に見えてくる。


向こうの自分は、美咲が失ったものを全て持っているように見えた。


健康、幸福、充実感。


美咲は自分の生活と比較して、惨めな気持ちになった。


鏡の向こうの自分は、今夜も楽しそうに過ごしている。友人と電話で話し、笑い声を響かせている。


美咲は、最後に友人と心から笑い合ったのがいつだったか思い出せなかった。


向こうの自分は電話を切ると、こちらを見て微笑んだ。


そして、手で「おいで」という仕草をした。


美咲は鏡に近づいた。


向こうの自分は、口の形で何かを言っている。




「こっちの方が楽よ」




そう言っているように見えた。


美咲は鏡に手を伸ばした。


鏡の表面が、水のように波打った。


美咲の指先が、鏡の向こう側に入っていく。


冷たい感覚が指先を包んだ。


向こうの自分が、美咲の手を握った。


温かい手だった。




「来て」




向こうの自分の声が、かすかに聞こえた。


美咲は鏡の向こう側に引っ張られるような感覚を覚えた。




選択


美咲は慌てて手を引っ込めた。


鏡の表面は、再び硬いガラスに戻っている。


向こうの自分は、少し残念そうな表情を見せた。


美咲は震えていた。


あれは一体何だったのだろうか。


鏡の向こうの世界は、本当に存在するのだろうか。


それとも、自分の精神状態が完全に不安定になっているのだろうか。


美咲は医師に相談することを考えた。しかし、「鏡の向こうの自分と話をした」などと言えば、間違いなく精神的な病気だと診断されるだろう。


美咲は鏡を見るのを止めることにした。


しかし、隣の部屋からの音は続いていた。


楽しそうな笑い声、料理をする音、電話で話す声。


美咲は耳を塞いで眠ろうとしたが、どうしても気になってしまう。


ついに、美咲は再び鏡の前に立った。


向こうの自分は、今夜も充実した時間を過ごしている。本を読んだり、ヨガをしたり、アロマキャンドルを灯してリラックスしたりしている。


美咲の生活とは、あまりにも対照的だった。


向こうの自分は、美咲に気づくと立ち上がった。


そして、鏡の前に来て、手を伸ばした。


美咲も、無意識に手を伸ばしていた。


二人の手が鏡の表面で触れ合った。


鏡が再び波打つ。


今度は、美咲の手だけでなく、腕全体が向こう側に入っていく。


向こうの自分が、美咲の手を強く握って引っ張る。


「こっちにおいで。こっちの方が幸せよ」


美咲は抵抗しようとしたが、体が勝手に動いている。


鏡の向こう側の世界が、だんだん近づいてくる。


そこには、美咲が望んでいた全てがある。


健康、幸福、充実した生活。


美咲は、もう抵抗する気力がなくなっていた。




新しい住人


翌朝、管理人の田中さんが3-A号室のドアをノックした。




「佐藤さん、大丈夫ですか?」




返事がない。


昨夜、他の住人から「隣の部屋で大きな音がした」という苦情があったのだ。


田中さんは合鍵を使って部屋に入った。


部屋には誰もいなかった。


荷物はそのまま残っているが、美咲の姿はない。


田中さんは洗面所を確認した。


鏡に細かいひび割れがある。




「地震でもあったのかな」




田中さんは首をひねった。


警察に連絡し、捜索願が出された。しかし、美咲の行方は分からなかった。


一か月後、新しい住人が3-A号室に入居した。


林慎也、二十五歳の会社員だった。


慎也は最初、この部屋を気に入っていた。家賃が安く、駅からもそれほど遠くない。


しかし、入居して数日経つと、隣の部屋から音が聞こえるようになった。


料理をする音、掃除機の音、そして女性の笑い声。


慎也は管理人に確認した。




「3-B号室、誰か住んでますか?」




田中さんは首を振った。




「いえ、まだ空き部屋です」




慎也は不思議に思った。


ある夜、慎也は洗面所の鏡を見ていた。


電気を消して、じっと見つめていると、隣の部屋の様子が見えてきた。


そこには、一人の女性がいた。


エプロンを着けて、楽しそうに料理をしている。


慎也は驚いて鏡に顔を近づけた。


女性は振り返った。


美咲だった。


しかし、慎也の知らない美咲だった。健康的で、幸せそうな表情をしている。


美咲は慎也に気づくと、手を振った。


そして、口の形で何かを言った。




「こっちにおいで」




慎也は鏡に手を伸ばした。


鏡の表面が波打った。


美咲が慎也の手を握った。




「こっちの方が楽よ」




美咲の声が聞こえた。


慎也は鏡の向こう側に引っ張られていく。


そこには、理想的な生活が待っているように見えた。


慎也の姿が鏡の向こうに消えていく。


洗面所には、再び細かいひび割れの入った鏡だけが残された。


そして、隣の部屋からは、今夜も楽しそうな笑い声が聞こえてくる。


男性と女性、二人の声が混じった笑い声だった。


次の住人を待ちながら。




終わらない招待


グリーンハイツの3-A号室は、今日も新しい住人を迎える準備をしている。


洗面所の鏡は新しいものに交換されたが、夜になると、隣の部屋から楽しそうな音が聞こえてくる。


料理をする音、掃除機の音、そして複数の人の笑い声。


鏡の向こうの世界は、確実に住人を増やしている。


そして、今日もまた、新しい住人が鏡の前に立つ。


疲れた表情の若い女性だった。




「私も、あんな風に生活したい」




彼女は鏡の向こうの楽しそうな住人たちを見て、つぶやいた。


鏡の向こうから、手を振る姿が見える。


美咲と慎也、そして他の住人たちが、新しい仲間を歓迎している。




「こっちにおいで」




女性は鏡に手を伸ばした。


鏡の表面が波打つ。


また一人、鏡の向こうの世界の住人が増えた。


グリーンハイツの3-A号室は、今夜も新しい住人を探している。


完璧な生活を求める、疲れた人を。


そして、鏡の向こうの招待は、決して終わることがない。




【終】

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