第5話 正しさのない世界で、まやかしを信じる
目撃の構図 《音が鳴る前に》
通報は、午前四時五十二分。
「また、無傷の死体が出た」
その短い連絡が無線に乗って届いたとき、
夜が明けきる直前の、淡い灰色に沈んだ街。
現場はビル街の谷間、かつて商業ビルだった建物の裏手。
雨は上がったばかりで、路面は乾きかけている。
到着してすぐに、違和感が走った。
音がない——のではなかった。音が、遠い。
車の走行音も、人の声も、まるで壁越しに聞こえてくるような距離感でしか届いてこない。
(空間が……緩んでいる?)
風は吹いているのに、服ははためかない。空気が“押し戻して”くるような密度だ。
フィアは無言で歩いていた。
足元の舗装が剥がれた箇所を避けながら、死体へと近づいていく。
そこには、“整いすぎた”死があった。
仰向けに倒れた青年。スーツ姿。首元に乱れはなく、手のひらを膝の上に乗せている。
まるで誰かが「こうしておいてくれ」と言ったかのような配置。
整然。完璧。そして、異様。
「……生きていた時の熱が、まだ残ってる」
フィアの声が落ちる。
その目は死体ではなく、周囲を見ていた。
すっと視線を走らせてから、低く続ける。
「これは……空間に穴が空いてる。力を削がれたんじゃない。“吸い出された”」
「空間が……?」
「……気圧じゃ説明できない。この場にいた痕跡ごと、どこかへ“引っ張られた”ような死に方」
たしかにこの現場には、前の現場で感じたような“拒絶”の気配がない。
むしろ、「どうぞご覧ください」と言わんばかりの、開かれた異様さが漂っていた。
「フィア。これ、見せつけてるのか?」
彼女は頷かない。ただ、わずかに目を細める。
空気の密度が、さらに変化していた。
「……音が戻り始めてる。空間の繋ぎ目が、ほぐされてるみたい」
指先を首筋に当てる。熱がある。けれど、命はない。
「……フィア。この“感じ”、お前の符術でも似たような干渉ってできるか?」
「無理。これは魔術系でも符術系でもない。もっと……本能的な、干渉」
フィアがポケットから一枚の紙を取り出し、風に乗せるように舞わせた。
すぐに、紙がひとりでにくるりと向きを変える。
「風じゃない。“吸い寄せる力”に反応してる」
「つまり……この死体、何かに“招かれた”ってことか」
そして、その直後。
――カツ、ン。
足音が響いた。ビルの屋上。
すぐに気配が消える。視線を向けても誰もいない。
(……いたな)
“誰か”がこちらを見下ろしていた。それだけは確かだった。
見せつけるように、音を残して去った“何か”。
静かに息を吐き、ハルは無線に手をかける。
「現場到着。対象は遺体一名。状況……異常。警戒レベルを引き上げる。……フィア、警戒、強めろ」
フィアはすでに次の符を用意していた。
「了解」
《設計された沈黙》
ビル街の谷間、かつて商業ビルだった建物の裏手。
今回の現場は空気が――軽すぎた。
まるで、ここだけ気圧が変わっている。温度ではない。音でもない。
《密度》が違う。生ぬるい風が、皮膚にまとわりつくように抜けていく。
「……やっぱり変だ。似てるはずなのに、前とは全然違う」
呟いた声に、フィアが横を歩きながら応じる。
「前回の現場?」
「そう。あのときは、沈んでた。空気ごと封じられてる感じだったけど、今回は……」
言いながら、ハルは周囲を見渡す。
光はある。車のヘッドライトも届いている。けれど、見える景色が《実在》していないような感覚。
「……軽くて、抜けてるような?なんつーか、置いてある感じがする」
「“置いてある”?」
「ほら、作り物のセットみたいに。整ってるけど、現実感がない」
フィアが立ち止まり、符を数枚取り出した。
ひと振りで紙片が空中に散り、光を帯びて揺れる。
「……魔力の濃度が変動してる。自然なゆらぎじゃない。上下の振れ幅が大きすぎる」
一枚の符が、空中でピタリと止まった。
そして震え出す。波のように、細かく。
「境界の縁に触れてる。しかも――これは……」
フィアが低く唸る。
「なにか、分かった?」
「結界構造が反転してる。外からの“遮断”じゃない。中から、外を締め出してる」
「……中から?」
「この空間の中心に、“意志”がある。誰かが……ここを設計した」
ハルは喉の奥で息を詰まらせる。
異様さの理由が、ようやく輪郭を持った。
これは、事故じゃない。自然発生でもない。
――仕掛けられている。
フィアが静かに言う。
「これは、招き」
「……招き?」
「誰かが、誰かを呼んでる。見せて、気づかせて、何かを始めようとしてる」
全身の神経が、わずかに震えていた。
「……誰を呼んでるんだ、いったい」
夜明けの空が、仄かに赤みを帯び始めていた。
対峙 《夜を裂く者》
空気が軋んだ。目に見えぬ何かが、空間の繊維を一枚ずつ剥がしていくような、そんな音だった。
フィアの指先が止まる。空中で揺れていた符が、ふっと、風もないのに裏返った。
「……来る」
その言葉とほぼ同時に、闇が割れた。
向かいの路地の入り口。街灯の光が届かないはずの奥に、輪郭だけがゆらりと現れる。
黒い外套。身体の線すら曖昧なほど、影と同化している。
だが、確かに“それ”は、こちらを見ていた。
「……人か?」
そして。
「いや……人じゃない」
フィアが低く言う。彼女の目が、夜の深さを測るように細まっている。
影は、笑った。音はない。ただ、口角だけが冷たく持ち上がる。
「符などという奇術で、結界を覗くとは。滑稽だな」
声が響いた。
やけに通る声だった。耳に刺さるような冷たさと、言葉の端に滲む優越感。
「……あんた、何者だ」
「我は秩序の徒。魔術の理を知る者。そして、愚かな現代の病理を正す者」
影の言葉は、芝居がかった響きを持ちながらも、不思議と空虚ではなかった。
そこにあったのは、確かな“信念”だった。
「魔術こそが力。秩序の基盤。符術などという模倣は、ただのまやかしだ」
フィアの眉がわずかに動く。
「……否定したいなら、それでいい。けど、まやかしで何が悪い」
「“本物”に劣るからだ。お前の術など、我が足元にも及ばぬ」
直後だった。
空気が裂けた。
黒衣の吸血鬼が一閃する。目にも止まらぬ速さで、
「なっ……」
振り返ったときには、彼らはすでに意識を失っていた。
外傷はない。だが、体の力がすべて抜けたように、膝から崩れ落ちていた。
「これは“警告”だ。力なき者が秩序を語る資格などない」
言葉に重さはない。ただ、淡々とした“事実”の提示だった。
フィアが小さく、息を吐く。
「……一撃で、神経を……」
「魔術の応用だ。お前たちのような下等な術式とは格が違う」
「……なるほど。じゃあ、今度はこっちの番だ」
そう呟いたのは、
表情は変わらない。ただ、足元の重心が少し沈んだ。
次の瞬間、彼は駆けた。
交戦 《護るための技》
闇に向かって踏み出した足は、まるで空気の膜を突き破るように、静けさを乱した。
吸血鬼の視線が、わずかに揺らぐ。その瞬間を見逃さず、風間は右手で警棒を展開。左手の手錠を腰から引き抜いた。
「警告は、もう受け取った」
声は低く、抑えられていた。だが、足取りには迷いがない。
符が走る。
フィアの手から滑り出た符が、風間の足元に流れ込むように展開される。即時反応型。踏み込んだ瞬間、空気がわずかに圧縮されるような感覚。
「援護、入れる」
短く、それだけ。けれど、彼女が“託した”という事実が、
吸血鬼が笑う。冷ややかに、しかしどこか哀れむように。
「まやかしの術……くだらん。 そんなものに“意味”があると思っているのか?」
フィアの手が、一瞬だけ止まる。目線は変わらない。
けれど、その指先にわずかに力がこもった。
「まやかし」――それは、何度も浴びてきた言葉だった
それでも、諦めなかった。何もない手で、ゼロから式を組み上げ、誰も使えない術を生み出した。それが符術だった。
だから――「くだらない」と吐き捨てられるたび、否定されるのは自分の過去そのものだった。
それでも、止まらなかった。
「……なら、私はそのくだらない“まやかし”に賭ける」
声は冷たく、それでいて静かな怒りを孕んでいた。研がれた意志が、指先の符に刻まれる。だが、動きは止めなかった。手の中の符に、新たな起動の印を刻む。
次の瞬間、空間が歪む。
吸血鬼の姿がふっと消えた。否、速度が視認を許さないだけだ。
その軌道を、踏み込んだ足の裏の符が察知する。足元の地面が一瞬だけ浮かび、風間の身体を横へと滑らせた。
警棒が弾く。鋼と鋼がぶつかる音はない。吸血鬼の腕は、紙のように柔らかく、そして鋼よりも硬い。
「……っ、硬いな」
押し返す力は、並の人間ではない。
左の手甲に符が吸い付くように馴染み、じんわりと温もりが滲んだ。淡い光が、脈を刻むように脈動する。
「——いくぞ」
返事はない。けれどフィアは、すでに手元の符を起動していた。
音もなく、空気がしぼむ。
符が光るたび、彼女の意志が風間の動きを後押しする。“信じてる”——その気配が、手のひらに、背中に、確かに宿っていた。
吸血鬼が再び詰め寄る。フィアの符が、空間に浮かびあがる。跳躍。
わずかに体勢が揺れた。それでも、吸血鬼の顔には笑みが浮かんでいた。
「連携——か。なるほど、“誰かと組まねば力を持てぬ”術か」
吸血鬼は真正面から風間を見据え、微動だにしないまま、低く囁いた。
「魔術とは支配だ。神の設計だ......術者ひとりで世界の理を操る——それが“純粋な力”。他者に縋る術など、滑稽ですらあるッ。そんなモノにすがる者が、なにを守れるというのか」
吸血鬼の腕が、裂いた空間に、魔力の濁流が走る。
次の一撃は、防げるかどうかも分からない。
だが
「お前の作った物は、まやかしなんかじゃねえよ」
吸血鬼の腕が、裂いた空間に、魔力の濁流が走る。
次の一撃は、防げるかどうかも分からない。
共鳴符が脈を打つと同時に、改めて強く手錠を握り込む。それは、彼が初めて持った武器だった。誰かを傷つけないために、誰かを守るために――掴み続けてきたものだ。
その手を振りかぶる。烈風のような魔力の奔流に対し、ただ一撃を叩きつけた。
「——ッ!」
魔力と金属がぶつかる。正面からの衝突だった。
空気が"割れ"、光が飛沫のように弾け飛ぶ。
同時に、フィアの符が展開された。
それは、術式の理論を超えた、瞬間の“直感”だった。彼を、守らなきゃ——
風間の足元の地面がひび割れ、砂埃が舞う。だが彼は、倒れなかった。
吸血鬼の笑みが、ふと、消えた。
余韻 《否定された価値》
魔力の余韻が空気に溶け、濁流は霧のように掻き消える。
吸血鬼は一歩、
「ほう。——異端にも、執念というものがあるらしい」
その声音は、怒りでも賞賛でもない。ただ、わずかな好奇を滲ませた静けさだった。
「また会おう、人間と……異端の子よ」
それだけを残し、吸血鬼の姿がすっと闇に溶けていく。
空間がゆるやかに閉じ、彼の気配は消えた。
残されたのは、静まり返った路地と、微かな魔力の残り香だけだった。
手には、使い終えた符を握りしめたまま。
両手がわずかに震えている。
それを額の前に当てるようにして、彼女は顔を伏せていた。
「……まやかし、か」
かすかに洩れた声。
過去の言葉が、またも胸を刺す。
片手に持ち、フィアの肩をそっと小突いた。
彼女が顔を上げる。
そのまま、ヘルメットを彼女の頭にかぶせた。
言葉を探していた。
何が正しいかも、どうすれば傷つけないかも、分からない。
けれど。
風間は白バイにまたがり、エンジンに手をかけながら——
「お前の作った物は、まやかしなんかじゃねえよ」
「これでしか——守れないものがある」
左手をあげながら背中で言った。
路地に戻った静けさの中で、微かな音だけが風を割いた。
報告 《踏み出せない正義》
重たい扉が、背後で音を立てて閉まった。
白と灰色で塗り分けられた無機質な空間に、わずかな反響が残る。
「……家に帰ると思ってた」
フィアがぽつりと呟いた。
その声に怒りはなかった。ただ、どこか、疲れた音をしていた。
「しょうがないだろ。報告までが、仕事なんだ」
部屋の奥には、管理局の上層部数名。顔は見えない。光源の位置が高すぎて、影が顔を塗り潰している。
机の上には報告書。手元の端末に記録されていく言葉は、淡々としていて、冷たい。
「現場は“揺れ”の発生地点と一致。“未確認異常”に分類。影響範囲、特定困難」
「目撃情報および遺留痕跡は不明瞭。対象の存在は確認できず」
「……は?」
「じゃあ……あの死体も、嘘だったって言うの?」
風間の声がわずかに震えた。
フィアが、そっと机の下で拳を握る。
「目の前で、仲間が殺されて! 空間が裂かれ、魔力が噴き出した!!」
声が一瞬だけ壁に跳ね返る。だが、返事はない。
「……彼らを“なかったこと”に、俺は……できませんッ」
静寂。
風間の言葉は、ただ空気の中で散った。
「報告は以上ですか?」
無機質な合成音声のような声。
フィアは立ち上がらずに、風間の横顔だけを見る。
彼の目には、静かな怒りが宿っていた。
「退出を」
やがて、
椅子の脚が床を擦り、重たい音を立てる。
部屋を出るとき、フィアは扉の前でわずかに足を止めた。
「……私たちの言葉は、何も届かないんだね」
吐き出した熱のない息が、蛍光灯の光にかすかに揺れた。
——
廊下に出た瞬間、空気が変わった。
無機質な会議室の重さは、まだ背中にまとわりついていた。
遠くで機械が回る音がする。だがその音すら、どこか遠く感じる。
数歩後ろ。フィアもまた俯き無言のまま歩く。
拳を握っているのか、肩がかすかに揺れていた。
「……あたし、何も言えなかった」
ぽつりと漏れた声には、言い訳も怒りもなかった。
ただ自分を責めるような、ひどくかすれた響きだけが残る。
風間は振り返らない。だが、言葉だけは短く返す。
「……俺は見た」
フィアの足が止まる。
風間の背が、わずかに揺れる。
「ヤツが放った魔力を左手の符で打ち破った時、フィアの結界が守った瞬間を」
一拍、空気が止まる。
「聞こえてたぞ」
その声には熱があった。
フィアは、怒られているわけじゃないと分かっていた。
けれどその熱量が、どこかくすぐったくて、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
「言葉にならなかったお前の顔も、震えた手も……あれは全部、本物だった」
会議室の無機質な光では消しきれなかった、確かな怒りの残滓。
「お前のやったことを信じる」
静かに、しかし制度の“冷たさ”を刺すように
怒りも、悔しさも、届かなかった声に向けられていた。
フィアは、下を向いたまま小さく息を吐いた。
その指先が、そっと符の紙を握り直す。
「……そっか」
呟きは、ほとんど無音だった。けれど、その声にはわずかなあたたかさがあった。
二人はまた、歩き出す。
蛍光灯の下、ひとすじの影が重なってのびていった。
無言のまま、寄り添うように。
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