第2話 転機は突然に

陽の当たる縁側で、ふかふかの布団にくるまりながら、私はごろりと転がっていた。


(あったかい……なんかもう、このまま寝てもいいかも……)


目の前には、湯気の立つ白湯とやわらかいお粥。

乳母が木匙でそっと口元に運んでくれるそれを、私はゆっくり、よく噛んでから飲み込む。


「源六様、今日もお利口でございますねぇ。よく噛んで、えらいですこと」


(……うん、なんか、こうした方が落ち着くんだよね)


言葉にはならないけれど、小さな私は、小さな世界で毎日を穏やかに過ごしていた。


乳母も爺やもやさしくて、衣服は季節に合わせて丁寧に調えられている。

朝昼晩のご飯はあたたかく、部屋も寒くない。


不思議なことに「物がない」「足りない」と思ったことがない。


(なんか、すごく……ちゃんとしてる)


でも、それが“当たり前”なのか“特別”なのかは、まだわからなかった。



ある日、屋敷の空気が変わった。


使用人たちがひそひそ話し、いつも明るい乳母の顔にも陰が差している。


「……次郎吉様が……」


「まさか、あのお方が……」


耳に入ってくる声の中に、「次郎吉」という名があった。


(……兄さま、だっけ。会ったこと……あったっけ?)


たしか、私は“源六”と呼ばれていて、末の子。

父は立派な人らしいが、私は生まれたときに「体が弱いかもしれない」とかで、城ではなく家老の家に預けられたのだという。


だから、兄たちのことはよく知らなかった。

姿を見た記憶も、声を聞いた覚えもない。


でも、その日を境に、周囲がざわざわとし始めた。


人の出入りが増え、なにやらあわただしい。


やがて、父の使者がやってきた。


「源六様は、江戸へ向かわれます」


(え……なにそれ?)


そう思う間もなく、私は立派な駕籠に乗せられ、家臣に囲まれて旅に出た。



江戸の紀州藩邸は、それまで住んでいた屋敷とは比べものにならないほど大きかった。


廊下が何本もあり、行き交う人の数も多い。

部屋は広く、言葉遣いもどこか硬い。


「源六様、こちらへどうぞ」


「お着替えはこちらで……」


それまで親しんでいた乳母とは別の人たちに囲まれ、少しだけ不安になった。


でも、食事はやっぱり温かく、布団もふかふかで、静かにしていれば誰も怒らない。

私は新しい環境にも、なんとなく順応していった。


数日後、改まった場で名を呼ばれた。


「以後、源六様は“徳川新之助”と名を改められます」


(……しんのすけ?)


どこかで聞いたような、でもはっきりしない。


(うーん……まあ、かっこいい気もするし……別にいいか)


幼い私は、それがどういう意味を持つのか、深く考えることもなく受け入れた。


「武家の子は、成長にあわせて名前が変わるものですからなあ」


と、大人たちは当然のようにうなずいていた。



新しい名前、新しい屋敷、毎日の稽古。

剣術や弓、文字の練習に礼儀作法と、遊ぶ時間は減ったけれど、生活は安定していた。


とくに「食べること」に関しては不満がなかった。

三度のごはんはちゃんと出るし、熱すぎず、冷たすぎず。


私は、よく噛んで、しっかり飲み込んで、残さず食べる。


それがいつの間にか「立派なお子様」と評されるようになっていた。


「新之助様は、きっとご立派なお方に育たれましょうな」


(……それって、褒められてる?)


でも、“将来は当主に”なんて空気は、この時点ではなかった。

まだ兄たちがいたし、私は末の子。誰もが“まさか”と思っていたはずだ。


ただ、私の知らぬところで、ひとり、またひとりと兄が姿を消し――

気づけば、私しか残っていなかったのだ。

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