通知が、夢を追い越した

@ohisamatamago

通知が夢を追い越した

どこで出会ったって言われたら、ちょっと説明に困る。

でも確かに、あのときのメッセージのやりとりから、何かが始まっていた。


東京に住む私と、岐阜で一人勉強している彼。

たった数文字のやりとりから始まった会話が、いつの間にか夜ごとの習慣になっていた。


私はまだ高校生。二つ年上の彼に、初めは敬語で話していたのに、だんだんと距離が縮まって、気づけば何でも話せる存在になっていた。

会ったことはない。でも、彼の言葉の温度だけは、ちゃんとわかっていた。


夏が来て、部活も引退して、少し時間ができたころ。

「母に東京の友達のとこ行こって言われて、ついてこいだってさ。」と彼が言った。

「その友達の家に寄るらしい。俺と同い年の息子と、妹と同い年の娘がいるって」


まさか、って思った。

まさかその家が、うちとは。

うちには兄がいるし、妹もいる。

でも、まさか彼が来るなんて……なんて都合のいい偶然、あるわけないと思った。


――でも、あった。


夏休みの昼下がり。

インターホンが鳴って、母が「はーい!」と玄関へ出ていく。

そして、私がその後ろから顔をのぞかせた瞬間。


そこに、彼が立っていた。

画面の向こうの「君」が、現実に立っていた。


目が合った。

一瞬、時間が止まった。

彼の顔も、きっと同じだった。目が丸くなって、言葉を失っていた。


「えっ……」

思わず声が漏れた。

母も兄も、まだ何も気づいていない。

でも私と彼だけが、この偶然の重みに息をのんでいた。


夕方が過ぎ、夜になった。

家が静かになり、風鈴の音がどこかから聞こえてくる頃。

私はスマホを手に取って、震える指でメッセージを送った。


《ちょっとだけ、外来れそう?》


数分後、彼が外に出てくる音がした。

玄関の灯りを避けて、私は門の横に立っていた。

月明かりに照らされた彼の横顔は、画面越しより少し大人びていて、でもあのときのままだった。


「……びっくり、したよね」

そう言うと、彼が「うん。でも、うれしい」と答えた。

その言葉だけで、胸が少し熱くなった。


一緒に歩いた。

私が生まれ育った街。

灯りの少ない裏通りを抜けて、小さな橋を渡る。

古い公園に着くと、ブランコが風に揺れていた。

自販機の明かりが、ぼんやりとふたりを照らしていた。


ベンチに座り、しばらく何も話さなかった。

ただ、隣にいることが、不思議で、うれしくて、こわくて――でも、ちゃんと現実だった。


「ねえ、会えたら、したいことたくさん考えてたんだ。映画とか、水族館とか……」

言いながら、自分がちょっと夢見がちなことを言ってるなって思って、照れくさくなった。

「でも、こうして話すだけでも、ずっと前から知ってた気がする」


彼はうなずいた。

「うん。俺も、なんか……ずっと前から、こうなる気がしてた」


また風が吹いて、私の髪が揺れた。

彼の視線がそれを追っている気がして、ちょっとだけ、嬉しかった。


「あとでさ、秘密の場所、行かない?」

「秘密の場所?」と彼が聞く。


私は静かに笑った。

「うん。お兄ちゃんたちがたまに集まる場所で、小さな丘の上にあるんだ。街の灯り、全部見えるの。……私も、大事な人にしか教えてない場所」


そう言って、ふたりでまた歩き出した。

夜の熱が手のひらをあたためていた。

でもそれよりも、彼の隣を歩くこの感覚が、何よりも現実を感じさせてくれた。


夜風が少しだけ涼しくなってきたころ、

私は彼を丘へと案内した。


ここは、地元の人間しか知らない。

駅から離れていて、草むらを少しだけかき分けないとたどり着けない。

でも、登りきったときに広がるあの景色を、どうしても彼に見せたかった。


ふたりで並んで、草を踏みしめながら登る。

彼は少し息を切らせながら「ここ、ほんとに秘密の場所だな」って笑った。


「でしょ。私、ここ好きなの。ひとりでもよく来る。落ち込んだときとか、考えごとしたいとき」


そう言ってから、ふと我に返る。

……あれ、今のってちょっと重かったかも。

でも、彼はただ静かに頷いただけだった。


丘の上に着いたとき、彼が小さく声を漏らす。

「うわ……すごい……」


足元に広がる、東京の灯り。

高層ビルの明かりも、住宅街のオレンジ色も、みんな夜に溶けていた。

遠くを走る電車の音が、風に乗って聞こえてくる。


「ほんとに、全部見えるんだな」

「うん。なんか、東京って感じしない? 見慣れてるけど、ここから見ると違って見えるの」


ふたり、草の上に腰を下ろした。

夜空には星が少しだけ見えていた。

光が多いから、数えるほどしかない星たち。


「ほんとに、会えるとは思ってなかった」

「俺も。まさか、こんな形で……」

彼の声が優しかった。


私は、彼の隣にいることが、まだ信じられないような、でもずっと前から決まっていたような――そんな気持ちだった。


しばらく、ふたりとも何も言わなかった。

風の音と、虫の声と、遠くの街のざわめき。

全部が、今のふたりを包んでくれていた。


やがて私は、そっと言った。


「……来年、会えなくなるかもしれないって思ってた」

「なんで?」

「受験って、きっと大変で。合格するかもわかんないし、気持ちも変わるかもしれないし……」

「でも変わらなかった」

彼がそう言った。


私は、うん、と頷いて、そっと横顔を見た。

その瞳がまっすぐで、私はふと息を呑んだ。


――あ、この人、信じていいって思った。


「来年、早稲田受かったら、またここに来ようね」

「絶対来る。約束」


彼の声に、少しだけ泣きそうになった。



帰り道。

夜はもう深くて、静かすぎて、言葉がいらなかった。


家に戻ると、彼はそっと「またね」と言って玄関に入った。

私は門の外で立ち止まり、空を見上げた。


……夢みたいだった。

でも、手のひらに草の感触が残っている。

だから、夢じゃない。



翌朝。

彼が帰る日。

私は寝たふりをしていた。


見送りなんて、恥ずかしくて。

でも、階段を降りる足音が聞こえたとき、胸の奥がちくりとした。


玄関のドアが開く音。

「お世話になりましたー」と彼の声。

母の笑い声。兄の声。


車のドアが閉まり、エンジンがかかる。

私は布団の中で、目を開けた。


スマホが震えた。彼からのメッセージがあった。


《昨日のこと、忘れないよ。ありがとう》


私はすぐに返した。


《また来て。絶対。また会おうね》


そして、その言葉の「また」が、「さよなら」じゃないことに、少し安心した。


彼の背中はもう見えなかったけれど、

あの夜の丘の灯りが、心の中で、まだゆっくりと瞬いていた。


目を覚ました瞬間、光が強すぎた。

カーテンの隙間から差し込む朝の日差しが、やけに白く感じられた。


枕元には、昨日の夜と同じ、読みかけの文庫本。

ベッドサイドには、充電中のスマホ。


でも――彼の声が、ない。


玄関の音も、エンジンの音も、風鈴の音も。

思い返してみると、どれも輪郭がぼんやりしていた。


起き上がって、冷たい床に素足をつけたとき、胸の中がすうっと冷えていった。


あれは、夢だったんだ。


丘の上で肩を並べたことも、草の匂いも、ブランコのきしむ音も、

「また来てね」と言って見送った朝も――全部、夢。


夢のなかの彼は、相変わらず優しくて、私の知らない顔をしていた。

でも本当は、一度も会ってなんかいない。

玄関を開けたら、彼が立っていたなんて、ありえない。

こんな都合のいい偶然、最初からなかった。


私は少し笑って、天井を見上げた。


なんだろう、ほんとに、

ちょっとだけ泣きそうだった。


スマホに目をやる。

ロック画面に、通知がひとつ。


《昨日、急に寝落ちしてごめん。まだ起きてる?》


時刻は、夜の1時半。

私が夢を見ていた、ちょうどその頃。


指先が止まった。

画面の向こうに、ちゃんと彼がいる。


ほんとは夢なんかじゃなかったらいいのに、

なんて思った自分が、ちょっと恥ずかしくなった。


私はベランダのドアを開けて、外に出た。

夏の空気がまだ残っていて、

でも風の中には、秋の気配が混じっていた。


セミの声はもうしない。

代わりに、遠くで電車の音がかすかに響いた。


私はスマホを持ったまま、空を見上げた。

夜には見えなかった、あの丘の方角。


もう少しで夏が終わる。

彼の声も、姿も、まだ知らない。

だけど、

あの夜見た夢が、まるきり嘘だったとも思えなかった。


私はメッセージを開いて、打ちかけては消して、また打った。


《変な夢、見たんだ。君に会った夢。ちょっとだけ、嬉しかった》


送信ボタンを押して、空を見た。

朝の空は、静かに、秋に近づいていた。


夏の終わりって、いつもこんなふうに、

ちょっと切なくて、ちょっと優しい。


そしてたぶん――忘れられない。


送ってから、返事はすぐに来なかった。


けれど、それでもよかった。

あの夢の中で、私はもう十分すぎるほどの“再会”をしていたから。


それから数日。

新学期が始まって、制服の袖に少しだけ風が通るようになった。

駅へ向かう朝の空は高くて、空気がやけに澄んでいた。


ふとしたときに、思い出してしまう。

草のにおい、夜風の温度、ブランコのきしむ音――

どれも現実にはなかったはずのものなのに、体のどこかがちゃんと覚えていた。


そして、一週間後の夜。

スマホが震えた。


《会いたいって、思ったよ。変な話だけど、俺も、似た夢を見たんだ》


画面を見つめながら、指先が止まった。


夢は、ひとりだけのものじゃなかった。

あの夏の夜、見ていた景色は、たぶん遠く離れた彼にも、届いていたのかもしれない。


それからの会話は、ゆっくりだった。

彼はまだ受験の真ん中にいて、

私は高校生活の最後の季節を過ごしていた。


お互い、なにか大きなことに向かって走っていて、

でもその途中で、ちゃんと「また話したい」と思える関係があることが、少しだけ心の支えになっていた。


秋のある日。

文化祭の準備の帰り道。

「今何してる?」って、ふと彼に送った。

珍しくすぐに返ってきた。


《休憩中。古文、頭に入らん》


その文字に、思わず笑った。


《頑張ってるんだね》


《頑張ってるふりしてるだけだよ》

《でもさ、次会うとき、少しでもかっこよくありたいとは思ってる》


心臓が少し跳ねた。

こういう言葉を、彼が言うなんて、ちょっと意外だった。


私はスマホをぎゅっと握って、返した。


《じゃあ、頑張ってね。かっこよくなった君に、また夢じゃなくて会いたいから》


そのとき、彼がどんな顔で読んでたかなんてわからない。

でも、ほんの少し、彼との距離がまた縮んだ気がした。


夢は終わったけど、

現実が少しずつ、それに追いつこうとしている。


秋の風が、制服のスカートを揺らす。

空がすこし、やさしい色をしていた。


この先、もし彼が合格して、本当に再会できたなら。

きっとそのとき、あの夢の続きを、ふたりで笑いながら話せる。

そう信じられるくらいには、今、彼がいるこの現実がいとおかし。

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