『夜の帳が降りる時、僕は修羅となる──呪詛を祓う高校生山伏の告解録』
常陸之介寛浩◆本能寺から始める信長との天
【第1章:闇に招かれし修験者】
日が暮れ、街灯が鈍く点り始める頃、僕──御堂祐介はいつものように学校の図書室の片隅で静かに本を閉じた。
誰も僕に気づくことはない。クラスではほぼ透明人間に近い存在であり、それを僕自身も望んでいた。
「御堂、まだいたのか?」
担任の佐伯先生が図書室のドアから顔を出し、軽く眉をひそめる。心配そうな表情が僕に注がれる。
「ええ、すみません。もう帰ります」
僕は立ち上がり、静かに挨拶をして図書室を後にした。日が沈む前の廊下は異様に静まり返り、自分の足音さえも響くほどだった。ふと、視線の端に──黒い影が横切ったように見えた。が、それが誰かの残像だったのか、それとも。
僕は無言のまま足を速めた。
校門を抜けて家路を辿る頃には、街はすでに闇の帳に覆われていた。夜の街並みは昼間の活気を失い、影がより一層濃く感じられる。こうしている間にも、この街のどこかで呪いが息づき、不穏な何かが蠢いているのだ。
祐介にとって夜とは、世界の裏側に触れる時間だった。
自宅の玄関をくぐると、祖父の玄円が縁側で瞑想している姿が目に入った。鋭い視線が一瞬僕に注がれ、再び瞑目する。
「今夜は動くな、祐介」
祖父の低い声が響いた。その言葉には、深い警告が込められていた。
「でも、今夜も“兆し”がありました。学校の図書室で、影を──」
「奴が動いておる。手に負える相手ではない。今は動くな。…命を、落とすぞ」
その声は、いつになく厳しかった。
だが、僕は頷けなかった。この街で何かが起こっている。犠牲者がすでに三人も出ているのだ。すべての遺体は血を抜かれ、顔面が消失していた。警察は猟奇殺人事件として動いているが、現場には呪術の痕跡が明確にあった。僕にはそれを放置することなど、できるはずがない。
深夜。僕は祖父に隠れて静かに装束を身に纏い、密かに家を抜け出した。修験道の装束に身を包んだ僕は、日中の冴えない高校生とはまるで別人だった。
袴の裾から垣間見える結界の護符、腰に差した「破邪金剛杵」、首から下げた鈴と呪符。山伏としての祓いの装束は、霊的圧力をも遮断する。
目的地は、事件が多発している郊外の廃ビル。旧中央通信株式会社の跡地で、解体予定だった建物に次々と不審者が入り、無残な亡骸で発見された。
ビルの前に立った瞬間、空気が変わった。
皮膚がざわめき、髪が逆立つ。周囲の音が吸い込まれるように消え、ただ生暖かい風だけが頬を撫でた。
──ここだ。
僕は護符を一枚口にくわえ、静かにビルの扉を押し開けた。
中に一歩踏み込んだ瞬間、足元の空気がねっとりと絡みついてきた。埃の匂いではない。そこにあるのは、血と腐敗と、混じり合った“何か”の匂いだった。
薄暗い廊下。天井の蛍光灯は割れ、壁紙が剥がれ落ち、床には黒い染みがところどころ点在している。
──視えている。ここは“死の溜まり場”だ。
僕は目を閉じ、印を組む。
「オン・バザラ・サトバ・ウン・バザラ・タラマ・キリク・ソワカ──」
その瞬間、廊下の奥から異音が響いた。
──ぐちゅ……ぐちゅ、ぐちゅ、ちゅぷっ。
人間の口ではない。血肉を咀嚼するような、湿った音だった。
振り返ると、そこには黒く膨れた“塊”がいた。人間の形をしていない。無数の手が生え、顔の位置には穴が一つ──眼球のような何かがひとつぶら下がっていた。
「……視えてしまったか。お前が、“御堂”か……」
声は粘膜のように濡れていた。腐臭と一緒に言葉が流れ込んでくる。
「我は呪詛の集合体──憎悪、嫉妬、妬み、蔑み、裏切り……人の闇の残滓よ」
「……貴様、名前を持たぬ存在か」
「ふふ……名を持てば、縛られる。名なき我は、流動し続ける。止めることは、誰にもできぬ」
僕は左手で印を結び、右手で破魔の符を天井に向けて放った。
符が光を放ち、空間がひび割れるように歪んだ。
が──その存在は、笑った。
「無駄だ。名を持たぬものに、術は効かぬ。お前の祓いも──ただの音だ」
その瞬間、僕の胸元が裂けた。
爪のような“何か”が、瞬間移動したかのように僕の胴体を切り裂いたのだ。
「──ぐぅっ!」
意識が飛びかけた。臓腑がきしみ、血が噴き出す。
だが、僕は膝をつきながらも息を整え、口元に浮かぶ血を袖で拭った。
「……ならば、“名”を与える」
僕は印を一気に組み替え、秘儀を展開する。
「我が名において命ず──汝、影に生まれし“咢(がく)”と名乗れ!」
「──なに!?」
術が走る。空間がひび割れ、影の存在に“言霊の縄”が絡みついた。
「名を与えることで、貴様は呪術体系に組み込まれる。これで、術が通る」
咢──と名付けられたそれは、断末魔のような悲鳴を上げた。
「オオオオオオアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
──呪縛、成功。
僕は最後の護符を投げ込み、破邪の真言を怒声で唱えた。
「オン・ケンバ・ケンバ・ウン・パッタ・ソワカ!」
その瞬間、咢の体が裂けた。中から赤黒い内臓と骨があふれ、無数の人間の顔が浮かび上がった。笑っている者、泣いている者、後悔している者……すべて、咢に取り込まれていた魂だった。
悲鳴と共に、咢は焼け爛れていった。
空間が沈黙に包まれ、臭気と死の気配が薄れていく。
僕はその場に倒れ込んだ。
「はぁ……はぁ……」
傷口からは血が止まらず、意識は薄れていく。
だがそのとき、背後から別の気配を感じた。
──音もなく、誰かが立っていた。
それは、長い黒髪を持つ少女だった。制服姿──僕と同じ学校の生徒、相沢玲奈だった。
「……見てた。全部」
「な、ぜ……ここに……」
「……だって、祐介くんが消えていくのを見て、放っておけなかったから」
彼女の目は涙で濡れていた。
僕は、そのまま意識を手放した。
──夜が明ける。
そして、物語は静かに狂気の底へ沈み始めた。
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