第29話 道化師の幕間と、砕かれた羅針盤

『霧の島』で魂たちを解放した三人は、再び、親切な商船に拾われ、次なる目的地『ニョームガルデ』がある、ヴォルカニア大陸を目指していた。

 大海原を進む船の上は、穏やかな時間が流れていた。


「なあなあ、ヒトミ、この角笛、もう一回吹いてみてもいいか?」

「ダメに決まってるでしょ。これは、あなたの肺活量を試すおもちゃじゃないのよ。魂に作用する、神聖な神器なの。もっと敬意を払いなさい」


 タカシは、手に入れたばかりの『共鳴のホルン』が、よほど気に入ったらしい。ヒトミに叱られながらも、宝物のように、何度も布で磨いている。


 アキラは、そんな二人を横目に見ながら、甲板の隅で『真実の盾』を静かに見つめていた。

(『観測者』アイン…。あいつは、オレたちが神器を集めるのを、ただ黙って見てるだけなのか? 嵐の次は、一体、どんな手を打ってくる…?)

 チェスや将棋なら、相手の狙いを予測できる。だが、相手が、盤面の外から、ルールそのものを捻じ曲げてくるのだ。予測のしようがない。それが、アキラを苛立たせ、同時に、彼の闘志を掻き立てていた。


 そんな、嵐の前の静けさのような平穏は、突如として、破られた。

 チリン、チリン…。

 どこからともなく、場違いな、オルゴールのような、軽やかな鈴の音が聞こえてきたのだ。


「…!?」


 ヒトミが、弾かれたように顔を上げる。

「この魔力の気配…嵐の時の、あの邪悪なものとは違う…。もっと、軽薄で、悪意に満ちた…遊びのような…!」


 その時、船のマストのてっぺんに、一人の人影が、音もなく立っていることに、全員が気づいた。

 それは、赤と緑の、道化師(ピエロ)の衣装に身を包んだ、細身の男だった。顔は、にやにやと笑う仮面で隠されている。


「ブラボー! ブラボー! いやはや、素晴らしい! 悪霊の島を、愛と友情で救うなんて! 感動的なお芝居に、思わず、この僕も、幕間(まくあい)から飛び出してきちゃったじゃないか!」


 道化師は、芝居がかった口調で、パチパチと手を叩いた。


「てめえ、誰だ! アインの手下か!」

 タカシが叫び、道化師に向かって駆け出す。

 だが、道化師は、くすくすと笑いながら、その姿をふっと、シャボン玉のように消した。そして、次の瞬間には、アキラたちのすぐ目の前の、手すりの上に立っている。


「おっと、自己紹介がまだだったね! 僕は、偉大なる『観測者』様が、退屈しのぎに盤上へ置いた、ただの道化師(ジェスター)さ! 君たちという、予測不能な『バグ』を、もっともっと、面白くするためのね!」


 ジェスターと名乗った道化師は、優雅にお辞儀をすると、言った。

「いやー、それにしても、君たちの冒険、見てて飽きないよ! でもね、一つだけ、欠点があるんだ」

「欠点、だと?」

「そう! あまりにも、一直線すぎるんだよねえ! A地点からB地点へ、なんて、優等生の宿題みたいで、つまらないったらありゃしない! いいゲームには、ハプニングと、寄り道と、理不尽な『強制イベント』がなくっちゃ!」


 その言葉に、アキラは、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

 こいつの目的は、オレたちを倒すことじゃない。オレたちの『計画』を、めちゃくちゃにすることだ。


 ジェスターは、パチン、と指を鳴らした。

 その瞬間、アキラが懐に持っていた、魔法のコンパスが、甲高い音を立てて、砕け散った。

 神器の場所を示していた、光の針が、霧のように消え失せる。


「あ…!」

「おっとっと、大事な道しるべが、壊れちゃったみたいだねえ」


 ジェスターは、心底楽しそうに、肩をすくめた。

「でも、安心して! この親切なジェスター様が、新しい地図を用意してあげたからさ!」


 彼が、芝居がかった仕草で、水平線を指差す。

 三人は、その先を見て、絶句した。

 さっきまで、どこまでも青い海が広がっていたはずの場所に、いつの間にか、ごつごつとした、不気味な岩礁の島々が、無数に出現していたのだ。彼らの船は、その『ありえない群島』に、完全に閉じ込められていた。


「この『ジェスター諸島』の、どこかの島に、君たちのコンパスを治すための『キーアイテム』を隠しておいたよ! さあ、頑張って探してごらん!」


 アキラは、歯を食いしばった。

(盤面そのものを、書き換えた…! こいつ、Zenoとは、比べ物にならないくらい、厄介だ!)


「それじゃあ、僕は、高みの見物とさせてもらうよ! 君たちの、絶望と、混乱に満ちた、素敵な冒険をね! アデュー!」


 甲高い笑い声を残し、ジェスターの姿は、再び、シャボン玉のように弾けて消えた。


 後に残されたのは、航路を失い、未知の群島に閉じ込められた、一隻の船と、呆然と立ち尽くす三人だけだった。

 タカシは、殴る相手さえいないことに、やり場のない怒りを向けている。

 ヒトミは、現実を改変するほどの、あまりに強大な魔法に、かつてないほどの恐怖を感じていた。


 だが、アキラは。

 砕け散ったコンパスの破片を、強く握りしめた。その瞳には、絶望ではなく、燃え盛るような、新たな闘志の炎が宿っていた。


「…強制イベント、上等じゃないか」


 アキラは、目の前に広がる、悪意に満ちた、理不尽な盤面を睨みつけた。


「寄り道、楽しんでやろうぜ。お前の作った、そのふざけたゲーム。――完璧に、クリアしてやるよ」


 神の気まぐれによって、彼らは、またしても、新たな盤面へと、強制的に引きずり込まれた。

 それは、アキラの知略と、仲間との絆が、これまで以上に試される、悪意に満ちた、迷宮の始まりだった。

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