第15話 分岐点
「神猪相撲って、いつもあんなアグレッシブな感じなの?」
会場から少し離れた高台に移動し、騒動の様子を眺めていた河鹿が、伺うように嵯峨乃に視線を送る。土俵上の猪は鼻息荒く地を踏み鳴らし、まるで何かにとり憑かれたかのような狂気をまとっていた。黒稲は河鹿の背にしがみつき、恐怖で身体を小刻みに震わせている。
「神気もなんかエグいんだけど」
「見せろ」
斑が短く告げると、河鹿は鞄から神気鏡──神気視認用の眼鏡──を取り出し、手渡す。
「……去年の神猪はあんなじゃなかったわ」
嵯峨乃が声を潜める。
「もっと神々しくて、動きも大きさも全然違った。……ちょっと、私にも見せて」
「二個しかない」
河鹿は視線を外さずに言い放ち、嵯峨乃はむぅっと頬をふくらませて拳を両膝にトンと打ちつけた。
「……これは目にかなり負担があるな」
神気鏡を掛けた斑が眉をひそめる。
「そこは要調整だね。とりあえず予定通り、神気回収できるといいけど」
河鹿はスポイト針のような形状の弾丸を懐から取り出し、銃に装填して斑に渡した。
「ほい、斑。よろしく」
「……本当に大丈夫なの?」
嵯峨乃が不安げに声を落とす。
「神獣の顕現報告は現状、この場所でだけだ。神気の分析は最優先事項だからな」
斑の横顔は変わらぬ無表情のまま、銃口は静かに神猪へと向けられた。
******
「じゃあ、早速始めようか。行司は使わなかったよね?」
猪の背から半身だけを現した禍津が、場違いな笑みを浮かべて辺りを見回す。
「……麓、状況がわかるなら説明しろ」
岳が押し殺した声で問う。
「葦津に黒い変な奴が憑いてて、俺と相撲したがってる。こいつを投げ飛ばして葦津を助ける」
「やめろ、危険すぎる。せめて儂と変われ」
岳が詰め寄り肩を引くが、麓は微動だにせず睨むように禍津を見据えた。
「おい、おれが勝ったら葦津から離れると約束しろ」
その言葉を聞き、禍津はおかしそうに声をあげて笑った。
「フッ……ウフフッ! いやいや、離して欲しいんだよ俺は。こいつが離してくれないの、ねっ。葦津」
猪の背に指先を這わせる仕草は、まるで愛おしい者を撫でるかのように見える。
(――許せ、小町……もう、この方法しか……)
「麓……土俵入りの神前儀式を……してくれ……」
猪の口から、かすれるようにして葦津の声が漏れる。
「じいちゃん、葦津が神前儀式をしてほしいって言ってる」
「……わかった」
岳はわずかに顔を歪め、土俵袖で様子を伺っていた穂鳴衆へ指示を送る。
「神前儀式だ」
「……本当にこのままやるんですか。いつもと大きさが全く違う。下手したら麓が死にますよ!」
一人の若衆が声を上げた。岳は短く目を伏せ、やがて決意の色を宿し静かに口を開いた。
「葦津さまが神前儀式を、といっているようだ…とりあえず信じて従うしかない」
穂鳴衆は戸惑いながらも顔を見合わせ、頷き合うとそれぞれの持ち場に散っていく。
「なになに? そんなのいつもやってたっけ?」
禍津が首を傾げ、悪びれずに口元をほころばせる。
囲いが完了すると、一人の穂鳴が「ハァッ!」と鋭く掛け声を上げ、詠唱が始まる。
― 稲波震え、震えて稔れ 天まで届く 稔りの音よ ―
「ハッ!」
穂鳴衆全員の柏手が響いた瞬間、場の空気が一変する。
稲藁の穂がざわめき、風が螺旋を描いて土俵を包み込んだ。
同時に、神気鏡を通して見ていた河鹿と斑の視界に、天から一直線に光柱が走るのが映る。ドン、と不可視の圧が土俵を直撃し、禍津は猪の背から跳ね飛ばされ、膝をついた。土俵の縁から立ち上がった風は渦となって舞い上がり、葦津と小町の身体から、白く細い光糸の束がスルスルと引き出されていく。
それはゆっくりと穂藁に絡みながら、まるで空間そのものを浄化するかのように広がっていき、猪の肉体をじわじわと縮めていった。
小町は胸元を押さえ、よろめきながら膝をつく。自分の内にあった神気が根こそぎ引き剥がされていく感覚に、思考が追いつかない。
(な、何? 体中の神気がなくなっていく……)
禍津の体を覆っていた黒い影がほたほたと土俵に落ち、吸い込まれるように滲んでは消える。わなわなと震える黒く染まった両手を眺め、禍津はハッと気付き天を仰いだ。
(――これは……天津神が仕込んだ、封印の裏式か!)
「……なるほど、銘米神を強制的に贄にするのか。天津神は相変わらず考えることがえげつないねェ」
禍津は苦悶の中、笑みを浮かべると麓に向かって声をあげる。
「おーい、麓とやら。このまま続けると、そこの銘米神と葦津――どっちも消滅するぞォ〜」
「!!」
麓の視線が、小町へと向けられる。小町は肩で息をしながら苦しげに胸を押さえ、地を見つめていた。
「じいちゃん!! だめだ、葦津と小町さまが……ッ!」「止めるな、麓ッ!」
葦津の怒声が飛ぶ。
「俺たちは……このまま、こいつを確実に封じなければならん!」
口元から泡を吹き、必死に力を振り絞る葦津。その肉体は、封印の代償として、すでに死の淵に沈みつつあった。
「アハハハ! 葦津〜、ほんとお前は天津の鏡だね。長年連れ添った大事なモノより国を選ぶってわけだ!」
「ねぇ、麓。取引しようよ」
禍津の声音が一転、柔らかくなった。
「儀式を中断して、普通に相撲しよう。もう猪の体も小さくなったし、君にだって勝ち目あるよ。勝てば、葦津も銘米神も──それに、あっちの死にかけてる子も、助けてあげる」
その指が差す先で、鳴実が倒れ込み、血を吐きながら咳き込んでいるのが見えた。
「──! 鳴実……ッ!」
麓はぎゅっと唇を噛みしめ、拳を握った。目を閉じ、深く息を吐き、そして叫んだ。
「……止めてくれ……みんな、儀式を……止めてくれ!!」
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