見えざる剣 -過去に戻り、月を斬る英雄譚-
カイン
序章「防衛戦編」
第1話
物語の終点「この世界の頂にて」
俺達二人の纏う空気が、真っ二つに別れている。
片方ではそよ風が吹き、その穏やかさと対照的にもう片方では冷たい豪雨が降りしきっている。
あの日の陽月の都、旭都(きょくと)で降っていたような、冷たい雨だ。
「……立ってください、ラングルドさん。あなたが教えてくれた剣技で、あなたを殺す。それが、俺とバルガスさんの……最後の約束だ」
目の前にいるのは、『影』の王。
かつて、この俺カイが英雄と呼び、師と仰ぎ、家族よりも愛した人。彼の名前は、ラングルドさん。
ラングルドさんは、この俺、カイがもっとも慕った人だ。
……だが、彼の部下が俺達のバルガスさんを殺した日から、彼の心は雷雨に閉ざされた。
いや、聖域に閉じ込められたあの時から、運命は決まっていたのかもしれない。
ラングルドさんは、今、あれだけ守りたかった月を斬ろうとしている。
そして、今吹き荒れる雷雨のように、彼の心は荒んでいる。
これこそが、あの魔剣グラムが望んだ代償なのだろうか。
ラングルドさんの本質は、この雷雨のような暴虐非道な剣に宿っているのだろうか。
否…!!
この人は、今も……闇から抜け出せずにいるんだ。
ラングルドさんを村の英雄として、師匠として、仲間として、崇める俺は、知っている。
ラングルドさんは、見えざる剣に騙されて、20年前の世界に飛ばされた被害者だ。
このそよ風のように、愛おしい人だ。
だから、今も手が震える。
剣が震える。
だけど、それでも。
俺しか、もうあの人を止められる人はいないから。
「勝負です。
ラングルドさん」
俺は、腰の聖剣を抜く。
「貴方の野望は……月を斬って、この世界に偽りの平和をもたらすという野望は……実現しない。
何故なら、俺が今日、止めてみせる」
ラングルドさんは、俺を睨みつける。
やれるものなら、やってみろ。
そう言いたいのか。
だが、この世界の頂に立つのは、俺だ。
彼の心の雷雨を終わらせれるのは、俺しかいない。
もう、ラングルドさんの心は、晴れないだろう。
死ぬ寸前まで、苦しむだろう。
それで良い。
そうするしかないんだ。
聖域での、あの悲劇。
そこで、俺達の道は分かたれた。
悲しいけど。
もう……俺の心には、そよ風は吹いていないのだから。
何度でも、言う。
この黒き稲妻の降りしきる雷雨は、決して、晴れない。
俺しか、もういないんだ。
あの人を止められるのは。
この偉業を成し遂げられるのは。
序章「防衛戦編」
第一章:陽だまりの違和感
どうやらこの俺ラングルドは、過去に戻ったらしい。
右手に伝わる温もり。
それが、二十年間、ただの一度も感じることの叶わなかった、エリアナの温かさだった。
目の前の現実が、あまりにも都合が良く、まだ夢の中にいるのではないかと自分を疑う。
だが、彼女の嘘なんかじゃない心臓の鼓動、馬車の隙間から流れ込むそよ風に揺れる髪、その髪から漂う向日葵(ひまわり)の香り、そして俺を見上げる心配そうなエメラルド色の瞳。
その全てが、ここが紛れもない現実なのだと、告げていた。
この瞳から溢れ出る涙の理由を問われ、俺は咄嗟に「目にゴミが入っただけだ」と、エリアナが死ぬまでの間、使い古してきた言い訳をした。
俺は、この現在という明るい世界で、その言い訳をできるのが、嬉しくてたまらなかった。
エリアナは「もう、気をつけてよね」と微笑む。
まるで、向日葵のように。
そして、涙に濡れる俺の目元を、ハンカチで拭いてくれる。
その無防備な彼女らしい優しさが、鋼のように硬い諦めという名の塀で固めたはずの俺の心を、容赦なく抉っていく。
彼女の存在は、俺の諦めを、壊してくれたのではない。
ただ、俺の冷たい心を、暖かい向日葵の光で包み込むと同時に、抉るのみであった。
俺は、彼女に対する鋼の決意を固めると、窓の外を見つめた。
水滴で滲んだその風景は、あの日の田園風景であった。
みんなが、この日常が崩れないことを、祈っている。
(本当に戻ってきたのか……)
その時、俺の脳裏に、あの日の光景が焼き付いている。
炎に包まれる村。
俺の腕の中で冷たくなっていくエリアナ。
「ごめん…ラングルド……約束…」
あの絶望から二十年。
灰色の世界で、ただ虚無に剣を振り続けた日々。
(『エリアナを救いたいとは思わんのか?』)
枯れ木のような細い身体でいて、芯の強い目をしていたあの老爺の言葉が蘇る。
未来の俺だと名乗った、老爺。
あの男が放った「見えざる剣」 が、本当に俺の時を遡らせたというのか。
そんな都合の良い夢物語が、あっていいのか。
「さあ、戻りましょう。お腹すいたでしょう? 今日は腕によりをかけて作ったんだから」
彼女に手を引かれるままに、俺はゆっくりと立ち上がる。
若い肉体は驚くほど軽く、未来で感じていた慢性的な疲労や、体の痛みはどこにもない。
だが、その軽やかさとは裏腹に、俺の心は依然として、鉛のように重かった。
村へ続く小道を歩きながら、俺は必死に記憶の糸をたぐり寄せた。
確か、彼女が命を落とす魔王軍最後の攻勢は、この年の秋だったはずだ。
そして今は、夏が始まったばかり。
残された時間は、三ヶ月ほどしかない。
「どうしたの? さっきからずっと黙り込んで。私の顔に何かついてる?」
エリアナが立ち止まり、俺の顔を下から覗き込む。
その距離の近さに、俺の心臓は、まるでうぶな若者のように激しく跳ねた。
彼女の瞳が、俺の眼に張り付く。
まるで、鏡のような美しい瞳。
その素晴らしさを再確認した俺は、今はシチューどころではなかった。
だが、俺は敢えて、彼女の晴天の瞳から視線を逸らし、シチューに目線を移す。
具沢山のシチューだ。
肉からにんじんからジャガイモ。
何でも入っている、彼女の十八番(おはこ)だ。
「いや、何でもない。ただ…今日のシチューが楽しみで、考え事をしていただけだ」
「ふふっ、ラングルドは、食いしん坊なんだから」
無邪気に笑う彼女の顔を俺はまともに見ることができなかった。
この笑顔を俺は一度失ったのだ。
そして、それを守るために再びこの時に立っている。
村が見えてきた。
二十年後の寂れた、向日葵がどこにも咲かぬ村とは違う、活気に満ちた平和な村。
畑を耕す男たち、井戸端で談笑する女たち、元気に駆け回る子供たち。
その誰もが、数ヶ月後にこの地を襲う悲劇を知らない。
俺だけが、この村に迫る絶望の未来を知っている。
エリアナの家で食べたシチューは、驚くほど優しい思い出の味がした。
二十年もの長い間、固いパンと干し肉だけで満たしてきた俺の冷たい胃袋には、その温かさがあまりにもまぶしくて仕方がなかった。
「…うまい」
「本当? 良かった」
嬉しそうに微笑むエリアナ。
その笑顔を見るたびに胸が締め付けられる。
この温もりをこの味を二度と失わないために。
俺は無我夢中でシチューを口に運んだ。
第二章:信用の楔
食事を終え、一人になった俺は、まず己の肉体と、未来の俺から受け継いだ技術の同調の有無と程度を、確かめる必要があった。
家の裏にある懐かしい、父さんの遺した道場へ向かう。
壁に立てかけてある、いつもの長剣を手に取った。
(足りない)
振るうまでもなく、わかる。
若い肉体は力に満ちているが、二十年の鍛錬で研ぎ澄まされた未来の俺の『剣』を振るうには、その練度が圧倒的に足りていない。
(だが、やるしかない)
俺は呼吸と体勢を整え、剣を振るい始めた。
ーー轟音。
それに宿りし想いはただ一つ。
エリアナを、今度こそ守る。
あの日、彼女に誓った「たくさんの人を守れる男」になるために。
俺は、剣を振るう。
数時間、没頭していたのだろうか。
背後から、無骨な声がかけられた。
「よう、ラングルド。また難しい顔をして、何を睨んでるんだ」
振り返ると、そこに立っていたのは村の自警団のリーダー、バルガスさんだった。
恰幅のいい、人の良さそうな中年男だが、その目には元兵士らしい鋭さが宿っている。
若い頃の俺にとっては、頼れる兄貴分のような存在で、カイと同じぐらいの大切な、数少ない仲間だった。
「バルガスさん…」
「お前さん、最近ちょっと様子がおかしくないか? 以前にも増して、何かに追い詰められているような顔だ。悩みでもあるなら、この俺、バルガスになんでも話してみろ。…な?」
バルガスさんは俺の肩をバンと叩いた。
その屈託のない優しさが、今の俺には痛い。
「大したことじゃありません」と曖昧に笑って誤魔化す。
未来のことなど、話せるはずがない。
「そうか? まあ、一人で抱え込むなよ。
エリアナちゃんを心配させるな」
「…気をつけます」
「おう。それより、今日の午後は少し手合わせ願えるか? 近頃、どうも体の動きが鈍ってきてな。
お前さんのあの速い剣で、錆びついた勘を叩き起こしてほしいのさ」
それは俺にとっても好都合な申し出だった。
若返ったこの肉体が、どれほど未来の俺の剣技に対応できるのか、試してみたかった。
午後の訓練場。
俺はバルガスさんと木剣を構えて対峙していた。
「いくぞ、ラングルド」
バルガスさんの言葉が終わったあと、前に俺は踏み込んでいた。
未来の俺ならば、呼吸の僅かな乱れ、筋肉の微細な動きを読んで初動を完璧に予測できる。
若い肉体はまだそれに完全には追いつかないが、それでもバルガスさんの反応速度を遥かに上回っていた。
俺の木剣が、彼の喉元寸前でぴたりと止まる。
バルガスさんは目を見開き、冷や汗を流していた。
「…は、速い。おいおい、冗談だろ。昨日までのお前さんは、こんな動きはできなかったはずだぞ」
俺は内心で舌打ちした。
やりすぎた。
あまりにも急激な変化は、周囲に不必要な疑念を抱かせる。
「たまたまです。バルガスさんの動きが読めました」
「読めた、だと? まるで未来でも見てきたような口ぶりだな」
冗談めかして笑うバルガスさんに俺は心臓が凍る思いだった。
俺はもっと慎重に行動しなければならない。
その後、何本か打ち合ったが、俺は意識的に手加減をした。
それでも、俺の太刀筋に宿る『重み』のようなものは隠しきれなかったらしい。
休憩中にバルガスさんがポツリと呟いた。
「お前さんの剣、何だか変わったな」
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