第5話【笑わない彼女】

 

 三度目の夜勤を終えたその日、俺は一日中寝ていた。

 夢を見た気がするが、内容はまったく思い出せない。

 ただひとつ、胸のあたりがずっと重く、目覚めたときに首筋がじっとり濡れていた。


(行きたくない……)


 それが本音だった。

 でも、連絡もせずに無断欠勤するほどの勇気もない。

 俺はただ、何かに流されるように支度をし、いつも通り店へ向かった。


 

 コンビニのネオンが見えたとき、胸がきゅっと締め付けられた。

 あの赤く滲むような光は、やはり異常だ。

 他のどの店の照明とも違って見える。


(やっぱおかしいよ、ここ……)


 そう思いながらドアを開けると、カラン、と入店音が鳴った。

 その音が、今日だけ妙にくぐもって聴こえた。


「……おはようございます」


 いつものように挨拶をする。


 しかし、返事はなかった。


 

 レジ奥には、彼女がいた。


 細身で、長い黒髪を下ろしている。

 深夜シフトのたびに一緒になるが、いまだに彼女の名前を知らない。


 いつも通りの無表情。

 ただし今夜は――いつも以上に「無」で満ちていた。


「……今日、誰か他に入ってます?」


 俺が声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを見た。


 その動きが、どこか“ワンテンポ遅れている”ように感じた。


 


 目が合った。


 


 その瞳は黒く、底なしだった。

 俺の顔が、瞳の中にゆらゆらと小さく揺れているのが見えた。


 


 彼女はなにも言わず、ただ視線を俺から外さずに立ち尽くしていた。


(……なに?)


 何か言ってほしかった。


 でも、彼女は**口を一文字に閉じたまま、笑いもせず、返事もせず、**ただ立っていた。


 

 勤務開始から数十分が経ったころ。

 客はまばらで、店内は静まり返っていた。


 ふと視線を上げると、彼女は通路の奥で、同じ場所から一歩も動いていなかった。

 棚の商品を見つめているのかと思ったが、よく見ると、何も見ていない。


 ただ――真っすぐ、俺のほうを向いている。


 


 レジ越しに距離はあるのに、まるで鼻先がぶつかるような“近さ”を感じた。


 


「……何してるんですか?」


 俺が聞くと、彼女はまたしても、何も答えなかった。


 それどころか――瞬きさえしなかった。


 

 気味が悪くなって、バックヤードへ逃げる。

 冷蔵庫の横に座り込んで、ペットボトルの水を一口飲む。


(おかしいよ……この店も、あの女の子も)


 思い返せば、初日からずっと不自然だった。

 彼女は一言も雑談をしない。誰とも会話をしない。

 そして、笑わない。


 いくら無口な性格でも、あれは“人と人との関係”として、あまりにも成立していない。


 


 俺は、自分のロッカーにしまっていたスマホを取り出した。


 時間を確認――午前2時7分。


 通知が、1件。


 送信者は表示されていない。

 メッセージは、ただ一行。


 


 「ウシロ、ミテ」


 


 背中が凍りついた。


 


 ゆっくりと顔を上げる。

 冷蔵庫の扉に、うっすらと反射していた。


 背後――数歩後ろ。 


 彼女が立っていた。


 

 鏡越しに目が合う。

 今度の彼女は、笑っていた。


 ――だが、その笑みが“左右に裂けている”ことに気づくのに、数秒かかった。


 まるで皮膚を切り裂くような笑み。

 歯茎が見えるほどに開いた口。


 表情だけが、顔のパーツから浮き上がったように見えた。


 ゆっくりと、彼女が首を傾けた。

 まるで、壊れた人形のように。


 


「…………おつかれさま、です」


 


 彼女が、初めて口を開いた。


 


 その声は、低く、濁っていて、男の声だった。


 

 次の瞬間、コンビニの店内から入店チャイムが鳴った。


 俺は慌てて冷蔵庫の前から飛び起き、ドアを開けた。


 そこには、誰もいなかった。


 


 だが、レジ奥にある防犯ミラーにだけ、ハッキリと映っていた。


 ――レジの前に立つ、彼女と“もうひとりの俺”。


 


 もう一人の俺が、笑っていた。


 

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