エレン旅行記。
七七七七七七七式(ななしき)
水の精霊の流す青
序章【青い涙は黒く染まる】
※この作品には、暴力的・残酷な描写や精神的に不安を感じる可能性のある表現が含まれています。
苦手な方はご注意ください。
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「涙に襲われる」という体験をした人は、この世界にどれだけいるだろうか。
涙に襲われる。
ただそれだけ聞くと、涙を流す人がなぜ涙を流しているかがわからない──故に想像力を働かせ、『なぜ涙を流すのか』その理由を考えるはずだ。
では、どういった状況に陥ると人は涙を流すのか?
例を挙げるとすれば、恋人に別れを告げられたとか。家族が不慮の事故や病気で亡くなったとか。一番分かりやすいのは、怪我をした時だろうか。
転んで膝を擦り剥き子どもが泣いてしまうのは、突然の出来事に驚いてというのと同時に『痛み』が生じるからだ。子どもでなくとも痛みに涙を流すのは、人間なら当たり前の話だろう。
まぁ理由なんてものはいくらでもあるし、理由そのものを生み出すことだって可能だ。
というより、人間は特段理由がなければ涙を流せない──というワケでもない。
もっと言えば、涙を流させるようなイベントが発生せずとも涙を流すことは可能なのだ。
要するに嘘の涙。もしこの話を聞いている人がいるとすれば、嘘の涙に騙された経験がある人は決して少なくはないはずだ。
しかし、それはあくまでも『人間』に限った話で、『人外』である存在がそうであるかについては、人間である僕の方から「違う」と否定できるものではなかった。
何故突然人外の話が出てくるのかって?
簡単な話だ、今まさに目の前にいるからだ。
「──エリア、頼むから話を聞いてくれ。僕は何も君を泣かせるためにここに来たんじゃない。君を救いに来たんだ。だから……」
《うるさいッ……! お願いだから近づかないで! 早くソイツをここから消し去って!!》
僕の声をかき消すほどの怒号と、正面から放たれる無数のつぶて。
遮られた言葉の先を紡ぐことは許されず、彼女の放つ青い涙により喋る権限を奪われてしまう。
《どうしてわかってくれないの? エレンなら私のことをわかってくれるって信じてたのに!! なのにどうして、どうして『ソイツと一緒に居る』のよ!? ……もういい、消えて。早くここから消えてぇ!!》
コミュニケーションが取れていたはずの相手なのに、それが不可能になるのはかなりのもどかしさを感じる。声を出そうとする様子がわかるようで、僕の方を見ずとも攻撃は可能なようだ。
攻撃、といっても無差別に周囲を荒らしているだけで、彼女の瞳から溢れ出す涙が形を変えて小さな礫となり、あちらこちらへと飛んでゆく。いくら一つ一つが小さい礫だからと言えど、当たれば一溜まりもない。
小さな羽虫が飛ぶほどの速度でならまだ直撃したところで対した害は無いだろうが、今まさしく飛んでくる礫は羽虫の飛ぶ速度と比べても天と地ほどの差だ。直撃は免れているが、完全な回避は不可能。薄皮を裂く程度の傷は、今では数えられないほどとなっている。
直撃すれば死ぬ。
小さな礫の中に、拳一つ分ほどの大きさのものも紛れ込んでいる。
彼女の拒絶反応は、そのまま『殺意』へと変換される。放たれる礫の大きさは、まさしく彼女の感情を表しているようだった。
『水の精霊』なる少女、エリアの暴走からおよそ数十分。飛んでくる礫から何とか逃れながらも、エリアの居る泉から数メートルほど距離を取った太めの木の影へと身を隠し、呼吸を整える。後方では、涙の礫が木々にぶつかり砕け散る。
涙を流す人外は、人命を軽く奪うことのできる力を、己の感情にまかせるがままに振るう。その衝撃が大地を、そして大気を揺らし泉と鳴動するように波紋を残し、より一層近づくことのできない空間を造り上げてゆく。
僕が隠れていた木にもいくつもの礫が激突し、その衝撃に耐えきれなくなった木はなぎ倒され、その度に別の木へと身を隠す。
先ほどからそれの繰り返しだ。状況を変えるための打開策が未だに見つからずに、ただひたすらに逃げて隠れるだけの状況が続いている。
まだ年端もいかない程にしかない体躯で、ふわふわと浮かぶ可愛らしい姿からは想像もできない攻撃。
いくら見た目が美少女であれど、あんな攻撃をこちらに向けてくるのは恐怖以外の何ものも感じさせない。
水の精霊の有する、透き通った美しさなんて微塵も感じられないその風貌に思わず息を呑む。
泉は次第に黒く染め上げられ、闇そのものを映したかのように黒々と輝いている。
そしてその闇を吸い上げるエリアの姿も同様に、黒く、暗い──ただひたすらに闇を身に包み込んでいる。美しかった彼女の姿は、もはやどこにも無い。
《ああ……ああッ、ぐゥゥゥゥ……!!》
獣のような声を漏らすエリアは、両の手で顔全体を覆い、涙を必死に止めようとしている。彼女から溢れ出す深い感情から読み取れるのは、明確な『怒りの感情』。
それと同時に流れ込んでくる強い恐怖心。
そして何よりも、どの感情よりも強く感じられる『殺意』の波動。どれもこれもが『負の感情』に直結する要素だ。
恐らく、何者かの手によって感情の制御が出来なくなっているのだろう。
記憶すらも書き換えられるのだ、それくらい出来たって不思議ではないが、何とも胸クソ悪い。
──何にせよ、このままいくと確実に元の姿には戻れなくなる。
それどころか精霊から完全に逸脱した魔物と同等の存在に形を変える可能性だってある。そうなってしまっては取り返しがつかない……!
「エリア、僕の話を聞いてくれ。このまま泉が汚されていくのは見たくないし、君を闇に閉ざしたくないんだ」
あんなヤツの操り人形になったまま、全てを奪われたままでいいのか?
家族も友達も、君から全てを奪った男が、今まさにここにいるんだ。
君がそのまま闇に呑まれれば、あの男の思惑通りになる。
だけど、今ならまだ間に合う。まだその暗い闇から抜け出すことが出来る。
だからエリア。頼むからもう一度……!
「──僕の手を握ってくれ」
言葉を続けるよりも早く、瞳から零れ落ちる『黒い涙』の強襲により、言葉は寸断される。
激情のゆくままに全てを破壊せんとする彼女の姿は、もはや『精霊』ではなく一端の『魔物』だ。まだ元の姿を保っているようだけど、このままだと確実に闇に呑まれてしまう。
《うるさい、うるさい、うるさい!! お願いだから消えて……イヤなの、思い出すのっ……。消えて、消えて……! 今すぐ消えろぉぉぉ!!》
咆哮と共に、雨を降らせるかの如く真上から真っ逆さまに飛来する無数もの礫は、確実に足場を奪ってゆき、そして逃げ場を失った僕は見事に貫かれる。
「──ッ!」
痛みに声を荒げることすらも叶わずに、貫かれた拍子で勢いついた体をそのまま前へと押し出して、残りの礫との直撃を何とか免れる。体を引き摺りながらも、盾となる巨大な木の陰へと隠れ、貫かれた箇所を確認する。
「右肩に左腕の上辺り。それと最後に左の腿か……。あの攻撃からこの程度の傷に抑えられたんなら及第点でしょ。動くとめちゃくちゃ痛いけど……!」
笑って誤魔化そうとしてみるが、痛みは何よりも正確に物を言う。誤魔化しがきかない。
痛みを緩和させるための魔法があるが、僕は魔法を使えない。故にこの痛みとともに、彼女を救い出すために、再び立ち上がらなくてはならなかった。
「……なに被害者ぶってるんだ、僕は。あの男を連れてこなけりゃエリアが苦しむこともなかった。記憶はねつ造されたまま。だけど辛かった過去はずっと忘れられていた。これは僕の独断だ。僕の勝手な偽善なんだ」
昨日までは普通に話せていた彼女をここまで狂わせたのは、僕が原因でもある。故に彼女からの攻撃に対し「やめてくれ」だなんて誰が言えようか。
これはむしろ当然の反応だし、受けたこの傷も全て僕に対する罰だ。
痛いなんて泣き言を垂れる暇はない。彼女の痛みは、これの比じゃ無いことぐらいはわかっているつもりだ。
彼女を狂わせた原因。
要するに、彼女の心を乱す何か──正確に言えば全ての元凶──をこの場に連れて来たことが、こうした事態を引き起こすトリガーとなった。
その元凶であるはずの呪術師は、どうやら自慢の術により姿をくらませているらしい。何とも呪術師らしい卑怯な逃げ方だ。
もっとも、逃げられるような状況でないことは、向こうも気付いているだろうけど。
まぁ。どれだけ取り繕っても、僕が引き金を引かせたのも同然であることに変わりない。
記憶を失い、失ったままで過ごしていればそれもそれでアリかもしれない。
しかし。愛する家族も友人も、そして何よりも『自分を殺した相手』が平然と生きていて、なお且つ彼女が暮らしていた村で普通に生活していたことも知らずに都合の良い道具として使われるのは……あまりにも残酷だろう。
自分勝手なのはわかってる。
けれど、僕の立場からして見逃せるものではなかったし、彼女と話してきて、やはり彼女はここに居るべきではないと『彼ら』がそう言ってくれた。
何より僕自身もそう思ったのだ。だったらここで立ち止まる訳にはいかないと。
怖じ気づきそうになる心を奮い立たせ、小さな水溜まりを踏みしめるとそのまま前へ出る。
──瞬間。見開かれる彼女の黒々とした瞳に、決心したばかりの僕の肉体は、すっかり前へ進むことを拒んでいた。
《エレン、お願いよ……。痛いの、苦しいの……》
「──」
交差した視線を勢いに任せて逸らす。懇願する声で名前を呼ばれてしまうと、決意が揺らいでしまいそうになる。
叶うのならば、今すぐにでも消えてやりたい。
こんなにも苦しい表情を浮かべる彼女を見たかったわけじゃない。
苦しませるためにこんなところに来たわけじゃない。
今からでも引き返せる──心の中での呟きに、強く頭を振ってその考えを払拭する。
引き返した所でどうなる?
彼女をここまで狂わせておいて、今さら何を言っている?
責任すらも取れない癖に、彼女をこんな目に合わせたのか? ──違うだろう。
自分がここに来た理由を自身に問いただしながら、狂いゆく彼女を見やる。
僕には対した力もない、魔法も扱えなければ力もあるわけではない。
各地を巡り、旅を続けてきただけのしがない旅人である僕が、彼女と真正面から対峙した所で敵わないだろう。
地面や木が抉れるほどの攻撃。あんなものに直撃すれば、人間の体なんて一瞬にして粉微塵だ。痛くて泣いている暇なんてこれっぽっちも無く絶命する。
震える体は次第に後ろへと下がってゆく。
しかし僕は、逃げ出したくなる気持ちを押し殺し、彼女と過ごした思い出を脳裏に映し出す。
彼女と過ごした日々は本当に楽しかった。
数日の間だけであったが、たったそれだけの時間の中で彼女を救いたいと思い行動を移すくらいには彼女には惹かれていた。
故に僕は涙を流す。
彼女を救う──それは決して、彼女にとっての幸せではないはずだからだ。
しかし、だからと言って今さら立ち止まれない。
君をここから出してやる。救ってやる。
息を整え、彼女と比べてもそう大差無い体躯を奮い立たせて一歩ずつ進んでゆく。
そんな中で思い出すのは、僕がここに来るまでの道筋。
走馬燈にも思える数々の光景をフラッシュバックさせながら、事の経緯を思い出す。
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