第3話


冷たい朝靄の中で、エラは黙々と水を汲んでいた。頬をかすめる風も、屋敷の窓も、誰も彼女を見てはいない。


——でも、きっと報われる。あの日、私を救ってくれた“王子様”が、また現れてくれると信じている。


かすかに残る幼い頃の記憶。暗闇の中、差し伸べられた手。優しくて、あたたかくて、まるで光のようだった。


現実には、ただ命令を下す継母の声と、冷たい義姉たちのまなざしがあるだけ。


「掃除が終わったら、井戸に行って洗濯してきて。昼までには終わらせてね」


ソフィアは声を張ることなく、氷のように冷たい瞳でエラを見下ろす。無機質なその視線に、エラは黙ってうなずいた。


けれど、エラの知らないところで——

ソフィアは廊下の陰で拳を握り、唇を噛みしめていた。


「守ってるつもりなのに……なんで、こんな顔をさせてしまうの……」


罪悪感。後ろめたさ。エラが冷たい視線しか受け取っていないことが、胸の奥をじわじわと灼いていく。


アリサは静かに寝室の扉に小さな包みを置く。中には、蜂蜜入りのビスケットと、擦り傷に効く薬草のチューブ。


「おかしいなぁ。昨日こんなの置いた覚えないのに……」


エラは小さく微笑んだ。


「ありがとう、妖精さん……」



夜。暖炉の火が弾ける音だけが静かな食堂に響く。


ヴァレンティナと娘たちがテーブルを囲んでいた。エラの部屋からは、穏やかな寝息がかすかに漏れてくる。


「……いつまで続けるの、これ?」

ソフィアが沈んだ声で口を開く。「エラがあんな目で私を見るたび、苦しくなる。守ってるはずなのに、どうしてこんな……」


「私も……わかるよ。でも、ママが言ってたでしょ。十八歳までは、あの子は——」


「妖精に狙われる対象」


ヴァレンティナは静かに頷いた。焔を映した瞳には、母としての決意と、深い悲しみが宿っている。


「十八歳を越えたら、彼女は“安全”になる。そのときに初めて、私たちは……家族になれるわ。たとえ今、嫌われていても」


その声には、血を吐くような覚悟が滲んでいた。



「エラ、今日は貴族のご婦人方とのお茶会があるの。お行儀よくお留守番をお願いね」


ヴァレンティナは優雅な微笑みを浮かべ、手袋を整える。ソフィアとアリサも、華やかなドレスに身を包んでいる。


「はい……行ってらっしゃいませ」


エラが深く頭を下げるのを見届けると、三人は馬車へと乗り込んだ。


だが馬車が街を抜け、人気の少ない裏路地に入ると——


彼女たちは素早くドレスを脱ぎ捨て、下に隠していたハンター装束へと身を包む。


革のコートに銀の留め具、機動性重視のズボンとブーツ。ヴァレンティナは髪を束ね、腰に短剣を装備する。娘たちも無言でそれぞれの武器を背負った。


「さあ、行くわよ。今日は武器の修理と、情報の確認」


「はい、お母様」


「了解、ママ」


華やかな貴婦人たちは影となり、街の闇へと消えていった。



看板のない古びた工房。ハンターたちが秘密裏に出入りする、裏通りの隠れ家。


金属の焼ける匂いと油の香り。扉を押し開けると、作業机の奥にひとりの青年がいた。


ガス——若き武器職人。ゴーグル越しにこちらを見て、手を止めると、すぐにソフィアへ視線を向けた。


「久しぶりだね、スノークイーン」


ソフィアは無言で睨み返す。その冷ややかな眼差しに、彼の鼓動が高鳴った。


——炎を纏い、剣を振るうその目は、氷のように冷たくも、美しかった。


まだ彼が少年だった頃、妖精に襲われかけたとき、目の前に現れた少女。その剣が、彼の運命を変えた。


「お前が俺を助けてくれた日から、ずっと思ってたんだ。……俺、もう一度誰かを守れるようになりたいって」


「ソフィアに会いに来たってのもあるけど、今日は仕事だ。例の斬撃武器、歯こぼれしてるだろ? 磨き直すから預かる」


「……よろしく」


ソフィアは短く答え、背から武器を外して差し出した。


「それと情報も一つ」


ガスは作業台から資料を取り出す。


「最近、街で若い女の子の失踪が増えてる。年齢的には……エラちゃんと同じくらい」


「……嫌な予感しかしないわ」


ヴァレンティナが眉をひそめる。背筋を、冷たいものが走った。


「それから……王宮で近々パーティーが開かれるらしい。表向きは祝賀会だけど、裏では何か企んでるって噂もある。どうやら、外部の人間も招待される可能性があるらしい」


「王宮、ね……」


ソフィアとヴァレンティナが静かに視線を交わす。武器の手入れが終わり次第、次は王宮の動向を探る。



炎と氷の姉妹。

彼女たちを率いる、仮面の母。

その足音は、確かに影を踏みしめていた。


だが彼女たちはまだ知らない。

王宮に潜む“それ”が、すでにこちらを見つめ返していることを——

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