花天月地【第21話 隔たる心】

七海ポルカ

第1話






 許都きょと


 石の都は晴れていた。

 城にある大きな修練場では、の兵たちが快活な声を響かせて剣や槍を振るっている。

 彼らの多くは新兵で赤壁せきへきでの敗戦の後、魏軍に再編成された。

 近頃は各武将が交代制で修練場に入り、彼らを鍛え上げている。


 赤壁では魏軍は甚大な犠牲を出した。

 呉蜀同盟は勝利したにも関わらず決裂したようだが、予てより魏の侵略を受けていた涼州がこれを機に対魏の戦線を押し返そうとする不穏な動きを見せているため、かなり武将達の表情は真剣だった。


 張り詰めた空気が伝わってくる。


 ――とはいえ、その修練場の端にある水庭の縁に腰掛けて、空を飛ぶ鳶を見上げている彼の周囲には、のんびりとした空気が流れていた。



「これは珍しいな。修練場嫌いなあんたが一週間に五日もここに姿を見せるなんてね」



 空を見上げていた青年が振り返る。

 そこに含んだような笑みを浮かべて賈文和かぶんかが立っていた。

 彼の部隊はそこで修練中だ。


「そんなには来てないよ」


 郭嘉かくかは笑ったが、賈詡かくはその言葉を待っていたかのように人差し指を揺らす。

「?」

 そのまま水庭の石垣の側の地面を指差している。

 ふと見てみると、そこに何やら書いてあった。日付が五つ。

 郭嘉は呆れた。

「こんなものをつけて……暇なの?」


「はっはっは! 記録を取るのが大好きでねえ。

 そうは言ってもあんたはここじゃ、浮くんだよ。天才軍師さん。

 俺の暇人ぶりに呆れたなら、汗と泥が大嫌いなあんたがなんで最近ここに入り浸ってるのか、白状してもらおうか。

 鳶くらい、あんたの部屋からでも優雅に眺められるだろうに」


 賈詡かくは水庭の縁に片足を乗せて、そこに座っている郭嘉かくかを覗き込んで来る。

 しかし郭嘉は微笑んだ。


「なにを見に来てると思う?」


 密かに記録をとって逃げ道を潰してやったのを愉快に思っていた賈詡は、その返しを不満に思ったようだ。


「今はあんたが俺の質問に答える時間だ。なんで聞き返すんだよ」


 そんな返しには乗らんぞという表情を彼はしていたが、いつまで経っても郭嘉がにこにこしてると、苦い顔をして振り返った。


「あんたが何を見てるかなんて、凡庸な俺に分かるわけないだろう。

 なんだ? あの中にあんたの策で使いたいような奴でもいたのか?」


 郭嘉が吹き出す。

「今修練してるのは皆、新兵だろう。私は新兵は嫌いだよ」

「いや知ってるが……それくらいしか思いつかないから」

賈詡かく

「ん?」

 郭嘉は優雅に立ち上がった。

 修練場にはそぐわない、氷色に金刺繍の優雅な深衣姿である。

「貴方は本当に、戦場でしかロクな勘が働かない人だね」


「うるさいよ!」


 賈詡が怒って返したのでケラケラと少年のように郭嘉が笑った。


「最近修練をよく見に来てる人がいるんだよ」


 郭嘉がどこかを指差した。

 そこは修練場に面した城の一画だが、兵達がいる城とは別の建物だった。

 曹丕そうひの居城である。

 彼の妻や一族、側近など、許された高貴な者たちが住んでいる。


 元々この許都きょと曹操そうそうが住んでいたが今はその曹操が長安ちょうあんにいる。

 彼がここにいた時は別の建物が居城だったが、曹丕は許都に入るとこの修練場に面した場所を自らの居城に定めた。

 彼は時折、修練も見に来る。


 郭嘉かくかが指差した回廊の辺りに場を整え、兵たちを眺めていることがある。

 それは賈詡も何度か見かけたことはあった。


「ああ、曹丕殿下か。

 まあ今後我らの主君になる方だからな。今から忠義を尽すのはいかにも優等生らしいあんたならではかもしれんが。

 あんな鉄面皮を五日も眺めて何がそんなに楽しいかねえ」


 くす、と郭嘉は笑う。

「確かに曹操そうそう殿に全く似てないあの顔を眺めるのはそれなりに面白いけど。

 さすがに曹丕殿下に媚びを売るために私は五日も修練場には通わない。

 その程度のことなら、部屋で昼寝でもするよ」


 そこで賈詡は、顎をしゃくりながら笑った。


「分かった。女だな。貴人の女が見に来てるんだろう。女官と戯れて遊ぶのは卒業したんだな軍師殿。そりゃ良かった。あんたこそ戦場じゃ何の隙も見せない男なのに、平時は女を口説き倒して遊ぶ悪い癖がある。

 ありゃ良くないよ。

 俺の見立てでは曹操殿はああいうことに寛容だったが、曹丕殿下はお堅いと見たぞ。

 そろそろあんたも良い家の娘と結婚してだな、身を固めて……」


「それが分からないんだよ。

 女なのか男なのか、遠目で分からなくて」


「なんで女か男か分からないんだよ。服見りゃ分かるだろ」


「どっちとも言えるような美しい深衣しんいを着てるからよく分からない。

 気になるなあ。

 なんで修練場に姿を現すんだろう。

 誰を見てるのかな。好きな男でもいるんだろうか」


「そんなに熱心に見てるのか?」


「半日くらい、いる時もあるよ。それに朝と夕方にと何度か現れることもあった」


「へぇ……いつからだ?」

「我々が許都きょとに来てからは定期的に見に来てる」

「曹丕殿下はあまりあの居城には外部の人間を入れてないだろう。

 一族の御子なんじゃないか?」

「殿下の御子はまだ皆、幼いよ。それにあれはそう一族の人じゃない」

「なんで分かる?」

「あそこの一族は滲み出る共通の雰囲気がある。

 あの儚げな感じは彼らのものじゃない」

「要するに何にも根拠がないわけだね郭嘉かくか殿」

「そうなんだ」

 賈詡の言い草を無視して、郭嘉は華やかに微笑んだ。


「あんたが気にするなんて相当な美形だな。何者だろう? 俺も見てみたい」


「一番最初にあの人を見たのは我々が許都入りし、酒宴が開かれた日だった。

 そういえばあの日は司馬懿しばい殿と一緒にいたね」

「なんだ司馬仲達の縁者か?」

「いや……」

「うん?」

「縁者というには、何だかとても親密そうだった。

 あれ以来、彼とは来てないけれど。

 ……どういう関係なんだろう」


 賈詡は顔を顰めた。


「やめとけやめとけ! 仲達ちゅうたつ殿の手のついた人間になんぞ横から手を出したら、一体どんな殺され方をするか分からん。

 女だけじゃないぞ。あの人の場合、気に入ってる側近や間諜に誘いを掛けただけでも自分のお気に入りを奪う気かとかいって殺されそうだ。

 なんだってあんたはそんな危険な橋ばっかり賢いのに渡るかねえ」


「仲達殿はそこまで情の濃い人じゃないだろう。

 いなくなったらいなくなったで一日で忘れるさ。

 誰にも執着しない人間だ」


「分かってないねえ。天才軍師さん。

 ありゃ嫉妬深い男の顔ですよ」


 郭嘉は相手にしてないように明るく笑った。



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