二人夜行
春坂灯
第1話
夜の十時を少し過ぎていた。
夏休みに入ってから、もう二週間が過ぎた。
だけど、どこかへ出かけることもなく、僕は毎日、ギターをつま弾いたり、気まぐれに本をめくったり、スマホの画面を何度も指でなぞったり――そんなふうに、意味もなく時間を流してきた。
生活のリズムはすっかり夜型に傾いて、眠気はどこか遠い場所へ置き忘れてしまったみたいだった。
蒸し暑い部屋のなかで、ベッドの上を何度も寝返りながら、ぼんやりと天井を見つめる。
スマホの画面には絶えず通知が積み重なっていくけれど、そのどれもが今の僕には遠いものに思えた。
エアコンの風が、レースのカーテンをゆっくり揺らしている。
両親の寝室からは、微かな寝息が規則正しく聞こえてくる。
そっとベッドを抜け出して、クローゼットから適当にジャージを羽織り、できるだけ静かに玄関を開けた。
外に出ると、むっとした夜の空気が、まとわりつくように肌を包んだ。
どこからか虫の声が絶え間なく響いている。
人通りのない道に、ぽつりと灯る街灯の明かりだけが、不自然なほどに白く浮かんでいて、それ以外はすべて、植え込みや塀の影に溶けていた。
コンビニの灯りも、遠くの車の音も、ここには届かない。
ただ、夜の底を漂うみたいに、僕は歩き出す。
行き先を決めるでもなく、気まぐれに流されるまま、ただ足を動かした。
やがて、小さな公園が見えてきた。
家から五分ほどの場所。
昼間は子どもやお年寄りで賑わうそこも、夜の闇に沈むと、まるで違う場所のように思えた。
街灯の下、ひとつだけのブランコがゆっくりと揺れている。
そのブランコに座っていたのは、同じクラスの水野だった。
黒髪をゆるくポニーテールにして、背筋を伸ばしている。
成績がよくて、誰からも一目置かれている――そんな「完璧」な印象の女子。
でも今は、どこか遠くを見ているような、静かな横顔だった。
「……水野?」
声をかけると、水野はゆっくりこちらを見た。
「あれ?小野くん?」
「そうだよ。びっくりした、お化けかと思ったよ」
「私がお化け? じゃあ.....うらめしやー」
水野はふざけて両手を前に出してお化けのポーズをした。
その仕草が思いのほか似合っていて、僕はつい笑ってしまった。
「あんまり怖くないね」
「もう、小野くんがおばけみたいって言うからやってあげたのに」
水野は少し拗ねたような声で言った。
「それで、小野くんはなにしてるの?」
「ただの散歩だよ」
水野の声は昼間よりも少しだけ柔らかく響いて、
夜の公園の静けさに溶けていくようだった。
「家、近いんだっけ?」
「うん、すぐそこだよ」
僕が答えると、水野は「へぇ、知らなかった。同じクラスなのに」と少し首をかしげた。
ブランコを揺らしながら、どこか遠くを見るような目をしている。
「そうだね。僕も知らなかったよ」
会話が途切れると、しばらく虫の声だけが響く。
昼間はほとんど話さない相手と、こんなふうに夜の公園で向かい合っているのが、
少しだけ不思議な気分だった。
「朝歩きだよね?」
「そうだよ。いつも遅刻ギリギリだけど」
水野が「だからか」と小さく笑った。
その笑い方が、教室で見るよりずっと自然に思えた。
「いつも散歩してるの?」
「いや、今日はたまたま。なんとなく眠れなくて」
「そっか。私もなんか、いろいろ考えちゃって」
ふと、水野が隣のブランコを指さす。
「座りなよ。暇なんでしょ? ちょっと話そうよ」
「じゃあ、そうしようかな」
僕は水野の隣のブランコに腰を下ろした。ぎい、と静かに鳴る。
夜風がひやりと頬を撫でた。
「小野くんは、なんで眠れなかったの?」
水野はブランコの鎖をそっと握りながら聞いた。
「なんでって言われてもねぇ。強いて言うなら――虚無感かな」
「時々あるんだけど、今日はなかなか頭から離れなくてさ。そっちは?」
「私も、似たようなものかな」
「へぇ、意外だね」
思ったままを口にすると、水野がちらりとこちらを見た。
「なんで?」
「傍から見れば、順風満帆に見えたから」
「そうかな? 全然、悩みだらけだけど」
「そうなんだ。まあ、そんなもんか」
ふたりの会話が途切れると、再び虫の声が耳に残る。
水野は夜空を仰いで、ポニーテールを指先でいじっていた。
「勉強とか将来とか、なんで生きてるんだろうとか――そんなことばっかり考えてるよ」
意外な答えに、僕は苦笑した。
「みんな同じだね」
ふたりの間に、また少しだけ沈黙が落ちる。夜の虫の声が一層はっきり聞こえた。
ふと、水野が顔を上げて言った。
「なんかさ、夜の匂いってあるよね?」
「言われてみれば、あるかもね」
「だよね!? 友達に言ってもなかなか伝わらなくてさ」
水野はちょっとだけ身を乗り出してくる。
普段はクールに見える彼女の、珍しく子どもっぽい一面が垣間見えて、
僕はおかしくなって少し笑った。
「じゃあ、その正体はなんだろうね」
「え? なんだろ、わかんない。小野くんはわかるの?」
「もちろんわからないよ」
「えー、絶対知ってる流れだったじゃん」
「残念ながら。一緒に考えてみようか」
水野は、ふっと口元を緩めて、夜空を仰ぐ。
「雨が降ったあとの土の匂いとは違うんだよね」
「そうだね。昼間よりも空気が冷たいのも関係ありそうだね」
「あと、ちょっとだけ花の匂いもしない?」
「するかもね。多分、排ガスとかの匂いが昼間より少ないから、相対的に目立つんだろうね」
「あ、そゆことか。なんか不思議だよね。昼間は全然気にならないのに」
水野はゆっくりとブランコを揺らす。
彼女のポニーテールが、夜風にふわりとなびいた。
しばらくふたりで夜の匂いについて、他愛もないことを話し合った。
気がつけば、初めてこんなふうにゆっくり会話している。
水野が、ふっと笑った。
「なんか、楽しいね。こうやってぼんやり話すの」
「そうだね」
僕も素直にうなずいた。
たぶん、こういう夜じゃなかったら一生こんなふうに話すこともなかったんだろう。
「そういえば。小野くんってギター弾けるよね?」
唐突に水野が聞いてきた。
「弾けるけど、どうして知ってるの?」
「去年の文化祭出てたじゃん。あれすごかった。」
「ああ、そういえばそうだった」
「なんで忘れてるの。自分で出たんじゃないの?」
「いや、軽音部の手伝いで勝手に推薦されてて、なんか成り行きで出ることになったんだよ」
「へぇ、そうだったんだ。でもすごかったなぁ」
水野は少しだけブランコを揺らしながら、夜空を見上げる。
そして、一度だけ僕のほうをちらりと見てから、
少し声を潜めるように言った。
「……ねぇ、小野くん。さ」
ほんのわずか、間が空く。
「なに?」
「明日って予定ある?」
「なんにもない」
「じゃあさ.....朝まで――遊んじゃおっか」
言葉の最後に、いたずらっぽく笑う。
どこか“思い切った”感じが伝わってきて、僕は小さく息をのんだ。
でも不思議と、全然唐突じゃなく感じる。
夜の空気がやさしくて、心も少し軽くなっていた。
「いいよ。どうせ眠れないし」
水野が、ちょっとホッとしたように、またイタズラっぽく微笑んだ。
「よし、決まり!」
「でもいいの?親心配しない?」
「大丈夫だよ、もう寝ちゃったから」
静かな公園に、ふたりの笑い声が小さく響いた。
____
水野が立ち上がる。
僕もそれにつられるように、ブランコから腰を上げた。
誰もいない公園に、ふたりの砂利を踏む足音だけが響く。
「どこ行く?」
「んー、特に決めてないけど……歩きながら考えよっか」
「それがいいね」
夜の住宅街は、昼間とまるで違っていた。
電灯の下だけがぽっかり明るくて、他は静まりかえっている。
遠くで犬が一度だけ吠える声。
人の気配も車の音もなくて、まるで世界にふたりきりになったみたいだった。
「こうやって歩いてると、なんか変な感じしない?」
「確かに、不思議だね。見慣れた街なのに」
水野は両手を後ろで組んで、道路の端の線を辿るように歩く。
僕は少しだけその後ろをついていく。
ふたりで歩く夜道は、不思議とまったく怖くなかった。
ふと、思い出したように水野が言った。
「あっ、アイス食べたい」
「いいね。じゃあコンビニ行こうか」
「レッツゴー」
水野は楽しそうに腕を突き上げた。
ふたりで静かな住宅街を抜けて、小さなコンビニに入る。
中は明るくて、思わず目がしょぼしょぼする。
僕たち以外に客はいなくて、店員もやる気のなさそうな若い男だった。
アイス売り場の前で、ケースをまじまじと覗き込む水野の横に、僕も並ぶ。
「何にするの?」
「チョコミントかな。小野くんは?」
「バニラ」
「えー意外。小野くん、もっと冒険するタイプかと思ってた」
「こういうのは結局、バニラが一番美味しいんだよ」
それぞれアイスを手に取ってレジに並ぶと、水野が財布を取り出しかけた。
「一緒で」
僕はスマホのバーコード差し出し、何でもないふうに店員に言った。
「え、いいの?」
「こんな日だからね」
「やったね。ありがと」
会計を済ませてコンビニの外に出ると、少しだけ涼しい風が吹いていた。
歩きながら、それぞれのアイスをかじる。
「チョコミント好きなの?」
「うん。昔は嫌いだったんだけど、いつの間にか好きになってた」
「へぇ」
「小野くんは、チョコミント無理な人?」
「そもそも食べたことないね」
「ほんと? じゃあ食べてみる?」
思わぬ提案に、僕は少しだけ面食らう。
だけど、こんなところで黒歴史を増やすのもごめんだったので、
なるべく冷静に首を振った。
「遠慮しておくよ。知らない方がいいこともあるし」
「えー、じゃあそっちちょーだい」
「え?」
「だめ?」
水野はじっとこちらを見てくる。
その目が、夜の街灯でほんのり光って見えた。
「……まあ、いいけど」
「やった」
水野がいたずらっぽく笑いながら、僕の持つバニラをさっとひと口かじる。
そして何でもないみたいに、自分のチョコミントを僕に差し出した。
「はい、チョコミントチャレンジ」
「いいってば……」
「ねぇ、溶けちゃうよ。早く」
全然聞く気がないらしい。
上の方はすっかり水野の領域になってしまっていたので、
どこを齧っても、いろいろと覚悟を決めるしかなかった。
仕方なく僕もチョコミントをかじる。
冷たいミントの味が広がって、チョコの甘みを感じた。歯磨き粉に近い。
限りなく小さく齧ったが、それでも、いくらかの水野を摂取してしまうことは避けられなかった。
「どう?」
「なるほどって感じ」
「ふーん」
水野は不服そうな顔をした。
「じゃあ、間接キスは?」
残念ながら、黒歴史は避けられなかったようだ。それでも、僕は努めて冷静に答える。
「味なんてしないよ」
僕がぶっきらぼうに答えると、水野はくすっと笑った。
「もう、冗談だってば。ほら、もう一口食べる?」
「いいって」
ふたりで笑いながら、夜道を歩いた。
どこか心が、少しだけ浮ついていた。
アイスを食べ終えると、ふたりでコンビニ脇のゴミ箱に棒を投げ入れた。
夜風が少しだけ強くなり、歩道の端に落ちた葉っぱがカサカサと音を立てている。
「次、どこ行く?」
水野が立ち止まって、少し首を傾げて僕を見る。
「商店街とかは?」
僕がそう提案すると、水野はすぐに顔を明るくした。
「いいね。夜の商店街。絶対面白いよ」
「じゃあ、行こうか」
ふたりで住宅街を抜けて、商店街へ向かうことにした。
途中、人気のない道をゆっくり歩く。
遠くで犬の遠吠えが一度だけ響いて、ふたりで顔を見合わせて苦笑いする。
街灯の下だけが不自然なくらい明るくて、そのほかは暗がりに沈んでいた。
夜の虫の声だけが、規則正しく続いている。
「なんかさ、夜って時間が止まってるみたいだね」
水野がぽつりと言う。
「確かに」
「私、こういうの好きかも。どこまでも歩けそうな気がする」
「そうだね」
ふたりの靴音が、静かな住宅街に小さく響いた。
やがて、シャッターの下りた店が並ぶ商店街の明かりが遠くに見えてきた。
自販機の明かりと、ところどころの蛍光灯が、ふたりの影を長く地面に落としている。
「着いたね」
「うん。なんか不思議」
ふたりだけの静かな商店街を、ゆっくり歩き始めた。
商店街は昼間の賑やかさが嘘みたいに、しんと静まり返っていた。
ふたりで並んで歩きながら、シャッターに描かれた絵や、ガラス越しのディスプレイをのぞいてみる。
「ここのパン屋、昔からあるよね。小さい頃、親と来た記憶ある」
「ほんとだ。……見て、シャッターのイラスト、可愛い」
時々、水野が指をさしてはしゃいだ。
僕も知らないふりをして付き合う。
少し歩くと、狭い路地を見つける。
「ね、あっち入ってみようよ」
「行き止まりじゃないの?」
「いいから、行こう」
ふたりで路地を進む。両側の壁が近く、
夜の空気がよりひんやり感じられる。
途中、小さな階段を見つけた。
「ここ、どこに繋がってるんだろ」
「たぶん、誰かの家じゃない?」
「それっぽくないよ。行ってみよ」
軽い気持ちで階段を登っていくと、
不意に視界が開け、屋根の上に出た。
商店街の屋根と屋根をつなぐ渡り廊下のような場所で、
そこから夜の街が見渡せた。
「うわ……すご」
「へぇ、こんなところに繋がってたんだ」
遠くで電車の音が小さく響く。
下を見下ろせば、誰もいない通りと、点々と続く自販機の明かり。
夜の静けさが、一層深く感じられた。
「楽しいね」
遠い夜空を見上げながら、水野が呟いた。
「そうだね」
ふたりでしばらく屋根の上に座って、
何気ない話をしながら夜風に吹かれた。
しばらく屋根の上で夜景を眺めていると、水野がスマホを取り出した。
「ね、写真撮ろ」
返事をする間もなく、水野は僕の隣にぴったりくっついてきた。
そのまま自撮りのカメラをこちらに向ける。
「はい、笑って」
カシャッ。
画面には、肩を寄せ合うふたりと、夜の街の灯りが映っていた。
そんなつもりはなかったが、写真の僕は少し笑っているように見えた。
商店街を抜けて、ふたりは自然と小さな公園に足を向けていた。
ベンチに並ぶと、夜空が視界いっぱいに広がる。
空は高く、星の光はどこまでも遠かった。
「すごいよね、宇宙って。あの光の全部が、地球よりも大きいんだもんね」
水野が夜空を仰いでぽつりと言う。
その横顔が、子どもみたいに見えた。
「そうだね。光ってるのは太陽みたいな恒星だから、その周りには惑星がきっとたくさんあるんだろうね」
「えー、そんなの、頭が爆発しちゃいそう」
水野は小さく笑い、僕もつられて笑う。
「とても人ひとりでは抱えきれない数だよ」
「でも、なんか安心する。宇宙から見たら、私たちなんて本当にちっぽけなんだろうし、
私の悩みなんて、もっともっとちっぽけに見える」
「そうだね、実際、僕らなんて砂粒みたいなものだと思う。……考える砂粒だけどね」
「なにそれ、ちょっと可愛い」
ふたりの間に、やわらかな笑いが流れる。
星空の下、他愛もないやりとりが夜の静けさに溶けていく。
しばらく夜空を眺めていた水野が、ふいに視線を落とした。
「ねえ、私たちって、なんのために生きてるんだと思う?」
僕は一度だけ息を吐く。
「うーん……目的なんて、たぶん最初からないんじゃないかな。
ただ、こうして存在してるだけなんだろうなって思う」
「じゃあ、なんで存在してるの?」
「生まれたから、としか言えないな。偶然で、でも、もしかしたら全部がつながってて必然なのかもしれない。
僕たちの頭じゃ、きっと理解しきれないくらい複雑な世界でさ」
「偶然で必然、か。難しいなあ」
水野は顎に手をあてて、しばらく考え込む。
「最近ね、生きる意味ってなんだろうってずっと考えてて――
でも考えれば考えるほど、余計にわからなくなっちゃって。
意味を探すの、もうちょっと疲れちゃった」
その声を聞きながら、僕も胸の奥で同じような波を感じていた。
少し黙ってから、僕はふと話し出す。
「そういえば、こんな話もあるよ。
人間には本当の意味での自由意志なんてなくて、僕らはただ世界の流れの中で、
無意識のうちに選ばされているだけだっていう説」
「え? じゃあ今私がこうやって考えてるのも、決まってるってこと?」
「そうみたい。僕らが自分で選んでるつもりでも、実は全部どこかで決まっている――
そんなふうに考える人もいるんだ」
「じゃあ今私が悩んだりしてるのも、最初から決まってることなの?」
「そうなるね。無意識に、そう思わされてるだけかもしれない。
でもさ」
一瞬、言葉を選ぶ。
「それでも、今こうして夜風が気持ちいいなとか、
星がきれいだなとか――そう感じていることは、間違いなく僕たち自身のものだと、僕は思うよ。
理由も答えもなくても、何かを感じている。それだけで十分なんじゃないかな」
水野は少し黙って、夜空を見上げる。
「……そっか。たしかに、それは自分のものだね」
「まぁ僕も、完全に割り切れてるわけじゃないけどね。
今日だって虚無感で眠れなくて歩いてたんだし。
でも、少なくとも今こうして話している時間は、とても心地いいよ。
意味や価値なんてわからなくても、いま感じてるものは確かだと思えるから」
「そっか……私もね、楽しい、今。楽しいって思えるのが、なんか嬉しい」
「よかった」
ふたりのあいだに、静かな間が生まれる。
虫の声が遠くから聞こえ、夜の街がゆっくりと深まっていく。
そのあとも、人生や世界、意味について、
答えのないことをとりとめなく語り合った。
夜風が吹き抜けて、ベンチの上の沈黙さえやさしく包み込んでくれる気がした。
やがて水野が、ふっと小さな声で言う。
「なんかすごい話になっちゃったね」
「そうだね。でも楽しいよ。こういう話って、あんまり人にはしないから」
「私も。……なんかスッキリした。逆にモヤモヤが増えた気もするけど」
「それでいいんじゃないかな。きっと、答えなんて最初からどこにもないんだよ」
「……そうだね。じゃあさ、またモヤモヤが溜まってきたら、こうやって話そうよ。ふたりで」
“ふたりで”という言葉が、胸に少し残った。
深い意味はないのかもしれないけれど、僕はしばらくその響きを反芻する。
「うん、また話そう」
虫の声だけが響く公園で、
ふたりはこの世界に取り残されたみたいに、長い沈黙を分け合っていた。
しばらくして、水野がぽつりと尋ねる。
「ねえ、小野くん、今何時?」
僕はポケットからスマホを取り出し、画面を点ける。
「……二時半」
「二時半? これって丑三つ時ってやつじゃない?」
「そうだね」
水野がいたずらっぽく笑う。
「じゃあ、肝試ししようよ」
唐突な提案に、思わず苦笑してしまう。
「いいけど、怖いの大丈夫なの?」
「いや、全然ダメだよ。心霊番組見たら寝れなくなっちゃうくらいには」
「じゃあやめとこうよ」
「今日は寝ないから大丈夫でしょ。小野くんもいるし」
「僕をなんだと思ってるの。ゴーストバスターじゃないんだけど」
ふたりで顔を見合わせて笑い合った。
「……で、どこ行くの?」
「うーん、2丁目の神社とかどう?」
「ああ、あの小学校の裏の?」
「そう。歩いて十五分くらいかな。ほら、行こ」
ベンチから立ち上がると、夜の空気がひんやりと肌にまとわりつく。
静まり返った住宅街を抜けて、ふたりは神社を目指して歩きはじめる。
足音だけが、静かな道にぽつりぽつりと響いていた。
「小野くんは、幽霊って信じる?」
水野が急にそんなことを言う。
僕は少し考えてから、肩をすくめた。
「あんまり信じてないかな。ちょっと無理があるっていうか、
もし本当にいたら、この世界はもっとおかしなことになってると思うし」
「そっか。私も頭ではわかってるんだよ? でも、いざ夜になるとやっぱり怖いんだよね」
「じゃあ、途中で“わあっ”って僕が脅かしたらどうなる?」
「絶対ダメ。ダメだよ。やったら怒るからね?」
真剣な眼差しに思わず肩を竦める。
「冗談だよ」
ふたりでそんなことを話しながら、だんだん家々の灯りが遠のいていく。
スマホのライトをつけると、足元が白く照らされた。
やがて、住宅街のはずれにぽつんと鳥居が見えてくる。
夜の闇に浮かぶその朱色は、昼間よりもずっと大きく、不思議な気配をまとっていた。
誰もいない石段と、しんと静まりかえった木立。
空気が少し冷たく感じた。
「着いた……ね」
水野が息を呑む。
ふたりは鳥居の前でしばらく立ち尽くしていた。
肝試しを言い出したことを、きっと今になって後悔しているのだろう。
「社までそんなにないはずだけど、夜だと遠く感じるね」
「うん……」
隣の水野は、目に見えて怯えていた。
暗がりの中、さりげなく僕の袖を指先でつまんでくる。
僕は少し面白くなって、ちょっとだけ意地悪をしたくなった。
「じゃあ、行こうか」
「あっ、待って、置いてかないで」
ふたりで鳥居をくぐり、林道を進む。
足元の砂利がざりざりと鳴り、木々の間から夜風が吹き抜ける。
時おり、どこからかカサリと落ち葉が揺れる音や、小さな生き物が這う気配が耳に届いた。
水野は何度も肩をすくめ、時々こちらを心細げに見上げてくる。
「そういえば、この神社って変な噂あったよね」
実際はそんな噂は知らないけれど、水野の反応が気になって、つい口にしてしまう。
「え?ほんと?聞いたことないよ?どんな噂?」
水野の声はさっきよりずっと小さくて、目に見えて焦っている。その様子がどこか可愛らしかった。
「僕も詳しくは知らないけど、子供の声が聞こえるとか、夜な夜な釘を打つ音がするとか……そんな話だったかな」
「うそ……」
水野の表情はみるみる暗くなっていく。
明らかに適当な話だが、全く疑っていないらしい。
それでも僕の隣に、さっきよりもぴったりとくっついてきた。
やがて、もうひとつの鳥居が見えてくる。
林道の奥、夜の闇のなかに、ぽつんと朱色が怪しく浮かんでいた。
「ねぇ、鳥居って....なんか怖くない?」
「そうだね。でもこの不気味さが好きだな」
「えぇ....やだよ...」
その鳥居をくぐると、空気がさらにひんやりとして、境内の静けさが一段と際立つ。
目の前には小さな社がぽつんと建ち、その脇にはいくつもの稲荷の蔵。
月明かりに照らされた狐の像たちが、じっとこちらを見ているようだった。
無人の境内は、昼間とはまるで違う世界のように、ひたすら静かで、
夜風と虫の声、そして自分たちの呼吸の音だけが耳に残った。
社に近づくと、不自然なほど静まり返る。
虫の声も、木立のざわめきも、どこか遠くへ消えてしまったようだった。
「ねぇ....こんなに静かだっけ....?」
「確かに、不気味なほど静かだね。さっきはもっと虫の声が聞こえてたのに」
「やだやだ、怖いこと言わないで」
その時、正面の林から、「カンッ」という金属音が響いた。
あまりに突然で、ふたりともびくっと肩をすくめて立ち止まる。
水野は今にも消え入りそうな声で、
「なになに、やだ、なに……」
と僕の腕にしがみつく。
僕も内心どきどきしていたが、なんとか落ち着いた声を装う。
「……たぶん木のぶつかる音だよ」
それでも心臓がどくどく鳴るのを誤魔化せない。
ふと、水野が手元のスマホのライトを社の脇へ向けた。
その一筋の光が、今まで闇に沈んでいた場所を、ぱっと白く照らし出す。
そこに、稲荷の蔵の前に並ぶ狐の像が、何体も突然現れた。
「きゃあっ!」
水野が短い悲鳴を上げ、その場にへたり込む。
僕の腕をぎゅっと掴んだまま震えている。
流石にもう無理そうなので、肝試しはここまでにすることにした。
「大丈夫? もう戻ろうか」
僕がそっと尋ねると、水野は涙声で答えた。
「……無理、歩けない……」
「もしかして、腰抜けちゃった?」
「……わかんない……足、動かない……」
どうしたものか。放っておくわけにもいかないし、かといって無理に歩かせるわけにもいかない。
僕はダメ元で、第三の選択肢を提案してみる。
「おんぶしようか?」
「……お願い……もう無理……」
即答だった。こんな短時間でずいぶん信頼されたものだと思ったが、
単に恐怖の方が強いだけかもしれない。
しゃがみ込むと、水野がそっと肩に腕を回してくる。
汗の匂いに混じって、柔軟剤の甘い香りがほんのり漂った。
背中に感じる重さと温もりが、夜の神社の闇のなかでやけに現実的だった。
水野を背負って、林道をゆっくりと引き返す。
夜風が少しだけ冷たく、虫の声がふたたび遠くから聞こえ始めていた。
背中の水野が、小さな声でつぶやく。
「ごめんね。私がやりたいって言い出したのに……」
「いいよ。女子をおんぶする機会なんてなかなかないからね」
「そう? 小野くんじゃなかったら頼まなかったけど」
その言葉に、思わず少しだけドキッとする。
「ずいぶん信頼されたものだね」
「当たり前じゃん。信頼してなかったら夜遊びなんて誘わないって」
「なるほど。それもそうだね」
ふと気づく。
「というか、元気そうだね。実はもう歩けるんじゃないの?」
僕が尋ねると、水野はみじろぎ一つせず答えた。
「うーん、いや、まだ歩けないね。絶対歩けない」
絶対歩けるな――と思いつつ、僕は苦笑いする。
「へぇ、まぁそんなに重くないし、別にいいけどね」
「“そんなに”は余計だよ、小野くん」
「人間なんだから、多少は重いよ」
「そういうんじゃないの。全く、乙女心ってやつがわかってないなぁ」
「あれ、そんなこと言っていいの?今ならまだ神社に引き返せるけど、どうする?」
「うそうそ! 冗談だから、絶対戻っちゃだめだよ」
ふたりの笑い声が、夜道にやわらかく溶けていった。
水野をおんぶして夜道を歩く。
しばらくはぽつぽつと話していたが、やがて背中から返事がなくなった。
代わりに、小さな寝息だけが耳元で静かに響いていた。
眠りに落ちた水野の重みと温もりが、夜の空気にしっかりと馴染んでいる。
その存在が背中に伝わるたび、奇妙な幸福感に包まれる。
ふたりきりの長い夜。
けれど今、水野はもう夢の中で、歩く僕だけが世界に残されているような心細さと、どこか満ち足りた気持ちが交互にやってくる。
住宅街を抜け、公園の近くまで来ると、空の色がほんのり白みはじめていた。
東の空に朝が近づいている。
人気のない道を一人と一人分の重さで歩く。
眠っている水野が時おりうっすらと寝言をつぶやき、僕は小さく笑う。
静かな世界のなかで、夏の夜風と朝の気配が入り混じる。
ようやく出会いの公園にたどり着いた。
ベンチの脇で立ち止まり、そっと背中の水野に声をかける。
「水野、もう朝だよ」
軽く揺すると、水野がゆっくりと目を開ける。
まどろみのなか、半分寝ぼけたような声でつぶやいた。
「あれ……寝てた?」
「うん、ぐっすりね」
「ほんとだ……朝、だ」
「おろすよ?」
「うん」
僕はゆっくりと腰を落とし、水野を背中からそっと降ろす。
水野はまだぼんやりした顔で東の空を見上げた。
空はすでに淡く染まり、雲の端が金色に輝きはじめている。
ふたりで並んでベンチに座り、しばらく朝焼けを眺めた。
夜の余韻と、始まりかけた一日の予感が静かに入り混じっていた。
「綺麗だね」
水野が小さく言う。
「そうだね」
夜が終わるのが惜しいような、不思議な気持ちになる。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん……楽しかった。ありがとう、小野くん」
「こちらこそ。楽しかった」
公園の出口へと歩き出すと、世界が少しずつ目を覚ましはじめていた。
鳥のさえずり、朝の匂い――静けさのなかに、新しい一日が広がっていく。
別れ際、水野がふと立ち止まる。
「ねえ、小野くん、夏休みって予定ある?」
突然の問いかけに、思わず顔を向ける。
「いや、驚くほど何もないよ」
「そっか……じゃあさ、今年は私と遊ばない?」
意外な言葉に胸の奥が少しだけ高鳴った。
「僕はいいけど、水野は予定ないの?」
「うん。友達との予定はもうほとんど終わっちゃったし、あとは暇なんだ」
「そう……じゃあ、ちょうどいいね」
水野はうれしそうに微笑む。
「じゃあ、決まり。あとで連絡するね」
「うん」
「じゃあね。おやすみ――って、もう朝だけど」
ふたりで小さく笑い合い、それぞれの家へと歩き出す。
家に着くと、そっとドアを閉めた。
脱いだサンダルを玄関に揃え、
静かな部屋に戻ると、いつも通りの風景が広がっている。
心地よい疲れに身を預け、
そのままベッドに転がり込む。
仰向けになって天井を見つめると、
夜の空気や、水野の寝息、
朝焼けの公園――すべてが頭の中でやさしく反芻される。
スマホを充電器に差し込み、
目を閉じて眠りに落ちようとしたとき、
小さくバイブが震えた。
画面を見ると、水野からのメッセージ。
クラスのグループから個別に追加してくれたのだろう。
添付された写真は、商店街の屋上でふたり並んで撮った一枚だった。
『今日は本当に楽しかった。ありがとう。おやすみ』
短い文章が、胸の奥にやさしく灯る。
僕もスマホを握ったまま、
同じくらい短い返事を送る。
『僕も楽しかったよ。おやすみ』
スマホを枕元に置いて、もう一度小さく息を吐く。
窓の外では、夜が静かに明けていく。
何もなかったような一日が、ほんの少しだけ、特別なものに変わっていた。
二人夜行 春坂灯 @tomoriharusaka
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