ちゃんとした人生を蹴り飛ばしたら、やっとエンジンがかかる

ナナ氏の

第一部

高月との計算外なお盆休み

第1.1話

 タスク終え定時で帰る奇跡かな。


 デュアルモニターの片方に居座って未完のピッチ資料を眺める。もし、これを早めに片付けられれば。


 昼休みに入ったフロアは、腰の重い若手を除けば人影もまばらで、シニアの面々は食事に出かけた。静まり返った一角で、二人のアナリストがモデルの数値を巡り、息を潜めて議論を続けている。


 スライドが途中で止まり、コースターに載せたコーヒーからは、生温かい湯気がゆらゆらと立ち上っていく。デスクの端にスマホがひょいと震えた。


 椅子をわずかに引き、画面を覗き込むと、通知バナーに《高月たかつき那帆なほ》の名が浮かんでいた。


『お盆って、実家に帰ったりする?』


 指先でロックを解除する。液晶の輝度が、午前中ずっと凝視していたモニターより一段と鋭く、目に突き刺さった。


『帰らないと思う。高月は?』


 返信を打ち返してコーヒーを口に運ぶと、すぐに既読マークがついた。


『私も』

 短いリプの直後、新たな吹き出しがポップアップする。

『実はちょっと聞きたいことがあって……ラリーって知ってるの』


 カップを持ち上げた手が、中途半端な位置で止まった。喉を通りかけの液体が、危うく逆流しそうになる。


 ラリー。今、この時期に。

 一瞬、頭がぐわんとする。もし相場が跳ねれば、進行中の案件が全部動く。そうなれば、私のお盆休みは……


 いや、だからといって、なぜ高月がそれを。彼女は放送局勤務で、経済ニュースの速報でも流れたのかと、背筋にひやりとした。


『え、ラリー……って、何のラリーのこと?』


 半ば確信して送信すると、画面上の三点が揺れては消え、再度現れた。数秒の間を置いて、やがて新しいメッセージが届いた。


『あっ、ごめん!車のラリーだった…』


 送られてきた文末には、赤いミニカーと飛び散る汗の絵文字。さらに、目を丸くした青い車のスタンプが一つ、据えられていた。


 スマホを見つめたまま、忘れた頃にやってくる瞬きを繰り返す。

 市場の暴騰ラリーじゃなかった。

 ふぅと息を吐いて、強張っていた肩の力を抜き、椅子の背もたれに深く沈めた。


 数秒後、消えかかった三点が再び点灯した。ぶつ切りな言葉が次々と画面に放たれる。


『昨日さ、ちょっと調べてみたんだ』

『あのカードのこと』

『それが、カフェとは全然関係なかったみたい』

 一拍おいて、画面が少しせり上がった。

『叩いてたら、なぜかモータースポーツのページに飛ばされちゃって』


 流れる吹き出しを追いながら、一昨日の記憶を反芻する。褪せた赤のインク、緻密な筆致で描かれた古い車。妙に印象深かった紙片が、連鎖的な調べ物の果てにこの場所へいたのなら、合点があった。意外ではあるが、腑に落ちる話だ。


『なるほど……そう繋がるわけか』


 小さく独りごちると、送信ボタンをタップした。


『そこから、ラリーのライセンスの記事に辿り着いちゃった』


 ラリーに専用の免許があることすら初耳だった。そもそも、ラリーというもの自体を何も知らなかった。


『初心者ってライセンスを取れる?』


 送信をタップし、親指を滑らせてアプリを切り替える。ブラウザの検索窓に「ラリーライセンス」と入力すると、泥を跳ね上げて走る車のサムネイルが並んだ。


 開いたリンクの一頁で、馴染みのない単語を網膜がなぞっている合間を縫い、上から高月の返信が重なる。


『2時間くらいの講習を受ければラリー用のライセンス申請ができるって話で』


『ちょっと調べたけど、普通の教室っぽいし、気楽に行けそう』


 青白い光が指先を離れるのを待つ。指の力を抜いてカップを手に取り、冷めた液体を口へ傾ける。


『そうそう、お盆で時間できたから、なんか興味わいてきて』

『忙しかったら全然大丈夫だよ。もし時間あれば、二人で受けると心強いなぁ』


 連休の予定にあまり起伏がなく、ただみが募る。結局、また同じ月曜日へと至る空白が横たわっている。どうせいつも通りやり過ごすのであれば、たまには、違うこともいいかもしれない。講習だけなら、支障はないだろう。


『特に予定もないし、じゃあ一緒に行こうか』と綴り、直ちに次のメッセージが舞い込んだ。


『一緒に行けるの嬉しい!当日は車で一緒に行かない?』


 視線を移して、そういえば雨をまとい、駆ける車が、改めて見られるな……。


『ありがとう、お願いしていい?』


『もちろん!あのロータリーでどう、分かりやすいと思って』


 反射的にスクロールして読み返した。そこなら確かに待ち合わせには最適だ。


『助かる。そこなら遠くないし、全然問題ないよ』


 腕時計をチラつかせ、昼休みもあと15分しかない。今のうちに決まって良かった。


『土曜日の朝は?』


『うん、空いてる』


『じゃ、その時ね』――最後のやり取りは、ひととき目を止めた後、黒い画面の向こうへと消えていった。


 自分の顔が映らないようスマホを伏せ、デスクに置く。モニターの光が、相変わらず机上を照らし続けていた。

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