第100話

電車が、完全に、見えなくなった後も。

私は、ただ、ぼうぜんと、そこに立ち尽くしていた。

世界から、音が消えたようだった。人の声も、駅のアナウンスも、何も、聞こえない。ただ、夏の終わりの、蝉の声だけが、耳の奥で、じりじりと鳴り響いていた。


「……詩織」


不意に、肩を、ぽん、と優しく叩かれた。

振り返ると、凪と、佐伯さんが、心配そうな顔で、私を見ていた。


「……行くか」

佐伯さんの、その、静かな言葉に、私は、こくりと、小さく頷いた。

凪は、何も言わずに、私の隣に並んで、歩き出してくれた。その、いつもと変わらない、当たり前のような優しさが、今は、どうしようもなく、心に沁みた。


駅を出て、見慣れた帰り道を、三人で、黙って歩く。

佐伯さんは、途中で、「じゃあな」と短く言って、仕事に戻っていった。

二人きりになった、凪が、ぶっきらぼうに、言った。

「……泣きたかったら、泣けよ」


私は、凪の顔を見て、そして、初めて、少しだけ、笑った。

「……大丈夫」


大丈夫なわけ、ない。

胸には、大きな、大きな穴が、ぽっかりと空いてしまっている。そこから、冷たい風が、吹き込んでくる。

でも、その穴は、空っぽではなかった。

楽しかった記憶。嬉しかった言葉。そして、未来への、二つの、確かな約束。

その全てが、この、どうしようもない痛みと、一緒に、ちゃんと、そこにあった。


凪は、何も言わずに、海星館の、閉ざされた扉の前まで、私を送ってくれた。

私は、足を止め、もう二度と開くことのない、その扉を、じっと見つめた。

そして、思い出す。

動き出した電車の窓の向こう。最後に見た、澪の顔。


あの顔は、泣いていた。

でも、同時に、笑っているようにも、見えたのだ。


ああ、そうか。

私も、今、きっと、同じ顔をしているんだろう。

失った悲しみと、出会えた喜び。その、どちらか一つだけなんて、選べない。

泣き顔と、笑顔の、あいだ。

それが、私たちの夏の、本当の、名前なのかもしれない。


私は、空を見上げた。

どこまでも、青い、夏の終わりの空。


私たちの夏は、終わった。

でも、物語は、終わらない。

この、胸の痛みも、温もりも、手のひらに残る、二つの約束も。

その全てが、私たちが、確かに、ここにいたという、証明だから。


「待ってるよ、澪」

声には、出さずに、心の中で、そう、呟いた。


私は、隣に立つ、たった一人の親友に向き直る。そして、今度は、さっきよりも、もう少しだけ、強く、笑ってみせた。


「帰ろっか」


私の、長くて、短かった夏が、終わった。

そして、新しい季節が、もうすぐ、始まろうとしていた。


(第一部:夏休み編 ~さよなら、海と星座の栞~ 了)

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