ファインダー越しの距離

第5話


その夜、私は久しぶりに自分の部屋のクローゼットを開けた。

「明日、町を案内する」という約束。それはつまり、海星館ではない場所で、月島澪と会うということだ。制服でもない、いつものTシャツとジーンズでもない、何か別の服を着るべきなのだろうか。

クローゼットの中に並んでいるのは、黒やグレー、ネイビーといった、くすんだ色の服ばかり。外の世界で、なるべく目立たないように、誰の記憶にも残らないようにと、無意識に選んできた色。その一枚一枚が、今までの私の生き方を物語っているようで、急に息が苦しくなった。

結局、何を着ていけばいいのか分からないまま、私はベッドに潜り込んだ。目を閉じても、明日のことを考えると心臓がうるさくて、なかなか寝付けなかった。


その時だった。枕元のスマートフォンが、短く震えた。

画面に表示されたのは、昨日登録したばかりの「月島 澪」という名前。


『こんばんは。明日のこと、すごく楽しみにしてるね』


たったそれだけの、短いメッセージ。なのに、その言葉は私の胸に、温かい波のように広がっていった。楽しみにしてくれている。その事実が、暗い部屋の中で、小さな灯りのように感じられた。

私は、何度も何度も文章を打っては消した。「私もです」では、なんだか馴れ馴れしいだろうか。「はい」だけでは、冷たいと思われないだろうか。十分ほど悩んだ末に、ようやく『私も、楽しみです。』とだけ返信するのが精一杯だった。すぐに既読の印がつき、猫が笑っているスタンプが一つ、送られてきた。その意味はよく分からなかったけれど、私の口元が、少しだけ緩んだ。


翌日。結局私は、数少ない手持ちの中から、一番よれていない白いブラウスと、少しだけ色の薄いジーンズを選んだ。鏡に映った自分は、いつもと大して変わらない。そのことに安堵しながら、同時に、隣に立つであろう澪の姿を想像して、胸の奥がちくりと痛んだ。


待ち合わせ場所は、町の中心にある、古びた時計台の前。約束の時間より十分も早く着いてしまった私は、手持ち無沙汰に時計の針が動くのを眺めていた。心臓が、自分のものじゃないみたいに速く、大きく脈打っている。逃げ出してしまいたい気持ちと、早く彼女に会いたい気持ちが、めちゃくちゃに混ざり合っていた。


「詩織さん!」


不意に、背後から名前を呼ばれた。振り向けば、夏の日差しを弾くような笑顔で、澪がこちらに手を振っていた。

今日は、淡い黄色のノースリーブのブラウスに、白いショートパンツという出で立ちだった。涼しげな麦わら帽子を被り、首からはもちろん、愛用のカメラを提げている。海星館で見る彼女とはまた違う、夏そのものみたいなその姿に、私は一瞬、息を呑んだ。


「ごめん、待った?」

「ううん、今来たとこ」


自然と、ありきたりな嘘が出た。澪は「そっか、よかった」と笑うと、私の隣に並んだ。昨日よりも、もっと近い距離。シャンプーの香りが、潮風に混じってふわりと届く。


「それで?」

澪は、悪戯っぽく笑いながら、私を見つめた。

「どこに連れてってくれるの?」


その真っ直ぐな瞳に、私はまた、言葉に詰まりそうになる。でも、昨日の自分とは、もう違うのだ。私は、震えそうになる声を押さえつけ、ゆっくりと口を開いた。


「うん。……こっち」


私は、駅前の賑わいとは反対の方向へ、ゆっくりと歩き出した。澪は何も言わず、私の半歩後ろを、楽しそうにカメラを揺らしながらついてくる。

向かったのは、観光客は誰も知らない、地元の人も滅多に近寄らない、古い防波堤だった。潮風に錆びた手すりを頼りに、私たちはその先端まで歩く。目の前には、どこまでも広がる青い海と空。そして、振り返れば、丘の上に建つ、丸いドームが見えた。


「ここが、私の好きな場所。一つ目」


風が、私たちの髪を優しく揺らす。


「海星館が、一番よく見える場所だから」


私は、ドームを見つめながら言った。澪は、何も答えなかった。ただ、カシャッ、というシャッター音が、夏の空に小さく響いた。

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