ねぇ、きいてよ

秋のやすこ

ねぇ、きいてよ

 航空機用タイヤの滑走路を削る音と、ジェットエンジンの音が、嫌でも耳に入った。

 フードコートで私の目の前に座っている女性はオレンジ色のトレイに乗せたカレーライスを食べている。福神漬けをスプーンに乗せてルーと共に口に含む、そうすると美味しいらしい。


 一通り食べて、銀の深皿が綺麗に見えた。コップに入った水を一口飲むと深めの息を吐いて言葉を放った。


「これでしばらく食べられなくなるかぁ」


 私の目の前に座っている女性は、今日で日本を発つ。詳しい理由は聞かなかったけど、仕事の関係らしい。ずいぶん長い付き合い。恋人とも、友人とも違う、微妙な関係だけれど。


「で、君は食べないの?」


「え?」


「ジーッと私を見てるから」


 そういえば私もカレーを頼んでいた。食べ切ったつもりでいた。まだルーとライスが二口分しか進んでいない。まだまだ温かい雰囲気は残っている。


「なんか、あげる」


「なに急に」


「私は、いつでも食べれるから」


「じゃあ遠慮なく」


 なんだか食欲が湧いてこなかったので、彼女にあげることにした。自分のスプーンで食べたら良いのに私が使っていたスプーンに口をつけた。長くて黒い髪を耳にかけながら食べかけのカレーを食べる様子はなんだか妖艶だななんて思った。


 二皿目のカレーは食べ切るまで一皿目よりも時間がかかった。


「もうお腹いっぱい」


「よく食べるよね、昔から」


「美味しいからね。あっちではご飯の量多いだろうから逆にちょうど良いかもなんて」


「二皿で満腹なら無理でしょ、広いよ世界は」


 こんなくだらない会話を何年続けてきただろうか。私よりも、彼女の方が活発だし性格が良い。そういうところが気に入られたりするんだろう、海外で人気になりそうな人だと思う。


「昨日までうんと遊んだり、たくさんお話したり、いろんなことしたのにね。なんだかあっという間」


「そうだね。ほんと」


 騒音が響くフードコートで、私たちだけが、二人ともが机を眺めて、静寂の間が少し続いた。なにか会話を生み出さないと、彼女が発つまでの時間が無駄になってしまうと思ってなにか、なにかを生み出すため不自然に首を動かしていると、ププっと笑い声が聞こえた。


「君が焦るの?」


 私が焦っているのがバレたみたいで、首を傾げて、笑いながら上目遣いで話した。口角が上がっているのがわかる。いやらしく笑うその顔は私がずっと見てきた顔だ。


「別に、最後に気まずく終わるのも嫌だろうから」


「気まずくなんかないって、ウチらそんなに浅かった?」


 苦し紛れの言い訳は効果がなくて、私だけが恥をかいたようにして会話の区切りがまた一つついた。


 人生のうちに大きな別れが何度訪れるのか私は知り得ないけれど、少なくとも一つ目は今日なんだと思った。まだ実家で寝ている子犬のポチとの別れの方が早く訪れると思っていた。祖父母は元気で、私はまだ家族との別れを経験していない。

 そして今日起きる別れは死別じゃない、生きている限りまた会うことができる。期間だって三年から五年くらいだ。

 それだというのに、なぜ私の心臓の鼓動が治らなく、どこまでも不安な感情が込み上げてくるのだろうか。彼女が私の傍から一定期間いなくなってしまうだけで、なぜ見えてきた道が暗く感じてしまうのだろうか。この先私が前を向いて歩くことができるのかわからなくなった。

 こういう時に、自分の心配をする私にも自己嫌悪が生まれた。


 別れを意識せずに過ごしていたら、いつの間にか私の知らないところで別れの小さな種がどんどん育っていた。私が気づいた時には斧でも切れないほど立派な木になっていた。そんな木なんて立派だと思いたくない。


「はーあと二時間ちょっとか」


「はやいね」


「うん」


 彼女の気持ちがわかるわけではないけれど、お互いにぎこちなさを感じていることはわかった。私は彼女に最後楽しくいてほしいのだ、今までお世話になってばかりだ。

 小学生のころ、背の高い男子にいじめられて、涙かどうかわからないように水を被りながら泣いていたのを慰めて、助けてくれたのは他でもない、私の目の前に座っている女性だ。

 かっこいい男子でも、強くなった私でもなく、昔から私よりも元気で友達が多かった幼馴染の女の子だ。


 結局私はその年だけ学校に行けなくなっちゃったけれど、家に遊びに来てくれたのも、どこかに連れて行ったくれたのも、その女の子だ。


 私はなにができただろう。なんだか別れる前に涙が出てきそうになった。私よりもずっとずっと勇敢な女の子に比べて私はどれだけ弱いのだろうか、今でも些細なミスで自分を責めている。


 最後の最後、会話をしても耳に入ってこない。お願いだから今この時だけでいいから私の脳から歪んだ自我を追い出してほしい。

 この子に純粋な気持ちを向けてあげたい。自己をベースに他者を考えたくない。自己犠牲のようでいて全く違う私の心をどうか許さないで。


「なんか顔暗くない?」


「それは、だって」


 言葉を紡ぐことが段々と難しくなってきて、それは成人した人間とは思えない言葉しか出てこない。側から見て、大人びて見えるのは私だ。実際のところ、精神的に強いのも大人なのも彼女の方。私はちょっとだけ他の子より落ち着いているだけだから。


「ウチね、君と幼馴染でよかったと思うよ」


「なに?急に」


「もうしばらく会えないんだもん。言っとかないと」


 そういうところ。


「大学と会社は違うけど、結構な頻度で会ってたし。ウチはそんなに離れてる感覚はなかったの。楽しかったなーって」


「もしかして、君は今自分のことを卑下してるんじゃない?」


 私はなにも言えなかった。


「はい図星。唇撫でながら下を向いたら大体ネガティブになってるんだから」


「だって私」


「君のことだから恩返しがどうとか思ってるんだろうけど、ウチは君がウチのお話を聞いてくれるだけですっごく嬉しかった。君がウチのお話を聞いてくれる時、たくさん頷いてくれるんだよ。ウチも楽しくなっちゃって、どんどん話しちゃう。凄いのがさ、帰ったらめっちゃ疲れてるの。その時はマシンガントークしちゃうのにね、ウチは君が思ってる以上に君に感謝してるんだから」


 そんなに大層なことをしてるつもりはなかった。人としてあたりまえのことだと、やることとかそういうのじゃなくて、人間が持ってる能力の活用だと思って。

 なんであなたはいつもそうやって言うの、私はなにも言えてない。


「そんな、私は」


「あーストップ、君が話すとウチ泣いちゃうもん。ウチは泣かせたいの」


「なにそれ」


「ウチは自分勝手だからねー」


 ほんと、昔からそう。


「あ、もうあとちょっとじゃん」


 検査局の前、私とあなたは隣合わせで手を繋いで歩く。こんなこと珍しくもないけれど、久しぶりにやった気がする。隣のあなたが私の指の間が擦れ合って、私は強く握り返そうと思う。


 最後に。


「じゃあ、また今度」


「うん」


 私は最後までなにか長い言葉で伝えることができなかった。お互いに抱きしめ合った。私という人間がいたことをあなたの体に残したくて、できるだけ強く抱きしめた。


 強いと、軽く笑い合ってから、彼女はゲートを通った。深呼吸のつもりで大きく息を吸った。そのまま吐こうとした、その時に出たのは息じゃなくて、あなたに向けた言葉。


「ねぇ!!!」


「あなたが行った後も私頑張るから!私もあなたといれてよかったから!!!!」


 私が人生で一番大きな声を出したのは、大好きなあなたへ届けるため。きっと大丈夫。だってこんな大きな声が出せたんだから。

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