最終話 風のなかの声
百合子の日記に綴られていたのは、恨みでも悲しみでもなかった。ただ、祐介の幸せを願う澄んだ想いだけだった。
「あなたの心が、いつも笑顔に包まれていますように……」
灯籠が水面に浮かび、笛の音が風に乗って漂う。湘南の海、七里ヶ浜で生まれた遅咲きの恋が流した涙は、真っ白だった祐介の心に朱を滲ませた。夕空の茜のようなその雫は、灯籠とともに百合子の魂を浮かべ、水面を揺らしながら消えていった。
今もどこかで、撫子の花に姿を変えて、季節の風に小さく揺れている気がした。
赤く滲んだ月明かりが波に溶けるように道を照らす。汐風は夜を縫うように吹き抜け、かつて百合子の髪を揺らした風が、いま祐介の頬を撫でる。濡れた砂の感触が記憶を呼び起こすたび、彼は立ち止まり、目を閉じた。
風の中に残る微かな香り。波のリズムに重なる彼女の笑い声。届かないはずのそれらが、今夜だけは赦されるように思えた。祐介が潮騒に紛れて呼んだ。
「……百合子」
彼の声は静かな夜の海に溶けていった。波間に吸い込まれるその刹那、風の向こうから、懐かしい百合子の声がかすかに揺れて届いた。
「ありがとう、祐介。あなたと出会えたことが、私の心を何度も救ってくれた。一度ならず、二度までも……それだけで、もう十分だったの」
夏の終わり、百合子は蛍火のように黄泉へと旅立った。もっと早く気づいていればという悔いは、荒れ狂う波のように祐介を打ちつけた。風が頬をかすめるたび、彼女の気配は少しずつ遠ざかっていく。だが、その姿は深く胸に刻まれていた。
祐介の部屋には、百合子が贈った写真が残っている。防波堤に並び、肩を寄せ合って笑うふたり。裏にはメモ書きがあった。
「今日も祐介に会えて嬉しかった。……言えなかったことがあるの。ごめんなさい。ずっとずっと祐介のことが好きだったのかもしれない。だけど、好きって言葉だけじゃ足りなかった。
その分だけ健太郎のことも少しずつ心の中で居場所を見つけていったの。人はね、誰かの記憶の中で生き続けることで本当の“生”を持つのかもしれない。だから私は、あの夏の光の中で祐介の心に生き続けたいの」
震える手で記された文字は、確かに命の鼓動だった。百合子は今も祐介の中に生きている。
それから半年が過ぎた。祐介は中華街の小さな居酒屋で酒を口にしても、心は空洞のままだった。彼が出版社を辞め、健太郎と同じく子どもたちと向き合う道を選んだのは、自然な流れだった。まるで恋敵だったはずの男と、どこか似ていたのかもしれない。
ある日の保育園で。
子どもA「ねぇ先生、星ってさ、死んでも光ってるのかな?」
祐介「ああ……そうだよ。光は誰かの胸にずっと届き続けるんだ」
子どもB「どんなかたちで?」
祐介「たとえばね、大切な人が『きみといると楽しいな』って教えてくれた言葉や、一緒に笑った顔。そういう瞬間が心の中に残って、お星さまになるんだよ」
子どもA「ふうん……。じゃあ先生の星は誰?」
祐介「……百合子という人だよ。僕の心の空に、ずっと光ってる」
子どもB「僕も誰かの星になれるかな?」
祐介「きっとなれるよ。君の光が、誰かの心に届く日が来る」
姿は消えても、百合子の光は今も祐介を照らしていた。
今日も祐介は七里ヶ浜の防波堤に立つ。潮風に髪をなびかせた百合子の姿を思い浮かべ、波のざわめきにあの日の記憶が触れてくる。
「百合子……聞こえているかい。君が残してくれた言葉は、今も僕の胸の奥で脈打っている。『生きる』って、きっとこういうことなんだろうな。だからもう、涙だけで君を思い出すのはやめるよ。君の笑顔と一緒に、生きていくから」
夜空に星が瞬き、祐介は声を上げた。
「ありがとう。百合子が残した想いが、今の僕を支えている。だから大丈夫。僕はもう歩いていける」
そのとき、風の中にやさしい声が響いた。
「いってらっしゃい、祐介」
祐介はもう振り返らない。七里ヶ浜に刻まれたのは「さよなら」ではなく、「ありがとう」という約束だった。
──終幕──
耳をすませば、「君との夏」がそこにいた 神崎 小太郎 @yoshi1449
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