第七話 百合子の日記

 百合子がこの世を去ってから、季節はひと巡りしていた。秋風が街をすり抜け、紅葉が燃えるように色づいても、世界の輪郭はどこか霞んでいる。

 音も匂いも温度さえも、すべてを失ったかのような世界で、祐介だけが寂しげに時間の底へ沈んでいた。


 短くスマホの通知音が鳴った。画面には百合子の母親からのメール――


「どうしても片付けられない娘の部屋に、あなた宛てのものがあるの……」


 託された鍵を握りしめ、祐介は部屋の前に立つ。軋む音とともに扉を開けると、外の小鳥のさえずりと、窓から吹き込む風にカーテンがさらさらと揺れた。


 そこは時が封じ込められたままの部屋。レース越しの傾いた陽射しが床の上で影と光を絡ませ、片隅のガジュマルの鉢植えには小さな新芽が顔を覗かせていた――『幸せの精霊が宿る樹』。


 ふと鼻先をかすめる、百合子の香り。洗いたての衣類に残る柔らかな甘い匂い。長く閉じられた本のページから漂う紙の乾いた匂い。ティーカップに残る紅茶の余韻。


 本棚に並ぶ児童文学書の背表紙に触れると、そこに百合子の指先がまだ残っているように思えた。


 その脇に置かれた小さな木箱。色あせた花柄の包装紙に包まれ、セロテープの端が少し浮いている。恐る恐る蓋を開けると、中には一冊の日記帳とふたつのヒトデ。七里ヶ浜の白い砂で拾った、夏のかけらだった。


 日記の表紙には手書きの文字。


「私だけの、忘れたくないひとへ」


 祐介はひとりしゃがみ込み、震える手でページを開いた。そこには百合子の声が生きていた。


「一月十五日。今日は成人式。夢に健太郎が出てきた。あの頃のまま笑っていた。でも目が覚めたら、私はひとりだった。……『健太郎なんて、もう帰ってこなくていいよ』――あれは、強がりじゃなかったのかもしれない」


「二月二十日。誰かと話すのが怖くなっていた。けれど、あの幼なじみの声だけは違った。その声に触れるだけで、置き去りにした自分が少し戻った気がした」


「三月二十日。桜の蕾が膨らみ始めていた。カップルが肩を並べて歩いている。もう恋なんてしたくないと思っていた。でも、ふと重なった手の温かさに、それを知らなかったことに気づいた」


「四月五日。桜の花びらが雨に打たれて、川面を筏のように流れていった。その儚さがあまりにも切なくて、思わず笑ってしまった。いなくなったことのほうが、きっと罪なのだと思ったから」


「五月十一日。今日はお母さんの日。たとえ『今』が満たされなくても、私は確かにここに、生きていた。いつか結婚して、子どもを授かって、母になりたい。けれど、それは夢のまた夢のような話……」


「七月七日。七夕の空に星はなかった。それでも短冊に願いを込めた。『もっと幸せな日が来ますように』」


「七月八日。もし明日が来なかったら、私はあの人に何を伝えただろう。『ほんの一瞬でも、私を覚えていてくれますように……』」


「七月九日。カフェで元カレの話をした。祐介は何も言わず聞いてくれた。そしてこう言った――『湘南の海に行こう』って。そのひとことで私は救われた」


「七月十一日。今日は、なぜか筆が進んだ。晴れ間が似合う湘南の海。白砂が蒼に溶け込む七里ヶ浜にも夏が訪れた。あのときの、あの場所の海星をもらい……気づいたら、祐介は『彼』になっていた」


「八月十五日。大切なお盆の夜。夕顔の浴衣を着て灯籠流しに出かけた。祖母を見送った夜、ふたりの姿を空の誰かに見せたかった。泣いてしまった私に、彼はこう言った――『君の祈りを感じてるよ』」


 ページをめくるごとにインクは滲み、涙の跡が幾筋も走っていた。最後の記録は八月三十日。嵐が来る前の日。

 ――きっと、「あの人」も「彼」も全部、祐介自身だったのだ。


 喉が詰まり、言葉にならない。こぼれた涙が床を濡らし、それだけが「もう彼女はいない」という現実を突きつけていた。


 だが、最後のページの裏に、小さなメモが貼られていた。走り書きの、力を振り絞った最後の一文。


「ありがとう。生きていてよかった。初恋ではなかったけれど、遅咲きで紡いだ――最後の恋が、祐介で……本当によかった」


 祐介の胸の奥に、静かな灯が点った。百合子は最後まで祐介を想っていた。


 だから今なら言える。


 ――百合子。君のことを、一生忘れない。


 窓辺のカーテンが風に揺れ、晩夏の波音が遠くから寄せては返す。その向こうで、小さな鈴の音が――ちりん、と響いた。



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