第六話 色褪せない時
幸福の瞬間は、いつも少し遅れてやってくる。なのに、不運は唐突に姿を現す。
なぜだろうか。目の奥に焼きついたのは、見ていられないほど残酷なニュース映像だった。運命の神が無慈悲にスイッチを切り替えたように、祐介と百合子の穏やかな日々は、まるで薄いガラスが砕けるように断ち切られた。
幸福をもたらす女神など、最初からいなかったのかもしれない。彼らの前に現れるのはいつも、冷たい影をまとった使者ばかり。現実という刃が、百合子の願いを、乾いた葉のようにもろく削ぎ落としていった。
テレビに映し出されたのは、アフリカの大地。オアシスの畔に人々が寄り添う小さな集落。ひび割れた大地に痩せたサボテンが立ち、子どもたちはアフリカを象徴する赤いインパチェンスの花を胸に抱え、言葉少なに列をなしている。
「国境なきNGOの井戸掘りプロジェクトに参加していた日本人青年のひとりが、現地での武装集団による銃撃事件に巻き込まれ命を落としました」
次の瞬間、画面いっぱいに遺影が映し出される。そこにあったのは、百合子がかつて深く愛し、長く行方を追い続けていた健太郎の姿だった。彼はアフリカの高く澄み渡る空の下、現地の人々に慕われていたのだろう。映し出された笑顔は懐かしく、どこかたくましかった。
「……けん、たろう……?」
百合子の声にならない叫びが胸の奥でせり上がり、押し込めていた感情が氷塊のように破裂する。その心は少しずつ崩れていった。それ以来、彼女は笑わなくなった。
涙も言葉も消え、押し込めた想いが心の限界を超えたのだ。幸せの終わりは、嵐のあとの海のように、冷たく静まり返っていた。
台風を思わせる大雨の夜、百合子は祐介との夕食後、迷うように言った。
「祐介、もうここでいいの。アパートはすぐそこだから……」
ためらい、小さく息を吐き、百合子は赤い傘をさして小走りで立ち去った。監視カメラには、交差点で空を仰ぐ姿が映っている。
その直後、悪夢が現実に滲み出す。暴走トラックが赤信号を嘲笑うように突入し、黒い影となって交差点を貫いた。
雨がざあざあと地面を叩き、風がひゅうと唸りを上げる。
ガシャーン――金属の衝撃音が夜を切り裂いた。
赤い傘が宙を舞い、くるりと回転しながらアスファルトに叩きつけられる。ブレーキの悲鳴と遠ざかる尾灯。その間にも、雨音は絶え間なく続き、それが彼女の最後の鼓動のリズムだったことを――祐介は、あとになって知ることになる。
交差点のざわめきが途切れた瞬間、時が止まった。通りすがりの誰もが黙り込む。
「百合子……!!」
なぜあの日に限って一緒に帰らなかったのか。悔やんでも戻らない過去。それでも胸の奥の問いは消えなかった。監視カメラの映像には、ぽつんと残された赤い傘が映っていた。信号が青に変わる直前、百合子は立ち止まり、遠い空を見上げていた。まるで過ぎ去った夏のかけらへ、手を伸ばすように。
次の風景は樹氷の森のように、限りなく冷たかった。氷の膜に包まれた静寂があたりを覆う。雑踏が虚無に変わり、風も人の気配も色を失った。耳の奥に響くのは、過去の祐介自身の叫び。曖昧な記憶の中で、その声だけが離れなかった。
「百合子……!!」
だが、彼女の心臓はもう動かなかった。
救急搬送の知らせは人づてに届いた。走って病院へ向かう途中、何度も願った。これは夢で、目覚めたら彼女が微笑んでいると。だが、それは遅すぎた。
重苦しい病室。百合子の身体は白いシーツに包まれ、深い眠りのような穏やかな顔をしていた。
「百合子……ゆりこ……お願い、返事してよ……!」
祐介の声は嗚咽に震えていた。けれど、彼女のまぶたは一度も、一瞬たりとも動かなかった。返ってきたのは、無音の沈黙だった。触れた肌に温もりはなく、風が通り過ぎたあとの記憶の残り香――戻れない時間の温もりだった。
「お願いだよ……まだ、何も伝えきれていないんだ……!」
けれど、百合子は何も言わなかった。微笑みを湛えたまま、祐介の知らない、遠い世界へ旅立った。
あの夏、百合子と出会ってから、祐介は何をしてあげられただろう。何も知らず、そばにいて、頼りない優しさを差し出しただけ。
そんな日々が、彼女の幸せだったかは分からない。それでもひとつ確かなことがある。百合子が愛したあの夏のすべてを、祐介は決して忘れない。
つぶらな瞳、透き通る笑い声、七里ヶ浜の潮風に揺れる髪――どれも、胸の奥で今なお生き続ける。
事故現場に残された赤い傘。その色は、夏の夕闇の中で揺れる灯籠の蝋燭と重なり合う。決して消えることなく、静かに祐介の心を照らし続けていた。
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