第五話 ひと夏の終焉

 月遅れ盆の夜、祐介たちが向かったのは、江ノ島を背景に富士山がそびえる、絵のように穏やかな入り江だった。湘南でも知る人ぞ知る名所、稲村ヶ崎。昼間の喧噪は消え、潮騒と夜風だけがその場を満たしている。


 音無川が海と溶け合う三角州の小さな公園では、灯籠流しの準備が整っていた。提灯の明かりに導かれ、故人を偲ぶ人々が川辺へ向かう。誰もが胸に亡き誰かの面影を宿しているのだろう。灯籠がひとつ、またひとつ川面に浮かび、引き潮に乗ってゆるやかに流れていく。


 おぼろな光を宿した灯籠は、河口で待つ回収舟へ向かう。水面に描かれる波紋は、過去へ消えていく記憶のように広がった。


 和紙越しの紅を帯びた蝋燭が波間に漂い、その灯りは、あの世とこの世のあわいをたゆたう魂の名残のように見えた。やがて、風も波も息を潜め、沈黙の中には祈りの気配だけが残る。


「……なんだか、切ないけど、きれいだね」

 夕顔の浴衣をまとい、背筋を真っ直ぐに伸ばす百合子の横顔は、壊れそうなほど繊細でありながら、凛とした美しさを湛えていた。


 波音がふたりの間の沈黙をなぞる。


「……今年は、おばあちゃんにも、私たちの姿を見せたかったな」


 その言葉に、胸の奥で波紋が広がる。彼女がどれほど祖母を大切に思っていたか、祐介は中学の頃から知っていた。


 お盆が近づくたび、彼女は祖母の好きだった撫子の話をしてくれた。その可憐な花を胸の奥で人知れず咲かせ続けてきたのだ。願わくば、その想いが祈りとともに届きますように――。


 係員の合図で、ふたりも灯籠に火を灯す。手を放すと、光が川面を漂い、河口へ向かっていった。見つめていると、此岸と彼岸、現実と幻の境が溶け合っていく感覚に包まれる。


「きっと、見てると思うよ。あの灯りの向こうで……」

「ありがとう、そうだといいのだけど」


 百合子はそっと微笑む。その笑みは、夏の風にほどけ、髪の一筋が祐介の肩をかすめた。祐介は祖母のすべてを知るわけではない。


 けれど、揺らめく灯籠の光が、その記憶を静かに呼び起こす。「生」と「死」に向き合うひととき。祈りと静寂だけが、この時間をやわらかく包み込んでいた。


「……ねぇ」

 彼女が細く温かな指で手を取る。


「こうして祈ると……胸の奥が少しだけ軽くなる気がするの。昔よりも、ほんの少しだけ、前を向いて歩けそうな気がする……」

 彼は頷き、その手を握り返す。言葉よりも先に、心が応えていた。


 草葉の陰から、ひとつ、ふたつ。季節外れの蛍が、灯籠に誘われるように夜空を舞う。その淡い光は、行き場を失った魂のように、いつまでもさまよい続けていた。亡き人を見送る灯と、今を生きる希望の光。稲村ヶ崎の夜は、過去と現在が交差する、夢幻のような気配に包まれていた。


 祈りの余韻を抱いたまま、ふたりはコンビニでアイスコーヒーを買い、土手の芝生に腰を下ろす。冷たいコーヒーが喉を潤す――まさかこのあと、思いがけない言葉を聞くとは思わなかった。


「祐介、ごめんなさい……。おばあちゃんだけじゃなく、もうひとり忘れられない人がいるの」

 波音のように揺れる声が、祐介の胸に静かなざわめきを呼ぶ。その感覚に導かれるように、彼は彼女を見つめた。


「元カレ……?」

「……彼の無事を、祈ってるの」


 その声に、祐介の胸がきゅっと縮んだ。彼の心のざわめきをよそに、川面ではふたつの灯籠が揺らめき、まるで祖母への祈りとともに、百合子の秘かな想いも水面を伝い運んでいくようだった。蛍の儚くも美しい光が、その道を静かに照らしていた。



「きっと、あの人も元気で、百合子の祈りを感じてるよ」

 それは祐介の正直な気持ちだった。彼女は頷き、目元に光を滲ませた。

「そうだといいな……」


 夜の稲村ヶ崎、川面にふたつの祈りが溶けていく。その夜を境に、彼女のまなざしは少しずつ変わった。届かぬ存在を偲びながらも、前へ進もうとする強さが芽生えはじめていた。


 晩夏の澄んだ鐘音が、遠く寺から響き、百合子の歩みをそっと促す。灯籠流しの会場を後にし、夜の帳が下りた坂道を歩き出す。潮の香りを含んだ風が、霧のように白い気配となって坂道を降りてくる。その気配に包まれながら、声なき祈りだけが静かに息づいていた。




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