第四話 汐風の羅針盤
波が穏やかに寄せては返す音が耳もとに届く。潮の香りが胸の奥深くまで静かに染み込み、あの夏と同じ風が今日も肌をやさしく撫でていた。
「……ねぇ、百合子。目を閉じて、風の音に耳を澄ませてみて」
祐介が静かにそう言うと、百合子は少し戸惑いながらも頷いた。
「……うん。潮の匂いも、風の音色も、幼いころの夏と変わらないね」
祐介はポケットを探り、そっと何かを取り出す。
「ほら……これを、見て」
小さな木箱を開ける音。掌に収まるその中には、純白のふたつの「海の星」が寄り添っていた。
「七里ヶ浜で見つけたこのヒトデ、サンゴ礁で育ったんだって。サンゴは海水を清める宝石で、たくさんの命が生まれる『ゆりかご』なんだ。きっとこのヒトデも、そんな宝石に囲まれて光を放っていたんだろうね」
百合子は息をのんで小さく頷いた。
「すごい……ヒトデって、サンゴの夢のかけらみたい。でも、生きてるんだよね。ちゃんと呼吸してるって……なんだか不思議」
「そうだね。ヒトデは波にゆらゆら乗って、ゆったり旅をするんだ。まるで『波乗りジャーニー』みたいだね。ダイヤモンドみたいに高価じゃないけど、僕にとっては、何にも代えがたい星なんだ」
百合子はそっと囁く。
「……忘れたと思ってた、あの夏のヒトデ。こんなにも長く……胸の奥にしまってくれてたんだね」
波が少し高く押し寄せる音に混じって、祐介は言葉を続けた。
「うまく言えないけど……君の中で、ずっと輝いていてほしかった」
ふたりの手がそっと重なり、百合子は小さな命のかけらを胸もとへと抱きしめる。
「……かわいいね。まるで、夜空から滑り落ちた小さな星のかけらみたい」
風鈴の澄んだ音色が風に乗り、百合子はぽつりと呟いた。
「こんなふうに寄り添ってるヒトデのカップルって……なんだか、私たちの心そのものみたい」
祐介は少し声を潜め、そっと言った。
「これは……僕が君を、忘れたことがない証だよ。ずっと、心の中で光ってた」
波と風の音が重なり合う中、夕陽が百合子の横顔にやさしく滲む。そのまなざしには、痛みを超えた、かすかな希望が灯っていた。
「祐介……どうもありがとう。けれど……ごめんね。まだ、うまく答えられないの。それでも、このヒトデは大切にする」
「うん。それだけで、十分だよ」
さざ波が寄せては返す音の中、眠っていた恋がゆっくりと芽吹き始める。ふたりの歩みは、確かに重なり始めていた。
百合子が少し震える声で言った。
「……ねぇ、祐介。もう少しだけ、こうしてていい?」
「もちろん」
ふたりの影が砂浜にゆっくりと重なり、百合子の髪が風に舞い、そっと祐介の肩をくすぐる。
ふたりの時間が渚に静かに溶け込み、潮の香りと彼女のフレグランスが胸を満たした。夕陽が烏帽子岩の向こうに沈み、空と海が茜色から紫紺へと溶けていく。その光景は、胸の奥に深い感動を刻む。
百合子がしみじみと言う。
「このヒトデ……ね。ダイヤモンドよりも、ずっと神秘的。あなたの想いが、ちゃんと届いた気がするの」
風が通り抜け、彼女のまなざしには過去と向き合う希望の光が宿っていた。微笑みに涙の影はなく、寄せては返す波の音が、心地よい潮騒となって沖へと遠ざかっていく。
夜の帳に虫の声が溶け込み、祐介は思う。
――夢はいつもすぐそばにあった。ただ、気づかなかっただけだ。今、ようやくその夢に触れた気がする。
紫陽花が咲き誇る石畳の坂道に、ふたつのヒトデの白い輝きが今日という特別な一日を迎え入れていた。日が沈み、幻想的な『だるま夕日』が水平線に浮かぶ。
沈む夕陽がふたりの影を長く伸ばし、胸に深い余韻を残す。無言の想いがそこに寄り添い、潮の花が泡沫となって残るように、遅咲きの想いも少しずつほころび始めていた。
やがて空と海が紫紺に溶け合う頃、月明かりが海面に細い道を落とし、ふたりは静かに車に乗り込んだ。
夜の道を走り出す。やがて海面を朝焼けがやさしく照らし、彼らは初めての夜明けを迎える――それは、かけがえのない始まりの風景だった。
夜空には一番星がひとつだけ輝き、生まれゆく朝に、誰かの名前を風がそっと囁いているかのようだった。
このひとときの物語が幕を閉じても、夢の余韻は潮風のように心に残り続ける。遅咲きの恋は、今、確かに動き出したのだから。
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