第三話 君と風の記憶
友人から借りたビートルは、黒光りする丸いボディをしていて、まるで時代に取り残されたカブトムシのようだった。
祐介と百合子はおんぼろで気まぐれな外車に乗り込み、国道134号線を南へ向かってひたすら走った。
ブルルル……エンジンがうなり、黒煙を吐きながらも、車体の軋む音など気にならなかった。ただ一刻も早く、湘南の海に辿り着きたくて、胸がはやるばかりだった。
「早く、海に着きたいね」
百合子は小さく頷いた。潮の香り、波音、そして夕焼けの光に包まれることを、ふたりとも待ち焦がれていたのだ。
ヒュゥゥ……窓を通り抜ける風。古びたレザーシートの感触が、どこか懐かしく、心を静かに落ち着かせる。
七里ヶ浜の沖に、サーファーたちの守り神のように烏帽子岩がぽつんと浮かぶ。柔らかな陽射しが祐介たちの肩をやさしく包み込んだ。白波が岩に弾け、黒髪を撫でる潮風。気まぐれに響くエンジン音が、胸の奥に眠る記憶を揺らす。
青空を漂うひつじ雲は、渦を巻くように形を変え、汐風に紛れて音もなく消えた。そのゆるやかな移ろいは、遠い未来を指し示す道標のようだった。
ザァーザァー……遠くから響く潮騒。
「ねぇ、覚えてる? この三日月みたいな海岸線」
「もちろん。忘れようがないさ」
「紫陽花の葉に朝露が光ってた。あの景色、今も変わらない気がする」
波のリズムに揺れる百合子の心。祐介のまなざしに気づいたのか、ゆっくりと顔を向ける。
シャパーン、シャパーン……波音が頬を撫でる。
その瞬間、彼女らしい昔の微笑みが、ほんの少し戻った。うららかなぬくもりが、百合子を包む。祐介は胸の奥で絡まっていた想いがほどけていくのを感じた。守りたかったものが誰か、ようやくわかった――百合子だった。
ふわん……潮騒に混じって、風が凪ぐ。沈黙がふたりの距離を縮める。
「子どものころ、海の近くで暮らしたいって思ってたの。夢みたいな毎日がそこにある気がして……黄昏どきの海って、この世のものとは思えないくらいステキで……時間が止まってほしいくらいに思ったの」
その声は潮騒に溶けるほど淡く短いもの。でも、祐介の胸に深く届いた。
「でも今は、それがずっと遠くにある気がするの。夢って夜空のどこかにあるのに、なぜか見えなくなってしまうんだよね」
胸に沁みる言葉。百合子は、かつて手にしたはずの夢を、知らぬ誰かにそっと預けたまま、遠く遠くに置き忘れてしまったのかもしれない。その事実が、祐介の胸の奥で小さな波を立て、じわじわと切なさを広げていく。
「けれどさ……流された夢も、誰かが拾ってくれることって、あると思うんだ」
ふわり……潮風が髪を揺らす。波音が指先まで染み渡るように寄せる。百合子の瞳が赤く染まり、涙の気配を秘めながらも、まっすぐ祐介を見つめる。
「そんなふうに言ってくれたの、祐介が初めてだよ」
その声が胸を震わせた。遅咲きの恋が、ようやく蕾を開いた気がした。
リーンリーン……ザザー……虫の声と波音が静かに重なる。
「祐介……ありがとう」
その言葉に、潮の匂いを含んだ温かい風が揺れる。
彼女は再び水平線を見つめた。遠くに霞んでいた水平線が、手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じられた。その儚げな横顔には、まだ消えない希望の光がきらめき、祐介の胸にそっと温かな波紋を広げていく。
祐介は頷き、防波堤から立ち上がり、そっと手を差し出す。ためらわず、百合子はその手を受け取った。
ふわっ……ひゅう……風がふたりの間をすり抜け、懐かしい記憶の波をそっと揺らす。
「僕たちの夏の物語は、まだ終わらない。時を越えて、あの始まりの瞬間から、もう一度紡いでいかないか!」
潮風が胸の奥にさざ波を立てる。百合子の深い瞳に心を揺らされながら、祐介は言葉を探し、ようやく口にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます