第二話 玻璃細工の恋
ガサゴソ……古びた段ボールを持ち上げる音。窓の外からは、遠い波の音だけが、サラサラと届いている。
新社会人になって、広めの部屋へ引っ越す準備をしていた二十二歳の誕生日。段ボールを動かした瞬間、ひらりと一通の手紙が床に舞い落ちた。
「……ん?」
埃をかぶり、黄ばんだ封筒には懐かしい丸文字――「斎藤百合子」。差出人は中学時代の自分だった。
パリ……ペリペリ……封を切る音。
あの夏に、伝えそびれた言葉がある。何を百合子に伝えたかったのか、もう思い出せない。それでも胸の奥がふっと疼いた。
さらさら……レースカーテンが揺れる。湘南の海から吹き込む風が、潮の香りを運んでくる。遠く、澄んだ「龍恋の鐘」の音が、風に溶け込み波間を越えて空の彼方へと響き渡る。つき合い始めたばかりの恋人たちがふたりで鳴らすと、永遠の愛を誓える――そんな伝説の鐘。
「……なぜだろうか。懐かしさが胸に広がって、忘れていた記憶の扉が、静かに軋みを立てながら開きはじめた」
サブゥンザザァー……波の音。潮風が百合子の名を呼ぶように響き、潮騒に誘われて、あの夏の記憶がゆっくりと浮かび上がる。
ガララ……ン――回想の扉が開く。
カナカナ……ミーン……ミンミンミン……セミの合唱がにぎやかに響き、ザブン、ザブン……波音が近づく。
中学の授業帰りの午後。防波堤に腰かけた祐介と百合子は、白波のざわめきに耳を澄ませていた。
「我が家に帰るのが、なんだかもったいなくてさ」
キャハハッ、フフッ――無邪気な笑い声が波音に溶ける。風がさらり、さらりと頬を撫でる。海はどこまでも青く、風は若さをやさしく包んでいた。
「江ノ島まで、一緒に乗らない?」
父の友人に誘われ、初めてヨットに乗せてもらった。帆いっぱいに風を受け、舳先が波を切る。海原は光を反射し、波の音が、心を洗い流すように静かに響く。
「自由に空を舞うカモメたちが、彼女の心をくすぐったのかな。あの時、君は笑っていたのか、泣いていたのか……」
そして、七里ヶ浜で降ろしてもらった。あの表情だけが、今も涙とともにまぶたの裏で揺れている。
場面は戻り、昼下がりのアパート。未投函の手紙を前に、記憶の波がゆっくりと押し寄せる。
「過去に沈んだものが、全部消えたわけじゃない」
カチッ、タップタップ……。スマホを握る手が、少し震える。指先に伝わる温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。無意識のうちに打ち込んだ「百合子」という文字。画面を見つめるだけで、心臓が跳ねた。緊張と期待に押されながら、ぎこちなくも、久しぶりの再会の約束を確かに交わした。
浜風がそっと吹き抜ける窓辺のカフェ。彼女は虚ろな瞳でこちらを見つめる。
カラン――氷が弾ける音。グラスの結露が指先をつたう。その雫が、言葉にならない哀しみを映していた。
「昨夜も、眠れなかったんだろ?」
しんとした空気。
「うん……」小さく微笑む百合子。
半年が過ぎた。何度も会い、言葉を交わした。それでも心の距離は、満ち引く潮のように遠かった。
「僕はずっと、幼なじみの仮面をかぶっていた。でも、本当は……。彼女を初めて見たあの日から、想いは始まっていたはずなのに」
初めての、壊れやすくて、でもひときわ光る、ガラス細工のような恋。
ざわ、ざわ……しゅるる、シュゥゥ……風と潮騒が、胸の奥をそっと揺らす。
「もうあの男からは、連絡が……来ないと思う。百合子も、わかってるよね?」
焦りと嫉妬が滲む言葉。
「……うん。でも、期待してしまう自分がいるの」
その言葉が、鋭く胸を貫いた。
ドクン、ドクン……心臓の鼓動。
「百合子、相談がある。もう一度、湘南の海へ行こう」
ざざーっ、バシャン……パシャ……白い荒波が寄せる。
波打ち際で拾った貝殻に触れるたび、あの夏の甘くて幼い記憶が胸の奥からそっとよみがえる。
ポロン……チャララ……ピアノの音が、静かに響く。
「――遅咲きの初恋が、今、はっきりと目の前に花開いたんだ」
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