第一話 ヒトデの約束

 ゴトン、ガタン。通勤電車が鉄橋を渡るたび、車輪が鉄を叩く音が響く。わずかに揺れる満員の車内。人いきれとくぐもった話し声が重なり、ざわざわと朝の街へ流れていく。


 野々村祐介は、今春大学を卒業したばかりの二十二歳。


 恋人もいない空白の日々に、心の乾きを覚えることもあった。毎日朝晩、満員電車に揺られるたびに、仕事で耳にする『活字離れ』や『出版不況』という言葉が、鉛のように重く胸にのしかかった。


 それでも、祐介にはずっと手放せないものがあった。


 胸の渇きを潤す、一枚の写真。汐風が黒髪をくすぐる湘南・七里ヶ浜。稲村ケ崎から江の島へ続く白い渚には、雲ひとつない空が広がっていた。浜辺で青空を見上げるひとりの少女。その姿を捉えた一枚は、忘れがたい時間を閉じ込めた宝物だ。


 キーィィィ……ギギギ……。突然、電車が急停車する。吊り革を握る手にじわりと冷や汗が滲んだ。ほんの一歩違えば、自分がそこにいたかもしれない。そんな冷たい予感が背筋を駆け上がる。


 吊り革の丸い輪っかは、波間を漂う浮き袋のよう。胸の奥のさざめきがふとやわらぐ気がした。漏れそうになる愚痴を、祐介は唇を結んで呑み込む。


 仕事はまるで、擦り切れていく戦場のようだ。横浜中華街の屋根に勇壮な龍の彫刻が舞う一角。小さな出版社で原稿の山に埋もれながら、祐介は今日も黙々と赤ペンを走らせている。本を読むことだけが、彼自身を繋ぎ止めていた。


 売れない作家たちの描く夢に囲まれても、彼の想いは薄紙のように頼りない。指先で触れれば破れてしまいそうだ。芥川賞や直木賞を目指す作家たちの光は、届きそうで決して届かない。祐介は圧倒され、言葉を失い、自分の存在が霞んでいく感覚に囚われていた。



 カナカナ……。ヒグラシの声が響き、風が吹き抜ける。パラリとページをめくる音が、夏の記憶を呼び覚ます。


 斎藤百合子――幼い頃から、いつもそばにいた特別な人。


 赤いリボンが揺れるたび、黒髪は朝陽に透ける絹のようだった。澄んだ瞳がこちらを見つめ、えくぼが笑顔の余韻を残す。同い年であまりにも近すぎたため、異性として意識することはなかった。しかし歳月が流れ、ふたりの間からは海の音色が遠ざかり、かわりにすきま風が吹き始めていた。


 百合子は今、児童文学の翻訳に取り組みながら、文学広場の催しを全国各地で開いている。その背中を追いかけるには、祐介はまだ自分の影に怯えていた。


 クゥー、クゥー。遠くでカモメが甘やかに鳴く。潮風が頬をそっと撫で、ジリジリとアブラゼミの声にカナカナとヒグラシの声が重なり合う。その音色に、忘れかけていた百合子との懐かしい夏の記憶が立ち上る。


 笑いながら小さな波に揺られる祐介と百合子の影。それは、幼い日のふたりをそのまま映していた。


「ああ、懐かしいな。本当にあざやかだ」


 沖から吹く風が頬をさらりと撫でる。青春の輝きは、とっくに置いてきたはずだった。けれど、胸の奥でその残響がかすかに揺れている。


 ボードを抱えて戻るサーファーたち。赤く滲む月、江の島の灯、空にぼんやりと瞬く星たち。それらが、あの夏の記憶を少しずつ呼び起こす。


 まだふたりが無邪気で幼かったころ。沖への流れが早く、泳ぐことが禁じられた海を背に、波と戯れた昼下がり。


 百合子「また、大きな波がくるよ……! きたぁーっ! わっ、こわい! あーっ、足が、濡れちゃった~!」

 祐介「うわっ、冷たっ! ちょっと、待ってよ! 百合子、逃げるの、早すぎるってばー!」


 彼らの笑い声が弾け、水しぶきが跳ねる。


 百合子の驚く声「わああっ、クラゲ!」、遠くで響く波音「サラサラ……」。潮風が笑い声をさらい、雲ひとつない空へと舞い上がる。


 波と戯れ、砂にまみれたふたりは、防波堤に腰を下ろし、遠くを見つめた。


 ポンッ! ラムネの蓋が弾け、カランコロン……コロコロ……とビー玉が転がる。彼らの目が丸くなる。甘いサイダーが喉を滑り、胸の奥へ沁みていく。


 茜色に染まり始めた空を見上げ、百合子はそっと両手をすぼめた。その掌には、波が残した小さなヒトデ。まるで宝物を扱うかのように優しく包み込むと、温かな命のぬくもりが、彼女の胸にじんわりと満ちていった。


「これ、私たちだけの秘密の約束だよ。ヒトデをずっとお守りにしようね」


「……うん、わかった」


 白砂に描いたふたりの夢は、波にさらわれて消えた。それでも、百合子が託したヒトデだけは、今も引き出しの奥で眠り、あの夏を抱いている。


 波にも風にも、それぞれ違う色と匂いがあり、音もまた少しずつ異なることに気づいたのは、あの夏のことだった。


 引き出しの奥から現れたふたつの小さなヒトデが、遠い記憶を静かに呼び戻す。汐風に乗って胸へ届く、言葉にならない想い。忘れていた夏の鼓動が、ゆっくりと脈打ち始める――そんな予感に包まれていた。


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