第29話「目睹」
■2023年6月8日 1:00 新宿区内藤町/レコーディングスタジオ
五人の少女はレッスンルームのスピーカーから流れる楽曲のリズムに合わせて腕を振り、足を上げ、小気味良くステップを踏んでいる。
その日、西新宿ゆるふわ組のメンバーは新宿区内のスタジオで自主レッスンをしていた。
ニシユルの楽曲やダンスにはパフォーマンス難度の高いものが多かった。踊りながら歌うには、それなりの鍛錬やセンスが必要だったが、彼女たちはリップシンクに頼ることなく生歌での歌唱を徹底していた。そうしたニシユルのストイックな姿勢は、目の肥えたアイドルファンからも高く評価されていた。
歌割りの配分は曲によって変わるが、楽曲の印象を左右するようなサビや決めのフレーズなど、一定以上の歌唱力や声量が必要となるパートの多くは菊池セイラと宝田舞に割り振られていた。そのためニシユルの半数以上の楽曲では、セイラと舞の二人が前列に並ぶフォーメーションが採用され、酒井紀香、渡辺蒔那、森高美穂の三人は後列からユニゾンやコーラスで楽曲を支えた。
レッスンルームにはアップテンポのEDMナンバー『ときめきの放課後』のバッキングトラックが流れている。この曲も基本的にはセイラと舞が前列に並ぶ楽曲だった。
その日のレッスンは前日の夜7時からスタートしており、メンバー全員が6時間以上におよぶレッスンで疲れ切っていた。
宝田舞も、ここ1時間ほどはダンスの流れと立ち位置を擦るだけの動きに終始していた。
舞が目の前の鏡で後列三人の動きを見るともなく眺めていると、左後方にポジションをとっていた美穂が足首をさすっている姿が見えた。
舞はダンスを辞めて美穂に声を掛けた。
「どした?」
美穂は練習用のスニーカーを脱ぎ、ソックスの上から右足の踝を触っている。
美穂の様子に気づいた紀香と蒔那もダンスを切り上げた。セイラだけがバックトラックに合わせて踊り続けている。
舞は渡りに船とばかりに捲し立てた。
「靴擦れか。こりゃダメだね」
舞の意図を察した蒔那も乗っかってきた。
「おお、こりゃまずい。靴擦れを舐めちゃだめだよ。今日はもう終わりにしよっか?」
美穂は笑いながら言った。
「まだ頑張らなきゃ。古いスニーカーも持ってきてるから履き替えてくる。みんなは続きやってて」
それだけ言い残して、美穂はサブルームの方に引っ込んでしまった。
当てが外れた舞は大きな伸びをしながらボヤいた。
「今日に限っては美穂もやる気だねえ」
紀香が被せるように言った。
「でも、ミーちゃんがあんなにやる気になるなんて。私、嬉しいな」
ニシユルのメンバーは基本的にファーストネームで互いを呼び合っていたが、グループのリーダーである紀香だけは各メンバーを公式ニックネームで呼んでいた。 宝田舞は「マイマイ」、 菊池セイラは「セラたん」、渡辺蒔那は「マッキー」、森高美穂は 「ミーちゃん」。ただ、そんな紀香本人は各メンバーから「リーダー」という役職名で呼ばれていた。
19歳の紀香はメンバー最年長者だったが、ロリーター系のタヌキ顔であり、グループ内でも「最年長なのに泣き虫のポンコツ」という愛されキャラ的なポジションを確立していた。
蒔那が額の汗を拭いながら言った。
「いつもは誰よりも先に美穂が根を上げるのにね。明日は雨でも降るかな?」
「みんなで目指してきたドームツアーだもん。ミーちゃんも本気になってるんだよ」
蒔那と紀香の会話を聞き、バックトラックに合わせてダンスの確認を続けていたセイラが口を開いた。
「そろそろ美穂にも本気になってもらわないと。あの子、まだ間違えてるよね。25曲のうち10曲もミスがあった。後列だったら目立たないと思ってるんだろうけど見てる人は見てるから」
紀香はセイラを諌めるように言った。
「ミーちゃんだって努力してるんだよ。それは認めてあげようよ」
セイラはすぐさま言い返した。
「結果が伴わない努力なんて意味ない。リーダーからもちゃんと言ってよ。一応、そういうのはリーダーの役目でしょ」
「そんなに言うならセラたんがリーダーやりなよ! 私、自分でリーダーやりたいって言ったわけじゃないもん…」
「葉月さんたちが任せてくれない。 “ニシユルはちんちくりんの19歳がリーダーだから面白いんだ” って。あの人たち、リーダーもキャラで選んでるから」
「酷い…ちんちくりんって…酷いよ。人を外見で判断しちゃダメ! セラたん、謝ってよ」
セイラと紀香の間に蒔那が割って入った。
「はいはい。そこまでそこまで」
彼女たちにとって、このようなやりとりは極々日常的なものだった。多くの場合、言い争いを始めるのはセイラと紀香、あるいはセイラと舞だった。それを上手く諌めるのはバランサーである蒔那の役割であり、気の弱い美穂は諍いの当事者になることも仲裁者になることもなかった。
二人の小競り合いを横目に部屋を出ようとした舞は、セイラに呼び止められた。
「ちょっと、どこいくつもり? 美穂も続きをしててって言ってたでしょ」
舞はセイラを振り返ることもなく返答した。
「トイレぐらい行かせてよ。もう膀胱がパンパン」
「舞、そういう下品な言葉使いやめて。あなたはアイドルらしさとか、アイドルとはどうあるべきかって考えたことある? アイドルはファンに夢を提供する存在なの。あなたにこの話するの何回目かな。いい加減にしないと…」
舞はセイラの言葉から逃げるようにレッスンルームから出て行った。
紀香がセイラに言った。
「セラたんの “ちんちくりん” だって十分に下品だよ。マイマイの “膀胱” と代わんないよ」
「はあ? 全然違うんですけど。それに私はメディアの前では絶対にそんなこと言わない。あの子、この前もラジオで膀胱がぁーとか、オシッコがーとかって騒いでた。そんな人間と私を一緒にしないで」
蒔那は二人の言い争いに呆れながら、ぼやくように言った。
「はいはい。そこまでそこまで」
「アイドルはファンに夢を提供する存在なの! だからトイレに行かないの! キュンキュンキューン!」
トイレで一人になった舞は、先ほどのセイラの口ぶりを誇張して真似てみた。舞はセイラの芝居がかった口調のモノマネを得意としており、時折ライブで披露してはファンの爆笑を誘っていた。ただ、セイラ自身は相当怒っており「二度とやらないで」と毎回のように注意を受けていた。
トイレを済ませた舞は廊下からサブルームを覗いた。サブルームには美穂がいた。
美穂はテーブルに各メンバー用のスポーツドリンクを並べている。ニシユルメンバーが愛飲するスポーツドリンクは事務所が特別に用意したものであり、メンバーごとに微妙に成分が異なっている。そのため間違って別のメンバーのドリンクを誤飲しないよう、それぞれのドリンクはメンバーのイメージカラーで薄く着色されていた。
美穂は薄いブルーで着色されたドリンクの蓋を開けている。それは舞用のスポーツドリンクだった。
舞はサブルームの扉を開けて美穂に声を掛けた。
「何してんの?」
美穂は驚いて飛び上がり、その拍子に舞のドリンクが入ったペットボトルを倒してしまった。すぐにボトルを戻したものの、中身の2/3以上はこぼれてしまっていた。
「舞かぁー。びっくりさせないでよ」
「ごめんよ。で、それ何?」
美穂は飴色の小さな小瓶を握っていた。中には粉のようなものが入っている。
美穂の顔からは尋常でない量の汗が吹き出していた。
「見ちゃったか…」
「うん。見ちゃったよ」
美穂は、舞に向かってちらりと小瓶を見せた。
「みんなには言わないで。これをドリンクに入れて飲むと次の日に疲れを引きづらないの」
「次の日に疲れを引きずらない? 何か怪しいなあ」
「私、明日もたくさん練習しようと思ってるから…」
「じゃあ、みんなでそれ飲んでみようよ」
「ダメダメダメ。みんなに言ったらIshtarで事務所や葉月さんに報告されちゃうから。また怒られちゃうでしょ。指示されてないものを口に入れるなって」
舞はニヤニヤしながら美穂に提案した。
「そっか。じゃあさ、ワタシらだけでそれ飲んじゃおうよ!」
「ダメダメダメ。みんなで飲むことに意味があるんだから。あと5、6曲でセトリ終わりでしょ。これをみんなのドリンクに入れておいて、練習が終わったらみんなで飲むの。そうすれば明日もみんなで元気に練習できるから。みんなには絶対に言っちゃダメだよ」
「ふーん。まあ、美穂がそこまでいうなら付き合うけどさ」
「ふぅ。やっぱり舞は優しいね。世の中の人たちみんなが舞みたいだったらいいのに」
「何言ってんだか。じゃあ、後もう少しだけ頑張りますか。あーあ、ワタシ太腿もふくらはぎもガタガタだよ」
「ありがとね、舞」
舞は、このときの美穂の顔をいつまでも忘れることができなかった。
お前の青春なんか知らない 有頼澤 光 @youdou8383
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。お前の青春なんか知らないの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます