第27話「長野」
■2023年8月1日 1:00 東京都内某所/前田邸
「ふーん。長野にねえ」
「ちょっとだけ仮眠して、朝一で行くって」
前田敦士はタオル地のパジャマを着てリビングで寛いでいた。
「エリーちゃんだけ置いてきぼりか。アイツらも冷たいねえ」
「私が断ったの! 一緒に付き合ってやる義理なんかないんだから」
「そっか。でも、エリーちゃんがこんなに素直だなんてビックリしたよ。結局オレんところに来てくれるなんてさ。いつまでも子供だと思ってたけど、もう高校二年生だもんな。まあ、なんだなあ。オレはそれなりに心得ているから安心していいよ。もちろん松浦先生には内緒に…」
エリーは自分が出せるもっとも低い声で前田に警告した。
「勘違いしてるみたいだけど、アンタに聞きたいことがあったから寄っただけ。用が済んだらすぐに帰るから」
「あれぇ、そうなの?」
エリーは改めて前田に尋ねた。
「ねえ、長野には何があるの? ブレインランドの社長はアイドル養成所だって言ってたけど…アンタ、なんか知ってるでしょ」
前田は電子タバコを弄りながら言った。
「エリーちゃんのママもそこにいたんだろ? 長野にさ」
「ママが?」
「あ…そこまでは聞かされてない?」
エリーは前田に詰め寄った。
「やっぱりアンタ、いろいろ知ってるんでしょ? 言いなさいよ、全部」
前田は両手を挙げて降参するようなポーズを取った。
「言えない言えない。オレからは言えない。今度はママから怒られちゃう」
「ママ?」
「オレね、今、エリーちゃんのママからお仕事もらってるの。結構大事なクライアントさんなの。怒られたら仕事もなくなっちゃう。だから勘弁して」
「ママがあんたに仕事を? そんなわけない! ウチのママは…」
前田は何かを誤魔化すかのように半笑いで言った。
「その辺はちょっとね、いろいろと事情があるんだよ」
「そのこと、お爺ちゃんは知ってるの?」
「うーん、松浦先生は知らないと思うな」
エリーがスマホ手に取り、どこかに電話を掛けようとしている。
前田は狼狽えた。
「ちょっとちょっと、やめてよ、エリーちゃん何してんの」
「ママに聞こうか。それともお爺ちゃんを呼ぼうか。アンタはどっちがいい?」
* * *
■2023年8月1日 10:00 長野
その部屋の両脇には何台もの化粧台が並んでおり、舞台やコンサートホールの楽屋を思わせる雰囲気があった。ただ、室内にはそこはかとなくカビ臭さが漂っており、長年人の手が入っていないことも察せられた。
葉月里音は、その部屋の中央に置かれた埃っぽいテーブルを挟んで宝田舞と対峙していた。
「昨日はごめんなさい。でも、あなたたち暴れるから」
葉月は手元のノートPCを操作しながら昨日の秋葉原での振る舞いを謝罪した。
「ワタシはいいです。それより南野は? 男の人に殴られまくってたけど」
「あなたと一緒にいた男の子ね。無事よ。もう家に帰ってもらったわ」
「そっか。で、ここはどこ? 新しい病院?」
葉月は顔を上げて答えた。
「長野と群馬の県境近くの山の中。私もここに来たのは初めて」
「え? 何それ? それに、ここ、ちょっと気味が悪い」
「そうね。あまり気持ちの良い場所ではないわね」
葉月は大きめのトートバッグから2本のミネラルウォーターを取り出し、テーブルに置いた。舞はペットボトルの蓋を開けながら礼を言い、勢いよく水を飲んだ。
「まだ思い出せないのね。私のことも、ニシユルのことも」
舞は悪びれもせずペコリと頭を下げた。
「もうすぐここに細川さんが来るわ」
「え!? 細川さん?」
「そっか。やっぱり細川さんのことは覚えているのね」
* * *
■2023年8月1日 11:00 長野
細川文雄の運転する白い車は、粒の粗い砂利道の上を何十分も走った末に、長野の山間部にある施設に到着した。
施設の入り口には「私有地につき立入禁止」と書かれた錆だらけの看板が立っていたが、施設の敷地と外地を隔てる蛇腹式の横引きシャッターが開いており、その隙間から駐車場に停まっているシルバーのワゴン車が確認できた。一昨日、武蔵ノ宮病院で見た車と同じものだ。葉月里音たちはここにいる。
細川が藤本美喜雄、安倍冬美と一緒に東京を出発したのは朝の4時であり、高速道路は空いていた。一般道に降りた後もしばらくは順調だったが、国道を外れてからは車一台が何とか通れるような未舗装の道を走らざるを得なかった。
細川の頭には、何度も「大泉京子に騙されているのでは」というネガティブな考えが過ぎった。大泉京太郎がこんな辺鄙な場所にアイドル養成所を作っていた理由も謎だが、数十年前に放棄された山中の施設で舞にライブをさせるという京子やブレインランドの目的もいまいちはっきりしない。無観客のライブ配信であれば都内でいくらでもできるはずだ。
車から降りた冬美は落ち着かない様子で正面に見える建物群を見つめていた。
「何だか…学校みたいですけど」
もともと細川は冬美を同行させるつもりはなかった。ただ、冬美からどうしても一緒に行かせてほしいと懇願され、美喜雄と共に彼女を連れてくることになった。冬美は細川の車に乗ってしばらくの間、泣きながら謝り続けていた。舞を外に連れ出したにも関わらず、アルバイトを理由に陽康一人に舞のことを任せてしまった。二人がいなくなったのは自分の責任だと言い、泣きじゃくっていた。
細川は冬美や陽康を責める気にはならなかった。逆に「申し訳ないことをした」とすら感じていた。伊豆高原の松浦邸へ向かう際、舞の世話を二人に任せたのは他の誰でもなく細川自身であったし、行きがかりとはいえ、今回の件に一般の高校生である彼らを巻き込んでしまったことに負い目を感じていた。
駐車場の正面にある建物の入り口から二人の男が出てきた。二人はこちらに向かって早足で歩いてくる。
一人は大柄でサングラスを掛けており、もう一人は中肉中背。武藏ノ宮病院で葉月と一緒にいた男たちだ。細川の体は緊張でブルッと震えたが、サングラスの大男は口元を緩めて笑っていた。
「細川さんですね? 広末と申します。先日はどうも」
細川は黙って頭を下げた。
「あんたが病院の駐車場で撒いた白い粉ね、クリーニングしても完全には落ちないって言われたよ。結構高いスーツだったんだけどな」
細川、美喜雄、冬美の三人は、広末と名乗ったサングラスの大男に案内され、施設の中に通された。
細川は「広末」という名字の響きと大柄な体格に既視感を抱いた。ブレインランドの社員なのかもしれない。ただ、もう一人の男についてはまったく見覚えがない。整った顔立ちをしているが、目元や首元にそれなりの年齢を感じる。広末よりは間違いなく年上に見えた。
長い廊下の突き当たりにある部屋の前で広末がドアをノックすると、中から「どうぞ」と入室を促す女性の声が聞こえた。葉月の声だ。
広末がドアを開けると、そこにはコンサートホールの楽屋を思わせる広々としたスペースが広がっていた。部屋の中央にあるテーブルを挟んで葉月と舞が座っている。
アイスブルーのデニムとピンクのポロシャツ。昨日、上野や秋葉原を散策していたときとまったく同じ格好をしている舞の姿を見た冬美は、膝を落として泣き始めた。
「良かった。マイマイが無事で。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」
泣きじゃくる冬美のもとに駆け寄った舞は、冬美の背中を撫でながら言った。
「心配させちゃったみたいでゴメン。あの後、ちょっといろいろあってさ」
広末ともう一人の男は、葉月と二言三言交わした後、静かに部屋を出て行った。
冬美は涙声で舞に聞いた。
「南野先輩もここにいるんですか?」
「ああ、あいつならもう帰ったみたいよ」
「帰った!? マイマイを置いて帰っちゃったんですか?」
舞は頷きながら苦笑する。
「でもあいつね、結構根性あったみたい。その子に手を出すなーなんて言いながらワタシを守ろうとしてくれたし。まあ、結局はさっきの人たちにボコボコにされてたけど」
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