第26話「偏流」

「ママ、なんで行っちゃうの?」

「ごめんね。これからはパパの言うことを聞いていい子にするのよ。宿題忘れちゃダメよ」

「イヤだ。行っちゃイヤだ。ずっとママと一緒にいる」

「そんなこと言わないで…そうだ、これ着けてあげる。ママの大切なものよ」

「青くてキラキラしてる…女の子みたいだよ」

「でも、ママにはそれしか残してあげられるものがないの…ママのこと忘れないでね」




 * * *




「おい、それなんだよ」

「え?」

「右手のやつだよ。ちょっと見せてみろよ」

「…イヤだよ」

「いいから見せて見ろよ」

「何だよそれ? 男のクセに女みたいだな。お前、オカマなんじゃねえの?」

「オイ、みんな見てみろよ。オカマだ! オカマだ! 陽康はオカマだぞ! 男のクセにこんなのつけてんだぜ」




 * * *




「ねえねえ、南野の右腕」

「あ、私も気になってた何なのあれ?」

「ブレスレットでしょ? シルバーのチェーンに青い石」

「あれ、毎日着けてるらしいよ」

「えー何で何で? ちょっと鳥肌立っちゃった」

「1年のとき “なんでブレスレット着けてるの?” ってトモヨが聞いたらしいんだけど。教えてくれなかったって」

「オタクの間で流行ってるのかなあ。もしかして何かのアニメキャラの真似でもしてるのかも」

「まあ、何にしてもキモいよねえ」




 * * *




「ありがとう! …あ、ねえねえ、これこれ」

「こ、これは、その…」

「ステージからもよく見えたから、ちょっと気になってたんだ」

「すいません…」

「フフフッ。何であやまるの? すっごいいいと思う! 私のメンバーカラーじゃないけど、綺麗なブルーだよね。このブレスレット、ライブの度に付けてきてくれると嬉しいな。だって、キラキラしててキレイなんだもん」




 * * *




「キラキラしてる、ね」

「本当は、気持ち悪いと思ってるんだろ?」

「へ?」

「オタクの癖に、こんな女モノのブレスレットなんて着けて…気持ち悪いって思ってんだろ?」

「悪くないと思うよ? オタクの割にはね」

「そんなこと言ったって、今日のことはチャラにならないぞ」

「ブハハハハッ」

「笑って誤魔化したってダメだ」

「南野、元気になった。よかった、よかった。でも、そのブレスレット…本当にいいと思うよ。だって、キラキラしててキレイなんだもん」




 * * *




■2023年8月1日


 五月蠅い。

 水の音だ。

 水が川を流れる音はこんなに五月蝿いのか。


 南野陽康が意識を取り戻したとき、彼の体の半分は川の水に浸かっていた。左手首に巻いていたブレスレットが大きな流木の枝に絡まっていた。

 冷たい水に浸かっていた両足にはほとんど感覚がなかった。


 陽康は、両腕の力だけで流木の上に自分の体を乗せた。

 ブレスレットを流木の枝から外し、川のあちこちにゴロゴロと転がっている岩を伝うことで、何とか川の畔までたどり着いた。とにかく身体中が痛いし、足は痺れていて感覚が戻ってこない。

 夜はとっくに明けていた。吊り橋から落ちたのは夢ではなかった。

 橋から落ちた後、冷たい水に浸かったことまでは覚えているが、そこから先のことはまったく思い出せなかった。


 漸く足の感覚が戻ってきた陽康は、自分が流されてきた渓流を眺めた。川幅は10メートル以上ありそうだ。水深の深い場所と浅い場所が混在している。

 陽康は、ぼんやりした意識の中で “よく助かったもんだ” と他人事のように感心した後、改めて自分の体を確認した。身体中の関節が痛い。よくよく見ると手や足のあらゆる場所を擦り剥いている。

 左手首にはいつものブレスレットがある。これがなければ流されて死んでいたのかもしれない。チェーンの一部を補っている安全ピンが目に入り、舞とのやりとりが頭に浮かんだ。昨日のことのはずだが、遠い昔の出来事のように感じられた。

 右手に巻かれていた包帯はなくなっていた。昨日、秋葉原の神社の池でブレスレットを探す際に解いてしまったことを思い出した。右手首の骨折はまだ完全には癒えておらず、鈍い痛みが残っていたが、動かせないこともなかった。


 陽康はポケットに入っていたボロボロのスマホを河原に捨て、体の痛みに耐えながらゆっくりと川沿いを歩き出した。

 昨日、暗闇の中で渡っていたはずの吊り橋はどこにも見当たらない。車で走ってきたはずの国道は気配すらない。

 葉月里音、広末という大男、そして千堂という運転手。陽康は舞を連れて行ってしまった大人たちのことを考えていた。

 葉月はともかく、広末と千堂はまともじゃない。何より広末は拳銃を持っていた。そして、その後の吊り橋での出来事だ。どうして懐中電灯の光が消えてしまったのか。どうして吊り橋のロープが切れてしまったのか。広末は、最初から自分を殺すつもりだったのかもしれない。陽康の頭と背筋に昨晩の恐怖が蘇ってきた。

 舞があんな大人たちと一緒にいていい理由はない。

 体中の激しい痛みと時折押し寄せる空腹感の中、陽康は “舞を救いたい” と願っている自分の気持ちに気づいた。つい数日前までは “どうして宝田舞だけが生き残ったんだ” と本気で思っていたのに。


 四人組時代のニシユルを追いかけてきた陽康にとって、新メンバーオーディションの開催発表は晴天の霹靂でしかなかった。ただ、現メンバーの妹分的なメンバーが加入するのであれば「それはそれで楽しい展開だ」と考えていたところもあった。

 しかし、オーディション後に加入した宝田舞は、陽康が都合良く妄想していた大人しくて控えめな妹キャラではなく、物分かりの良い真面目でしっかりものの後輩キャラでもなかった。アイドル然としていない舞の粗暴な言動や生意気なキャラクターは、世間の賛否を呼んだだけでなく、陽康や一部のファンが見出していたアイドルグループにおける “多幸感” のようなものを破壊した。

 それでもその後ニシユルは、一部の古参オタクたちの憂慮を跳ね除け、破竹の勢いで国民的アイドルへの階段を駆け上がっていった。個性的な歌声を持っていた宝田舞には、グループのエース格だった菊池セイラと同等量の歌割が与えられるようになった。新規ファンやマスメディアは「宝田舞の加入が西新宿ゆるふわ組をブレイクさせた」とこぞって騒ぎ立てた。

 陽康は面白くなかった。既存メンバー四人のこれまでの頑張りに一切目を向けることなく、宝田舞こそがニシユルをトップに引き上げたかのような言説が許せなかった。菊池セイラがデビュー以来守り続けてきたエースポジションを、ぽっと出の宝田舞が侵食し始めていることにも我慢がならなかった。そして、セイラと舞の不仲説が噂されたことも陽康の怒りを増幅させた。

 陽康は、舞に抱いていた屈折した思いをSNSの裏アカウントやネットの匿名掲示板で吐き出した。自分の名前や出自を明らかにすることなく、虚虚実実の噂話や誹謗中傷を書き込むことで舞への攻撃を繰り返した。

「宝田舞がニシユルを壊した」「アイツはただのニワカホイホイで実力なんかない」「舞がセイラをいじめている。早くアイツを追い出さないと大変なことになるぞ」

 ライバルグループへの攻撃、同グループ内のファン同士の小競り合いなど、この手のアンチ活動はアイドルオタク界隈では決して珍しくないものだった。ただ、陽康は舞へのアンチ活動を続けるたびに自分の心が荒んでいくことも自覚してはいた。


 そんなとき、ニシユルメンバーが服毒自殺を図るという前代未聞の事件が起こった。陽康が推していた菊池セイラだけでなく、酒井紀香、渡辺蒔那、森高美穂も死んでしまった。生き残ったのは宝田舞ただ一人だった。

 どうしてアイツだけが…。陽康は舞を憎んだ。舞を憎んだところでどうにもならないことはわかっていたし、生き残った舞を憎むこと自体が間違っていることも頭では理解していたが、やり場のない怒りや悲しみをぶつける先を他に見つけることができずにいた。


 秋葉原のメイド喫茶で舞が歌った『青年期の魔物』が、頭の中で繰り返しリピートされている。陽康は舞の歌声を聞いて震えた。こんなシチュエーションでなければずっと聞いていたいとさえ感じた。彼女がいればニシユルの続きが見られるのかもしれない。舞と二人で秋葉原の街を走っているとき、そんなことを考えもした。

 舞は、陽康が書いたSNSの投稿や書き込みを目にしたことがあるだろうか。恐らくないだろう。舞は「エゴサーチはしない」と公言していた。万が一見ていたとしても、彼女はアンチのちっぽけな言説など気にも留めないだろう。


 川沿いを歩き始めてから数時間が経った。

 陽康が棒のようになった自分の足をさすりながら辺りを見回すと、視線の先に山の中から生えているような白い数棟の建物が見えた。学校か何かだろうか。体育館の屋根のようなものも確認できる。

 何キロ先なのかわからないが、ここから目に入る人工物はあの白い建物しかない。建物があるということは道路もつながっているはずだ。陽康は白い建物を目指して再び川沿いを歩き出した。

 徐々に日差しが強くなっている。まだ午前中だろう。陽康は、日が落ちる前にあの建物に辿りつこうと思った。

 体の痛みは相変わらず酷い。川の水を飲むことで喉の渇きは癒せるが、腹が減って仕方がない。よくよく考えれば昨日上野のフードコートでソフトクリームを食べてから何も口にしていない。あのとき舞の食べていた豚骨ラーメンを分けて貰えば良かったと、激しく後悔していた。

 陽康は、川沿いを歩きながらあることに気づいた。川は陽康が歩いてきた方向へ向かって流れており、今は山を登って歩いていることになる。

 ただ、それでも仕方がない。今、目標になるものはあの白い学校のような建物しかない。あの建物に行けば人がいるかもしれない。タクシーを呼ぶことだってできるはずだ。いや、まずは電話で美喜雄や細川に連絡を取ろう。舞を街に連れ出した件について詰問されるだろうが、今はそんなことを気にしている場合ではない。


 川沿いを4時間近く歩き、ようやく白い建物の直下に到達した。ここからは山を登って400、500メートルといったところだろう。まだ日は落ちていないが、急がなければならない。途中、川の水を飲みながら休み休み歩いてきたが、そろそろ体力も限界に近づきつつある。

 草木を分けながら山を登り始めると、藪蚊が陽康を襲い始めた。すぐに首や手のあちこちが痒くなった。ただ、デニムとスニーカーで家を出てたことは正解だった。半ズボンやサンダルだったらもっと酷いことになっていただろう。陽康は何とかポジティブに考えようとした。


 陽康が川岸から山に入って2時間近くが経とうとしていた。

 そろそろ例の白い建物に着いてももいいはずだと思ったが、一向にそれらしきものが見えてこない。陽康は少しずつ焦り始めていた。木々の間から差し込む木漏れ日も次第に弱くなってきている。川の畔から白い建物を目指して登ってきたつもりだったが、夢中で山を登っているうちに方角を逸れてしまったのだろうか。

 こんなところで夜を迎えるのはマズい。こんなところで死ぬわけにはいかない。とにかく登ろう。陽康は草木を必死にかき分けながら足を交互に前に出し、山を登るスピードを速めた。それと同時に “こんなところで死ぬわけには行かない” と考えた自分のことを奇妙に感じていた。

 数週間前、陽康は天上寺学園高校三号館の屋上から転落した。ニシユルの『青年期の魔物』のMIXを叫び、両手でサイリウムを振りまわしているときに屋上の際から滑り落ちた。教員たちが用意した分厚いマットの上に落ちた後、すぐに救急車が来て病院に運ばれた。

 翌日以降、父親や学校の担任、カウンセラーを名乗る中年女性などが代わる代わるやってきて「お前は死のうとしたのか」といった感じのことを何度も問われた。陽康は誰に対しても同じように答えた。「たまたま足を滑らせただけで死ぬつもりはなかった」と。陽康がそう答えると誰もが安心した顔を見せたが、それと同時に呆れられたり、厳しく叱られたりした。あれ以来、三号館の屋上は立ち入り禁止になったらしい。

 あの頃の自分のことは今でも良くわからない。正直死んでもいいと思っていたような気がする。死ねばセラたんに会えるとも思っていた。ただ、それでも死ぬのは怖かった。怖かったからこそサイリウムを手にしながらMIXを叫んだ。ニシユルを応援しているときだけは、何かを「怖い」と感じることはなかった。

 そして、あれからわずか数週間しか経っていないのに、陽康は今、死にたくないと思っていた。


 満身創痍で山の斜面をよじ登る陽康の視界に黄色いものが飛び込んできた。一瞬、蜂かと思って身構えたが、よく見ると黄色と黒の縞模様のロープだった。ロープの貼られた先をさらに登っていくと、視界を覆っていた雑木林が途切れ、アスファルトが敷かれた路面と白い建物の一部が見えてきた。

 陽康はほっと胸を撫で下ろし、登ってきた山の斜面に向かって静かに立小便をした。

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