第22話「命令」

■2023年7月31日 21:30 東京都内某所/前田宅


 前田がIshtarへのハッキングを開始してから15分が経った。前田は弾き慣れた曲を奏でる熟練ピアニストのように、淀みなくキーボードを叩き続けている。

 Ishtarはブレインランドのドル箱アイドルであるニシユルの活動を支えてきた人口知能だ。ハッキングやクラッキングに関する知識はなくとも、そのようなアンタッチャブルなシステムに対し、外部からアクセスすることが容易でないことは想像できる。美喜雄と細川は長期戦となることを覚悟していた。

 その一方、限りなく不本意な形で巻き込まれてしまったエリーは、早くも苛立ち始めていた。

「もう15分も立ってるんだけど…まだ終わらないの?」

「勘弁してよエリーちゃん。これでも信じられない速さでやってるんだから。シリコンバレーでもオレよりに速くIshtarに侵入できるやつなんていないよ? ただねぇ、里音ちゃんも色々と面倒くさい手を打ってるんだわ」


 以前はブレインランドの社員だった細川も、社内で前田を見かけたことはなかった。Ishtarの開発は本社とは別の拠点で秘密裏に進められていたのかもしれない。Ishtarの共同開発者の一人だった前田は、どのような理由があって会社とプロジェクトを離れたのだろうか。細川は前田に聞いてみたいことが山ほどあった。


「ふふん、なるほどなるほど。やっぱり里音ちゃんだな。相変わらず融通が効かないんだ」

 前田は流れる水のようにモニターを埋め尽くすコードを眺めながらブツブツと独り言を言っている。その独り言は次第に早口になっていく。


 痺れを切らしたエリーが前田に言った。

「もういい加減にしてよ。いつ終わるのよこれ」

「はいはいはい。終わったよ」

 前田がPCを操作し始めてから30分も経っていなかった。美喜雄と細川は予想以上の速さで作業が終わったことに驚いていた。

「普通なら1週間じゃ済まない作業よ? 感謝してほしいなあエリーちゃん」

 細川は、モニターに表示されている無数のウィンドウと数列を見つめながら前田に尋ねた。

「それで…何かわかったんですか」

「そう焦りなさんな。これからログを吸い出すから」

 

 美喜雄と細川はエリーと共にリビングで前田を待った。ハッキングを終えた前田は仕事部屋に残ってログの解析作業を続けている。

 美喜雄は、先ほどまでキャンキャンと騒いでいたエリーが大人しくなったことが気になった。そもそも今回の件についてエリーはどこまで知っているのだろう。松浦亜星は彼女にどこまで話をしているのだろう。


 数分後、前田がのっそりとリビングに入ってきた。前田は5cm四方のSSDをテーブルの上に置いた。

「直近1年分のIshtarのログだ。あんたたちが見ても何が何やらだろうが、見るやつが見ればわかる」

 細川はSSDを手に取って眺めてみた。

「結局、Ishtarはニシユルをどうしようとしていたのでしょう」

 前田は質問をした細川ではなく、エリーの顔を窺いながら話し始めた。

「うーん。どこから説明すればいいかなあ。これはあくまでも運用フェーズに入ってからの設定だからオレは詳しく知らないんだけど…Ishtarは、ニシユルが稼ぎ出す収益を中長期で最大化するような命令を与えられていて、そのためのアウトプットを出し続けていたらしい。中長期って言っても2年や3年じゃない。何と50年だ。ブレインランドや里音ちゃんは、今後半世紀にわたってニシユルが “どう動けば一番儲かるか” を、Ishtarを使って計算してたってことだ」

 50年。18歳になったばかりの美喜雄には想像し難い時間軸の話だった。

「じゃあ、Ishtarは彼女たちを婆ちゃんになるまで働かせるつもりだったのか…というとそんなこともなかった。基本的には今年の6月8日以降の彼女たちのスケジュールは一切組まれていない。白紙状態だ」

 すかさず細川が意見した。

「例の事件が起こったのが6月8日です。その後のスケジュールなんか組めるはずはありません。本来なら7月にドームツアーが始まるはずだったんですが…」

 前田は首を横に振った。

「Ishtar は現場のリアルな活動スケジュールまで決めてるわけじゃない。女の子一人ひとりに細かい設定を提案できるのとは対照的に、実際のスケジュールやイベントに関しては太極的かつ抽象的な提案しかできない。簡単に言うとIshtarは “このタイミングで彼女たちが活動を停止した方が後々の儲けが大きい” っていう計算を導き出したんだ。全盛期にスパッと引退した歌手の曲やグッズなんかがその後も長く売れ続けるっていう、あんなイメージに近いんだろう」


 松浦が言っていた通りだ。若くして急逝したアーティストやアイドルは、人々の無責任な期待や妄想に支えられながら伝説化していく。確かに、四人が亡くなった後のニシユルの楽曲DL数は飛躍的に増えており、動画再生サイトでは彼女たちのライブ映像やテレビ出演時の動画が爆発的な再生数を記録していた。


「Ishtarが、彼女たちを6月8日までに殺せと提案した…ということですか」

 細川の声は震えていた。

「Ishtarが “メンバーを殺せ” とか “自殺しろ” なんてアウトプットを出すことはないよ。ただ、今後50年間にわたって彼女たちが生み出す収益を最大化するには “2023年6月8日以降は活動しない方がいい” と提案してるだけだ」

 前田はソファーに腰を下ろして電子タバコを手に取った。

「まあ、事務所から解散を言い渡されて絶望した挙句、五人で毒薬を飲みました…そういう可能性も考えられるよな。例の動画じゃないけど “私たちは死んで伝説になろうね” ってな感じでさ」

 美喜雄は前田の見解に反論した。

「仮にそんなことを考えるメンバーが一人や二人いたとして、五人もいれば絶対に反対するメンバーが出ると思いますが」

「そりゃそうだ。ロン毛君の言う通りだ。さすがに不自然過ぎるよな。むしろ、解散を拒否したメンバー五人を何者かが自殺に見せかけて殺そうとした…って考えた方がまだ説得力がある」

 前田は冗談めかして笑っていたが、美喜雄と細川の表情は引き攣っていた。

「で、話にはまだ続きがある。あの事件があった数日後、Ishtarには新たな命令が入力されていた。000005…つまり五人目のメンバーに関するインプットだ」

 前田はポケットから取り出した手書きのメモを見ながら細川に説明した。

「さっきも言った通り、Ishtarはニシユルに関する6月8日以降のスケジュールを提示していない。メンバーを意味する000001、000002、000003、000004に関する記述・提案は一切ない。グループそのものを表す000100も同様だ。ただし、000005が一人で活動を続けた場合のシミュレーション結果を4万5000通りほど提示していた。その4万5000通りの中でもっとも有用とされているシミュレーション結果は、7月31日以降に000005のスケジュールがないパターンだ。簡単に言うと…」

「Ishtar は、000005が7月31日で活動を終えることを提案していた」

「おっ、わかってきたな。ロン毛くん。さすがエリーちゃんの同級生だ」

 細川が呟いた。

「活動を終える…それが、イコール本人の死」

「何度も言うが、Ishtarにそんな提案はできない。残念ながらそこまで優秀じゃないし残酷でもないよ。このアウトプットをどう解釈して、どうやってニシユルの活動に反映させるのかを考えるのは運用者だ。人間の役割だよ。まあ、宝田舞はあれ以来アイドル活動なんてしてないんだから、この提案自体が無意味だけどな」

「でも、7月31日はもうすぐ終わります」

「ああ。でもな、7月31日の次候補として、8月2日以降に000005のスケジュールがないパターンもあったんだよ」

「2019年7月31日はニシユルのデビュー記念日。2021年8月2日は…マイマイがニシユルに正式加入した日です。Ishtarは偶然よりも不自然な必然を作りたがる…松浦先生の言った通りです」

「先生から聞いたよ。アンタら宝田舞を攫って匿ってんだろ? 注意しておいた方がいいかもな。8月2日っていったら明後日だ。ってか、7月31日はもう2時間くらいで終わっちまうから…実質明日ってことだな」

 細川は前田の忠告に頷いた後、すぐに別の話を始めた。

「前田さんは何故ブレインランドを辞めたのですか? Ishtarの開発だけを担当し、その後の実運用には関わらないという契約だったのでしょうか」

 前田は唇の端を歪めて小さく笑った。

「アンタたち先生から何も聞いてないのか。そうなのエリーちゃん?」

 エリーは前田の問い掛けを無視した。

「まあ、オレもニシユルに関してはかなり本気だったよ。Ishtarの開発だけじゃなく、運用も含めて彼女たちを日本一、いや世界一のアイドルにするところまで見届けるつもりだった。オレ、学生時代にアイドルを追っかけてたこともあるほどのアイドル好きだったのよ。しかもニシユルはそこら辺のアイドルとは違う。いや、違うはずだった。ニシユルは…宝田舞が入ってからオレたちの思惑とは違うグループになっちまった。本来あるべき姿ではなくなったんだ。だから、オレは会社を辞めてプロジェクトからも離れた」

「その…ニシユルの本来あるべき姿ってのは、何なんですか?」

 前田が細川の問いに答えようとすると、エリーが強烈な剣幕で割って入った。

「アンタたちいつまでクソみたいにくっちゃべってるつもりよ。こんなところもうウンザリ! 要件が終わったならとっとと帰るわよ」

 細川はエリーに謝った。

「エリーさん、すみません。前田さん、この話の続きは次の機会にでも聞かせてください。僕たちは一旦引き上げます」

 前田はエリーと細川の様子をニヤニヤしながら見つめている。


 リビングにギスギスした空気が流れる中、美喜雄のスマホの着信音が鳴った。画面には「安倍冬美」と表示されている。

 美喜雄は電話に出るためにリビングを出て廊下に捌けたが、数分も立たないうちに青ざめた顔で戻ってきた。

「細川さん、宝田舞の行方がわからなくなりました。南野と一緒に外に行ったきり戻ってこないと…」

 美喜雄の報告を受け、細川は頭を抱えた。

 前田は他人事のように呟いた。

「あらら。遅かったか」

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