第15話「山勘」

■2023年7月31日 12:30 伊豆高原/松浦邸


 細川文雄と藤本美喜雄は松浦邸の応接間に通された。10畳ほどの室内にはシンプルなデザイン家具や調度品が並んでおり、嫌味のない高級感と清潔感が感じられた。

 応接間の扉を開けて入ってきたのは羽田エリーだった。

 エリーはお盆に乗せて運んできた麦茶にコースターを敷き、テーブルの上に置いた。

「ありがとうございます」

 細川が礼を言った。美喜雄は黙っていた。

 エリーはそのまま向かいのソファに座り、ワザとらしい溜息をつきながら美喜雄を睨んだ。

「なんでアンタがお爺ちゃんに会いにきたのか知らないけど…」

 美喜雄が横目で細川に合図を送ると、細川は黙って静かに首を振った。「彼女には何も話すな」ということだろう。

 美喜雄はエリーと目を合わさずに話し始めた。

「驚いたね。君が偉大なアイドル研究家、松浦亜星さんのお孫さんだったなんて。松浦先生も、孫である君に自分の作った部活を潰されるなら本望だろう」

「お爺ちゃんが天上寺学園出身で、アイドル研究部を作った人だってことくらい私も知ってる。でも “潰す” なんて大袈裟ね。私は部室を譲るべきだって言ってるだけ。あ…もしかしてアンタたち、部室の件をお爺ちゃんに何とかしてもらおうとしてここへ来たの? そんなことしてもムダよ! ムダ、ムダ、ムダ、ムダァ!」


 美喜雄が部長を務めるアイドル研究部とエリーの所属する現代音楽部は、ニシユルの事件を契機に夏休み前から部室の所有権争いを繰り広げていた。

 そんな事情を知らなかった細川は、美喜雄とエリーがいきなり言い合いを始めたことに驚いた。そして、少なくとも二人の関係性が良好ではないことを察した。 


「我々が部室の件でここに来たと? 断じて言うが、そんなつもりは一切ない」

 エリーにそう反論したものの、美喜雄はここに来るまでの車中で「部室の件についても松浦に相談できないか」と考えていた。天上寺学園の卒業生にして、アイドル研究部の立ち上げメンバーでもあった松浦亜星。メディアでの存在感は薄れつつあるとはいえ、今でも世間に一定の影響力を与え得る文化人として認知されていることは間違いない。彼の力を借りることができれば、学園関係者に圧力を掛けることも難しい話ではないだろう。

 しかし、美喜雄の目論見はあっけなく霧散してしまった。あろうことか部室問題の対立勢力の筆頭である羽田エリーが松浦亜星の孫だったとは…。


「じゃあ聞くけど、アンタたち何のためにお爺ちゃんに会いに来たの?」

 返答に窮する美喜雄の様子を察し、細川がフォローに入った。

「僕たちは伊東の温泉に入りに来ただけなんです。ただ、大先輩である松浦先生の御宅が近くにあると聞いていたので、せっかくならご挨拶に伺おうか、って話になりまして。ちなみに僕も藤本君と同じ天上寺学園アイドル研究部の出身でして、以前から一度、大先輩である松浦先生にお会いしてみたいと思っていたものですから…」

 宝田舞の件でここに来たことは口が裂けても言えない。美喜雄も細川の尤もらしい話に黙って頷き続けた。

「普通さぁ、こんなクソ暑い時期に温泉なんか行く?」

 エリーが不満気に呟くと同時に、白髪混じりの男性がそそくさと応接間に入ってきた。間違いない。松浦亜星だ。

 美喜雄がメディアで見ていた頃の彼は、恰幅の良い中年男性というイメージだったが、しばらく見ないうちに顔の皺や白髪の量が多くなり、以前より随分と老けてしまった印象だ。


 松浦は美喜雄たちの姿を一瞥すると、エリーの横に腰掛けて口を開いた。

「君たち、エリーに何かしてないだろうなあ」

「えっ、はぁ…えーっと」

 細川は、松浦の予期せぬ問いかけにしどろもどろになった。

「おじいちゃん、この人たちアイドル研究部の部室のことで文句言いに来たみたい」

「そうなのか?」

 美喜雄は身を乗り出して反論した。

「違います。部室の件なんて関係ありません」

「エリーから話は聞いている。まあ、部室の一つや二つでガタガタ言うな。ワシらのころはそんなものはなかったぞ」

「これは現役学生である我々の問題です。松浦さんは口を挟まないでいただきたい」

 部室の件で松浦を頼ろうと考えていた自分自身が情けなくなり、美喜雄は少しムキになった。

 松浦は美喜雄の言葉に動じる様子もなくケラケラと笑っていた。

「お爺ちゃんを頼ろうとしても無駄だってことわかった? わかったなら今すぐ帰りなさいよ」

 細川が遠慮がちに口を挟んだ。

「あの…今日はですね、アイドル研究部の部室の話をしに来たんじゃないんです。もっと大事な話があってですね、本当にその…」

 エリーがすかさず突っ込んだ。

「大事な話って何? 温泉のついでに寄っただけなんでしょ?」

「うむ、そうだな。部室のことは諦めろ。それよりエリー、すまないがサオリのご飯を買ってきてくれないか。また切らしてしまったみたいだ」

「なんで!? 一昨日買ってきたばっかりでしょ」

「アレもよく食べるからなあ」

「だからあんなに太っちゃうんだよ。四六時中食べさせてちゃダメなんだから」

 どうやら「サオリ」とは、松浦家で飼っているペットの名前らしい。

「もういいよ。わかった。買ってくる。ここにいてもイライラしてしょうがないから」

 そう言うと、エリーはさっさと部屋から出て行ってしまった。


「エリーは母親に似て少しばかり気の強いところがある。それがまた可愛いんだが」

 美喜雄は「何が少しばかりだ」と心の中で叫んでいた。

「あんなに美人のお孫さんがいらっしゃるなんて、驚きました」

 美喜雄には細川が社交辞令を言っているようにしか聞こえなかったが、細川は感じたことを素直に口にしただけだった。

「そうだろう? とてもワシの遺伝子を受け継いでいるとは思えないよな」

 細川は松浦に愛想笑いで応えつつ、早速本題を切り出そうとした。

「松浦先生とは、昔のアイドル研究部のことや昨今のアイドル事情など、いろいろとお話したいことがあるのですが…今日、僕たちがお伺いしたのには他に理由があります」

 松浦は大袈裟に溜息を吐いて言った。

「宝田舞…マイマイのことだな。彼女のことで来たんだろ?」

 細川は静かに二度頷いた。

「で、彼女は無事か?」

「マイマイのことをお話しする前に、松浦先生にいくつかお聞きしたいことがあります。このメールのことですが…」

 細川は松浦にスマホの画面を見せた。画面には『ニシユルの生き残りは武蔵ノ宮病院の709号室にいる。彼女は7月30日に殺される…』という例のメール文面が表示されていた。

「僕たちはこのメールの送り主を探しているのですが…」

「ああそれな。そのメールを君に送ったのはワシだよ」

 松浦はあっさりとそう答えた。

「やっぱりそうだったんですね」

 松浦の表情から先ほどまでの陽気さが消えた。

「細川文雄。君は2022年の1月にニシユルのマネージャーを辞め、同時にブレインランドを退社した。今は両親のいる岡山の実家に戻っているな」

「…はい。よくご存知で」

 黙って頷く細川の様子を窺いながら松浦が話を続けた。

「君はニシユルの事情を知りながらブレインランドと縁を切った。君のような男なら宝田舞のために動いてくれるかもしれないと思ったんだよ。幸いOB会の名簿にも君のメールアドレスがあったしな」

「やはりOB会名簿から…」

 美喜雄が割って入った。

「現役部員である私と南野陽康、安倍冬美の三人も細川さんと同じ内容のメールを受け取りました。これも松浦先生が送信されたのですか?」

「おお、そうだったそうだった」

「細川さんはともかく、私たちは普通の高校生です。どのような意図があって私たちにこのようなメールを?」

「保険だよ。細川がワシの送ったメールを見たにも関わらず、何の行動も起こさなかった場合の保険だよ」

 美喜雄は重ねて松浦に尋ねた。

「その保険が、どうして私たちなのですか?」

「細川にメールを送る前に、最近エリーがよく口にしていたことを思い出してな。今のアイドル研究部の部員は単なるニシユルのオタクだ。お爺ちゃんの作ったアイドル研究部は “今や単なるニシユルのファンクラブに成り下がっている” とな。まあ、時代と共にあるのがアイドルだからな。今の時流ならニシユルのオタクが多いのは当たり前のことだろうが」

 美喜雄は反論したい気持ちもあったが、一旦黙って松浦の話を聞くことにした。

「それでな、高校生の純粋無垢なオタクたちの力に期待することはできないだろうか、と考えたんだ。細川が動かなかったとしても、あのメールを読んだニシユルオタクの部員たちが何らかの行動を起こしてくれるかもしれないとな。まあ、その部員というのが三人しかいなかったのは想定外だったが」

「今は三人だけですが、二学期以降は32名の新入部員が入る予定です」

「それも、6月の事件の影響か」

 美喜雄は松浦の言葉に頷かざるを得なかった。

「恐らくは…そういうことだと思います」


 天上寺学園高校の同級生として出会った松浦亜星と大泉京太郎は、1972年にアイドル研究部を設立した。部員二名から始まった部活だったが、1980年代や2000年代のアイドルブーム期には部員が50名を超えることもあった。

 部の設立者である松浦亜星は著名なアイドル研究家となった。もう一人の設立者である大泉京太郎は、新興芸能事務所ブレインランド・プロモーションの代表兼アイドルプロデューサーとなった。このようなアイドル研究部の歴史については、歴代の部長・副部長が編纂を続ける部活動史の存在もあり、美喜雄も細川も詳しく知っていた。


 今度は細川が松浦に聞いた。

「僕が動かなかった場合、本当に藤本君たちが何とかしてくれると思っていたんですか? 彼らは高校生ですよ?」

「オタクたちにはニシユルへの情熱がある。たとえ直接的な行動には出なかったとしても、警察や病院、メディア、ネット界隈への働きかけはしてくれるんじゃないかと思ってな。それに、ブレインランドと何のしがらみがない子供たちの方が関係者よりも安全に動ける可能性がある」

 自分たちは単なるオタクでしかない。運営や事務所の事情がわからないことは確かだが、それがなぜ安全だというのか。美喜雄には松浦の言っていることの真意が今一つ理解できなかった。 


「松浦先生、聞きたいことはまだあります」

 細川はスマホの画面を指で示した。

「僕たちが受け取ったメールには、『ニシユルの生き残りは武蔵ノ宮病院の709号室にいる。彼女は7月30日に殺される…』とあります。ニシユルの生き残りというのは言わずもがな宝田舞…マイマイのことでしょう。そして先生に教えていただいた通り、彼女は武蔵ノ宮病院の709号室に入院していました」

 細川の声が少しずつ大きくなっている。無意識のうちに気持ちが昂っているのだろう。

「松浦先生はどうしてこのことを知っていたのですか? そして “7月30日に殺される” という情報も本当に確かなものだったんですか? もし本当にそうだとすれば、一体誰が…どういう理由でマイマイを殺す必要があるんですか?」

 松浦は温くなった麦茶を啜り、一呼吸おいて口を開いた。

「彼女が入院している病院と病室を突き留めるのには少々骨が折れた。ただ、7月30日に殺されるというのは、正直なところ…ワシの勘でしかない」

「か、勘? 勘でそんなことを…」

「勘だからと馬鹿にするなよ。かなり精度の高い勘だ。ワシには何となくわかるんだよ。Ishtarの導き出す答えが…」

 松浦が発した「Ishtar(イシュタル)」 という言葉を聞き、細川は声を荒げた。

「Ishtarがマイマイを殺すっていうんですか?」

 松浦はこれまでになく神妙な顔つきになり、細川を諌めるように言った。

「もちろんIshtar自体には何の罪はない。最終的な意思決定は人に委ねられるのだからな」

 

 Ishtarとは何だ? 最終的な意思決定とは何だ? 美喜雄には二人の話していることがまったく理解できなかった。

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