第19話「喫茶」

■2023年7月31日 17:00 秋葉原/メイド喫茶


「おかえりなさいませ! ご主人様! お嬢様!」

 陽康と舞は秋葉原の外れにあるメイド喫茶に入った。冬美のバイト先である。


 最初は嫌がっていた冬美も結局は根負けし、自分のバイト先に二人を案内する羽目になった。舞の押しの強さはもちろんのこと、最終的には「オレも安倍ちゃんのメイド姿、見てみたいかも…」という陽康の素直過ぎる申し出が決定打になった。


 フリーザのお面を被っていた舞も入店を拒否されることはなかった。二人はメイドスタッフに案内されたテーブル席に掛けた。

 店内には長いカウンターのほかに二人掛けや四人掛けのテーブルが10組以上あり、カラオケ用の大型テレビと小さなステージまで備え付けられていた。周辺のメイド喫茶と比べてもかなりの大箱である。

 客層は若者グループから白髪混じりの男性まで幅広く、ちらほらと女性客の姿もあった。テーブルとテーブルの間をメイドスタッフたちが行き交い、店内の至る所からアニメ声優さながらの鼻に掛かった甘い声が聞こえてくる。スタッフが着用しているメイド服は、スカートの丈がやや短いものの、黒いワンピースに白いエプロンという王道的なデザインだ。

 夏休み中ということもあり、席の半分近くは埋まっている。メディアに取り上げられるような超有名店ではないものの、10年以上の歴史を誇る老舗店らしい賑わいがあった。


 陽康はコーラ、舞はタピオカミルクティーを注文した。二人は冬美のメイド服姿を想像しながら彼女がホールに現れるのを待った。

 舞は、フリーザのお面の下から太いストローを伸ばしてミルクティーを飲んでいる。お面を被りながらの飲食にも慣れてきたようだ。気のせいか舞のお面をジロジロ見る人も少なくなったような気がする。

「案外大丈夫なもんだな。そんなお面被って歩いてても」

「上野では人の視線がちょっときつかったかな。でも秋葉原はそうでもないね。コスプレに寛容な街って感じ?」

「お前のそれはコスプレじゃないだろ」

「細かいねえ。女の子に嫌われるよ?」

 舞はカップの底に溜まった大きめのタピオカを起用に啜っている。


 細川は、舞は記憶を失っていると言っていた。自分がニシユルのメンバーだったことや、一緒に活動していたメンバーのことも忘れていると言っていた。

 今日1日の舞の屈託のない様子を見ていると、1カ月半前に彼女の身の回りで起こった悲劇など、まるで無かったことのように思える。本当に彼女はすべてを忘れてしまっているのかもしれない。

 ただ、それでも舞は秋葉原がどんな街であるかを知っている。メイド喫茶がどんな場所なのかも知っている。タピオカミルクティーがどんな飲物であるかも知っている。フリーザが『ドラゴンボール』のキャラクターであることも覚えていた。

 まるで頭の中のハードディスクからニシユルに関するファイルだけを綺麗さっぱりと削除したかのようだ。人は特定の物事だけをそんなに都合よく忘れられるものだろうか。


「ねえねえ、さっきの南野の真似してあげよっか」

「オレの真似?」

「おっ、おっ、オレも安倍ちゃんのメイド服、み、見たいぃぃって。ブハハハハッ」

 舞は、カップから抜き出したストローを陽康の顔の前でクルクルと回しながら揶揄った。

「オレはお前の提案に乗ってやったんだ。ありがたいと思え」

「はぁ? あなたねえ、もう少し自分に素直になったほうがいいんじゃない? それはともかくとして…南野と冬美ちゃんってどんな関係?」

「天上寺学園高校アイドル研究部の先輩と後輩…という関係」

「それだけ?」

「それ以外に何があるんだ」

 舞は相変わらずストローをクルクルと回し続けている。陽康には、心なしかフリーザのお面がニヤけているように見えた。

「冬美ちゃんさあ…南野のことが好きなんじゃない?」

「ふゴォ!?」

 陽康は思わず奇妙な声を上げてしまった。

「今日1日、あなたたち二人と過ごしてて、もしかして…って思ったんだよね。ここに来るのだって、最初は “絶対にイヤですぅ” とか言ってたのに、南野が “オ、オレも安倍ちゃんのメイド服、み、見たいぃ” って気持ち悪いこと言い出した途端、いじらしい感じになっちゃってさあ」


 自分が冬美に好かれている? 確かに陽康には思い当たる節がないこともなかった。

 陽康が三号館の屋上から落ちたあの日、高跳び用マットの上で呆けていた陽康の元に最初に駆け寄ってきたのは冬美だった。しかも、陽康の無事を確認すると、彼女は人目も憚らずにワンワンと泣きながら抱きついてきたのだ。その後も冬美は学校の教師たちと一緒に救急車に乗り込み、病院での検査が終わるまで付き添ってくれた。陽康にとっての冬美はアイドル研究部の1学年下の後輩でしかなく、特別近しい距離感で接していたわけでもなかったので、そのときは「何と心根の優しい子だろう」と素直に感動した。

 しかし、それらは冬美の生来の優しさに起因する行動であって、すべての事物に向けられる慈愛のようなものであり、自分への特別な感情に寄るものではないと考えていた。

 陽康は小学生時代から「この子は自分のことが好きなのかも…」といった独りよがりの勘違いの末に落胆する出来事を経験することが多かったため、いつの頃からか心身の自衛意識が働くようになり、「自分が女性から好かれることなどない」と思い込むことを常としていた。


「オレと安倍ちゃんとは先輩と後輩。それ以外には何もない。自慢じゃないがオレは女子にモテたことがない」

「まーそうだよね。やっぱそうだよね…あっ、冬美ちゃん来たよ」

 こちらの視線に気づいた冬美は、カウンターの奥で恥ずかしそうに小さく手を振っている。

 陽康は冬美の姿を見て驚いた。メイクは特に変わっていないが、長い髪はアニメキャラのようなツーサイドアップでまとめられており、メイド服との絶妙なコンビネーションを生み出している。何よりも王道メイド服が異常に似合っており、彼女の小柄な体型から醸し出される愛らしさを一層際立たせていた。


 頬を赤らめながら二人が座るテーブルにそろそろと近づいてきた冬美は「お帰りなさいませ。ご主人様、お嬢様」というお決まりの挨拶をしながら恥ずかしそうに頭を下げた。

「すっごいカワイイよ冬美ちゃん! 超似合ってるし!」

 陽康の喉まで出かかっていた言葉を、舞が丸っと代弁してくれた。

「ありがとうございます! でも、ここでは冬美じゃなくて “ふゆみん” って呼んでくださいね」

 冬美は自分の胸についている手書きのネームプレートをアピールした。

 陽康は冬美と目を合わせることができなかった。学校では決して見せることのない「本当の姿」を見てしまったような気がしたのだ。

 舞は陽康に言った。

「ねぇねぇ、南野も何か言いなさいよ。見たかったんでしょ? 冬美ちゃんのメイド服姿」

 冬美は顔を真っ赤にしながら陽康の顔をチラチラと見ている。

「す、すごく似合っています…い、いいと思います」

 陽康は何故か敬語になっていた。

「う、嬉しいです。南野先輩…ありがとうございます。では、ごゆっくりお寛ぎください」

 冬美はそれだけ言って小さくお辞儀をし、新しく入って来た客の注文を取りに行ってしまった。

「やっぱりワタシの勘違いだったわ」

「は?」

「あんなにカワイイ冬美ちゃんが、南野のことを好きになるわけないもん」

 陽康は黙ってコーラを啜るしかなかった。舞に何か言い返したかったが、言葉が見つからなかった。

 

 そうこうしているうちに店内のステージでカラオケが始まった。この店には1曲1000円でメイドにカラオケを歌ってもらえるサービスがあった。メイド喫茶のオプションとしては高価な部類に入るが、カラオケ設備のあるメイド喫茶自体が少ないこともあり、この店の名物となっていた。

 ステージでは三人のメイドが流行りのアニソンを歌っている。サビには決まりの振り付けがあり、わかりやすく合いの手を入れられる歌でもあったため、店内の客も盛り上がっていた。

 舞も黙ってメイドたちのカラオケを聞いている。人気声優による1年前のヒット曲だったが、舞はこの曲を覚えているのだろうか。陽康は舞に聞いてみようかとも思ったが、結局は躊躇ってしまった。

 曲が終わると同時に疎らな拍手と小さな歓声が聞こえてきた。陽康も気を使って音の鳴らない程度の拍手をした。舞は手首だけを使って太いストローをクルクルと回していたが、お面を被っているので表情まではわからなかった。


 二人とも飲物を空にしてしまったし、このまま居座り続けても冬美の仕事の邪魔になる。陽康はそろそろ引き上げ時だなと思い始めていたが、すぐに次のカラオケが始まった。

 曲の出だしの0.01秒で、陽康の体はビクッと反射的に震えた。

 店内に流れてきたのはニシユルのヒット曲『青年期の魔物』のイントロだった。陽康は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。今の舞にこの曲を聴かせてはいけない。

 陽康はガバッと立ち上がって舞に言った。

「帰ろう…今すぐここを出るぞ」

 舞は無反応だった。お面を被っているので表情はわからない。

「おい、早くここを出るんだってば」

 陽康は舞の腕を掴んで立ち上がらせようとしたが、舞はその手を振り払った。

 焦った陽康は冬美の姿を探した。冬美は青ざめた顔でこちらを見ながらエントランスの方を指差していた。「すぐに店を出ろ」ということだろう。


 『青年期の魔物』のイントロが終わり、メイドが歌い始めた。『青年期の魔物』は誰もが口ずさめる国民的なヒット曲だ。客やメイドたちのテンションも上がっている。手拍子とコールが大きくなり、店内はメイド喫茶とは思えない異様な熱気に包まれつつあった。

「帰るんだってば! おい、帰るんだよ!」

 陽康は声を荒げて再び舞の手を取った。舞はスクッと立ち上がり、先ほど以上の力強さで陽康の手を振りほどいた。

 陽康はその場で転んでテーブルに体ごとぶつかった。空のコップが倒れて氷が弾け飛んだが、店内に響くカラオケ・歓声・手拍子の音が大きく、陽康が転んだことに気づく客はほとんどいなかった。

 冬美がこちらに駆け寄ってくるのとほぼ同時に、舞は床に倒れた陽康を飛び越えてカラオケステージに向かっていった。


 舞は、ステージにいるメイドから何も言わずにマイクを奪った。

 突然の事態に周囲はどよめいたが、フリーザのお面を被った女の子が『青年期の魔物』の続きを歌い始めたことで、客やメイドから歓声や拍手が起こり、店内のテンションはさらに上がった。

 彼女の歌声はメイドたちの歌唱レベルとは明らかに違っていた。舞の歌は、一瞬にしてその場にいるすべての人々を引き込んでしまった。

 『気づいてる 去年の夏とは違ってる わかってる 大人になろうとしてる――』

 ワンフレーズ聞いただけで素人のカラオケ歌唱でないことがわかる。客やメイドの歓声はさらに大きくなった。

 陽康は「この状況を何とかしなければ…」と思いつつも、一瞬、舞の歌に聞き入ってしまっていた。

 もともとニシユルでは、ほとんどのソロパートを「歌姫」と呼ばれていた菊池セイラが担当していたが、舞の加入以降は多くのソロパートを二人で分け合う体制となった。

 舞の声には力強い個性があった。五人で同時に歌うユニゾンパートであっても、舞の声だけは埋もれない。はっきりわかるのだ。


『クラスの中に埋もれて 誰にも気づかれないお宝銘柄 私だけが見つけてた 君の熱量 君だけのセンス――』

 舞はついに踊り始めた。ライブやMVで見せるような全力のダンスではないが、メイド喫茶の狭いステージを意識してコンパクトに踊っている。そのキレのある動きは、誰が見ても素人レベルのものでないことがわかる。

 フリーザのお面を被った珍客によるハイレベルなパフォーマンスによって、店内の盛り上がりは最高潮に達した。

 その一方で「あれは誰?」「あのフリーザ凄すぎるだろ」と耳打ちし合う客が現れ始め、「宝田舞の声にそっくりだ」と、本人との類似性に気づき始める客も出てきた。

 そんな周囲の状況を知ってか知らずか、舞はワンコーラス目が終わった間奏の合間に、自らフリーザのお面をずらして顔を出してしまった。お面はゴム紐で首に掛かっているものの、素顔が丸見えになった。

 舞はノーメイクだったし、1カ月の入院生活を経てだいぶ痩せていた。トレードマークだったショートボブの髪もすっかり伸びてしまっていた。それでも、お面の少女が西新宿ゆるふわ組の宝田舞であることは誰の目にも明らかだった。舞の顔に笑顔はなかったが、頰が赤らんでおり、明らかに上気していた。

「本人!?」「やっぱり宝田舞だ!」「ニシユルのマイマイだぞ!」「何で宝田舞が来てるの!?」

 舞の顔を見た客やメイドは一瞬静まり返ったが、数秒後には再び歓声を上げていた。中にはスマホをかざして写真や動画を撮り始めるいる客もいた。

「あいつ…」

 陽康はステージに向かって走っていき、舞の腕をグイッと掴んだ。今度は振り払われないよう、しっかりと力強く握った。舞も、先ほどのようには抵抗しなかった。

 店内が響めく中、陽康は舞の手をとって店の外へと走った。階段を駆け下り、ビルを出て、そのまま秋葉原の街を駆け抜けた。

「あっ!」「宝田舞?」「嘘!?」

 周囲からそんな声が聞こえるような気がして怖くなった陽康は、舞の手をぎゅっと掴み、とにかく走った。心臓や内臓が今にも爆発しそうだったが、構わず走り続けるしかなかった。

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