第12話「内実」
■2023年7月31日 9:00 東名高速
細川文雄が運転する白い車は首都高速3号渋谷線を抜けて東名高速に入った。平日の午前中ということもあり、車列は名古屋方面へと順調に流れている。助手席には藤本美喜雄が座っている。
美喜雄はスマホの画面に目を落としたまま細川に言った。
「昨日の武蔵ノ宮病院の件、やはり報道されていないようですね。Webも一通り確認しましたがそれらしい記事は見つかりません。病院の周りではかなりの騒ぎになっていたはずなのに」
「報道協定が結ばれているのかもしれません。犯人が人質を取っているような事件の場合、マスコミ報道が犯人を刺激して人質を危険に晒してしまう可能性があります。そんなことにならないよう、警察がマスコミの報道に圧力を掛けるんです」
「なるほど。報道協定ですか」
「ただ、昨日の件が報道されていないのは報道協定以前の問題かもしれません」
「どういうことですか?」
「これは推測の域を出ませんが…葉月さんやブレインランドはもちろん、武蔵ノ宮病院ですら警察に被害届を出していない可能性があります」
「事務所の所属タレントが連れ去られたのに…ですか?」
細川は頷きながら答えた。
「あちら側に警察やマスコミを頼りたくない事情がある、ということも考えられるかと」
美喜雄は少し考えてみた。ブレインランドはニシユルの集団自殺発生以降、「事務所のタレント管理方法に問題があった」「過酷な労働環境が彼女たちの心を壊した」などといった批判を受け続けている。これに加え、ただ一人生き残った宝田舞が何者かに連れ去られたとなれば、事務所の杜撰な管理体制を論われ、さらなる強烈なバッシングを浴びることは明らかだ。ブレインランドがマスコミの報道に圧力を掛けたい気持ちはわかる。
しかし、マスコミはともかく「警察に連絡しない」という選択はあり得るだろうか。入院中の所属タレントが病院から連れ去られる一大事が起こったのだ。タレントの安全が脅かされている。最悪の場合、命に危険が及ぶ可能性もある。これは明らかに警察を頼るべき状況だ。ブレインランドは自分たちだけで誘拐犯から宝田舞を取り戻せるとでも思っているのだろうか。それは常識的な大人たちが選び得る選択ではない気がする。
ブレインランドは、記憶障害の状態のままの宝田舞を世間に出したくないのかもしれない。あるいは、彼女の口から秘匿性の高い情報が漏れてしまうことを恐れている可能性もある。それが、6月に発生したニシユルの集団自殺と関係のあることだとしたら…。美喜雄はそこまで考えた時点で妄想も推測も止めた。怖くなったからだ。
美喜雄は、頭を切り替えて別の件を細川に尋ねてみた。
「例のメールの送り主は、やはり松浦亜星なのでしょうか」
松浦亜星は天上寺学園アイドル研究部のOBであり、アイドル研究部の立ち上げに関わった二人の学生のうちの一人だった。
昨日細川は、OB会名簿の1行目にあった松浦亜星の名前を示して「あのメールの差出人は松浦さんだと思います」と言い、その場でメールを打って松浦に連絡を取り付けた。そして今日、細川と美喜雄は朝の9時に東京を発ち、松浦が居を構える伊豆高原へと向かうことになった。
松浦亜星は著名なアイドル研究家として知られていた。美喜雄も松浦の名前を知っていたし、彼の著書やブログを読んだこともあった。旬のアイドルはもちろん、メジャーデビュー前のアイドルや地下アイドルに関しても豊富な知見があり、独創的かつ精度の高いアイドル批評に定評があった。また、アイドルに詳しいコメンテーターとしても重宝され、ワイドショーやバラエティ番組にも度々出演していた。ただ、ここ数年はメディアへの露出を明らかに減らしており、ネットやSNS界隈でも目立った活動は見られなかった。
細川は右手でハンドルを握りながら左手でラジオを止め、Bluetooth接続で有名なJAZZピアニストの曲を流し始めた。
「最近、アイドルを聞かなくなりました」
美喜雄が黙っていると、細川は少し間を置いて続けた。
「僕は、去年の始めにブレインランド・プロモーションを辞めました」
そのことは美喜雄も知っていた。ニシユルの結成時からマネージャーを務めていた細川文雄がある日突然マネージャーを辞め、そのまま事務所からも退社したことは、ファンの間でも話題になっていた。
「ブレインランドは先代の大泉京太郎社長が一代で大きくした事務所ですが、京太郎社長が亡くなった後は娘の京子さんが後を継ぎました。社長交代は僕が事務所を辞める2年以上前のことでした」
先代の大泉京太郎は、女性アイドルの育成とプロモーションに心血を注いでいた。しかし、二代目の京子は先代の方針を一変し、新たな男性アイドルグループを売り出し始めた。そのため「新社長は女性アイドルに興味がないらしい」という噂も流れていた。
ニシユルのファンは、社長が変わったことで「事務所がニシユルを推さなくなるのではないか」と危惧した。実際、社長交代があった2019年から2020年にかけてニシユルの活動は明らかに停滞していた。
しかし、翌年の新メンバーオーディションの開催、それに伴う宝田舞の加入を契機に、ニシユルの活動は一気に活性化した。ヒット曲に恵まれ、メディア露出も日を追うごとに増えていき、国民的アイドルグループへの道を一気に駆け上がっていった。
「藤本君も知っての通り、社長が京子さんに変わって1年ほど経った頃、ニシユルの仕事量が急激に増えたんです。ニシユルは京太郎社長自身が作ったアイドルグループですし、京太郎社長直々のプロデュースで動いていました。それが京子さんに代替わりして間もなく、社内にニシユル戦略本部という新組織が立ち上がり、ニシユルの営業・運営・育成・PR戦略の全権を統括するようになりました。ブレインランドはもともと小規模な事務所だったので、以前は現場マネージャーだった僕もニシユルの運営や育成に関して意見を出すなど主体的に関わることができました。ただ、ニシユル戦略本部ができて以降は…上から降りてくる指示に従うような仕事しかできなくなりました」
先代の大泉京太郎社長と共に二人三脚でグループを育ててきた細川は、後からやってきた京子社長の方針変更によって、ニシユル運営の中枢から外されてしまったことになる。細川が事務所を辞めた理由はその辺りにあるのだろうと、美喜雄は慮った。
「そのニシユル戦略本部から出てくる指示というか…思想やコンセプトの大元になる情報を提供していたのが松浦さんだったんです。もっとも彼自身がブレインランドやニシユル戦略本部に席を置いていたわけではないのですが」
美喜雄は細川の言葉に微妙な歯切れの悪さを感じていた。細川は、大事なことを隠しながら話しているのかもしれない。
細川はハンドルを握りながら話を続けた。
「アイドル研究会のOB会名簿の中で、ニシユルの戦略や運営に深く関わってきた人物は、僕と松浦さん、大泉京太郎前社長の三人です」
2019年に亡くなったブレインランド・プロモーションの前社長である大泉京太郎は松浦亜星の同級生だった。そして、天上寺学園アイドル研究部はこの二人によって立ち上げられたとされている。そのことについては美喜雄もよく知っていた。
美喜雄は細川に改めて確認した。
「大泉京太郎社長が亡くなった今、細川さんと私たち現役部員三名のメアドを知っていて、現在のニシユルやブレインランドに関する詳細な情報を持ち得ている可能性のある人物は松浦亜星ただ一人。やはり、彼が私たちにメールを送った可能性が高いということですね」
細川は静かに頷いた。
「昨晩、松浦さんにメールを送ったら “明日、すぐ来るように” という返信が数分で返ってきました。例のメールの話も、マイマイの件も、まだ何も伝えていないというのに…」
「でも、松浦さんは私や細川さんにとっての大先輩です。お会いするのが楽しみですよ」
* * *
■2023年7月31日 11:00 天上寺学園高校/アイドル研究部部室
「よっしゃー! 25連勝!!」
宝田舞は、勢いよく右手を突き上げ、奇妙な踊りで安倍冬美を挑発した。
「ふう。マイマイ、滅茶苦茶センスありますね! すごいなぁ…じゃあ、そろそろ終わりにしましょうかね」
「えーっ…もう1回しよ。ね、ね、ね、ちょっとだけハンデあげるから」
「ま、まだやるんですか? はぁ…」
冬美のテンションの低さを気に掛ける風もなく、舞は容赦無くスタートボタンを押した。
テレビの画面では、二人が操作するゲームキャラクターが対峙していた。冬美の操作するセクシーカンフー娘は、ゲーム開始から5秒も立たないうちに画面の端へと追い詰められ、舞が操るロシア風男の餌食となっていた。
ギラギラした真夏の日差しが差し込むアイドル研究部の部室には、二人がコントローラーをカチャカチャと動かす音に加え、舞が定期的に発する「っしゃあ! っしゃあ!」という奇声が響き渡っている。
結局、30秒も経たないうちに、冬美のセクシーカンフー娘は地面に倒れ込んでしまった。
「イェェェーィ! 26連勝!!」
再び勝利のポーズを決める舞の横で冬美ががっくりと肩を落としていると、部室のドアが開き、ジャージ姿の南野陽康がそそくさと中に入ってきた。
「南野先輩!」
やっと解放される、という思いでコントローラーを手放した冬美は、陽康のもとに駆け寄っていった。
「安倍ちゃん大丈夫? なんか…やばそうな声が聞こえたけど」
「マイマイが…マイマイが」
陽康は、部屋の奥でコントローラーを手にしている舞と目が合った。
「おっ、新たな挑戦者ハッケーン! さぁさぁ勝負よ」
舞は、先程まで冬美の座っていた座布団を掌でバシバシ叩きながら陽康を煽った。
冬美は陽康に耳打ちした。
「今朝、目を覚ましたら、急に元気になっちゃったんです」
陽康は、昨日の弱々しい様子から一変した舞を見て、小声で呟いた。
「早速本性を現したか。ニシユルの問題児め」
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