第10話「逃走」
■2023年7月30日 18:00 武蔵ノ宮病院
「ヤ、ヤダ…なんなんですか」
冬美は周囲に広がり続ける白い煙を見て怯えていた。
白い煙は10秒も立たないうちに、陽康たち三人の目前にまで迫ってきた。
「走れ!」
美喜雄がそう叫ぶと同時に、三人は煙から逃げるように走った。
男性の怒号に紛れて女性の悲鳴が聞こえた。葉月里音の声だ。
「ガチャン」と鉄製の物体がアスファルトに叩きつけられる大きな音が響いた。舞を乗せていたストレッチャーが倒れた音かもしれない。
「マイマイが、マイマイがぁ…」
冬美は走りながら泣き叫んでいた。
陽康たち三人は、駐車場を見渡せる芝地まで逃げて来たところで白い煙の方を振り返った。白い煙は約50メートル四方に飛散しており、その空間の視界を完全に塞いでいた。
陽康は、広がった煙をただただ呆然と眺めていたが、煙の中から微かに「ハァハァ」という荒い息遣いが聞こえたかと思うと、煙の切れ目からつい先ほどまで老人であったはずの男が姿を現した。
ニット帽と衣服は変わりないが、顔を覆っていた白髪混じりの口髭や顎髭の一部が剥がれており、ツルっとした脂っぽい頰が露出していた。
その男は、背中にぐったりとした少女を担いでいた。つい先ほどまで、ストレッチャーに乗せられていた宝田舞だ。
陽康たちの気配に気づいた男は、明らかに動揺していたが、バリカンのようなものを振り上げて威嚇してきた。
「あなたたち、こっちに来たらダメですからね。こっちに来たら、この子を殺します。このスタンガン、出力を上げれば人も殺せるんですよ」
男は煙幕を巻いた後、葉月とスーツの男たちをスタンガンで気絶させ、舞を奪ったのだろう。
「彼女をどうするつもりだ!」
美喜雄は反射的に芝居掛かった言葉を叫んでいた。
「あなたたちが見逃してくれたらどうもしません。僕を追ってくるというのなら…彼女を殺します」
男はスタンガンをブンブン振り回しながら後ずさりし、舞をおぶったまま逃げいく。陽康たちはその場に立ち尽くしたまま、男と舞の行方を目で追うことしかできなかった。
舞をおぶった男は煙に覆われていない場所まで歩いていき、駐車場の隅に停まっていた白い乗用車に乗り込んだ。
美喜雄は、走り去る車を睨みながら呟いた。
「あの男の声、どこかで聞いたことがある」
* * *
男は舞を助手席に座らせてから運転席に乗り込み、息も絶え絶えにエンジンをかけた。我ながら無茶苦茶な奪取劇だとは思ったが、舞はそれほど怯えていないように見えた。
2カ月も入院していたせいか、彼女のパブリックイメージの一つだったショートボブの髪は随分と伸びていたし、少々痩せてしまってもいるようだ。ただ、無国籍な雰囲気を漂わせる切れ長な目、高い鼻、薄い唇は、男が知っている西新宿ゆるふわ組の宝田舞そのものだった。
男は片手でハンドルを握りながらニット帽を脱ぎ、顔の半分を覆っていた変装用特殊素材に手を掛けた。特殊素材は強力な粘度で肌に付着していたため、剥がすときにベリベリと気持ちの悪い音を立てた。
「真夏にこの変装はキツいですね」
男は汗にまみれてグシャグシャになった顔で舞に微笑みかけた。
舞は、とくに驚いた様子も見せず、男の顔をじっくりと見つめながら呟いた。
「…細川さん、だ」
「お久しぶりです。ちょっと荒っぽくなっちゃってゴメンなさい。でももう大丈夫です。葉月さんや京子社長、ブレインランドの人たちが来ないところに行きましょう」
舞は、少し困ったような顔をした。
「ワタシ、よくわからなくて」
「え?」
「…気づいたら、知らない病院のベッドの上で寝てた、っていうか」
「え?」
「わからないんです。ブレインランドとか、そういうの。さっきいたメガネのおばさんのことも、ワタシ知らないし」
「メガネのおばさんって、葉月さんのことですか?」
「そうそう。あのおばさん、ワタシがアイドルやってたって言ってるけど…そのことも覚えていないし」
細川は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。ハンドルを握り直し、恐る恐る舞に聞いた。
「マイマイは…自分がいたニシユルを…西新宿ゆるふわ組のことを思い出せないってことですか?」
舞は黙って頷いた。
「えーっと…あなたは宝田舞さん、ですよね」
「そうだよ。自分の名前くらいはわかるよ」
「西新宿ゆるふわ組…ニシユルの宝田舞さんですよね」
「その、西新宿なんとかっていうの? よくわからない。覚えてない」
「それじゃあ、ノリちゃんやマッキー、セラたん、ミーちゃんのことは?」
舞は首を横に振りながら言った。
「ワタシ、解離性健忘らしいです。お医者さんが言ってた」
例の事件のショックで、舞のアイドルとしての記憶や自分が西新宿ゆるふわ組のメンバーであるという記憶が消し飛んでしまったとでもいうのか。ただ、それでは話がおかしい。細川は改めて舞に尋ねた。
「葉月さんやニシユルのみんなのことはわからないのに、何で僕のことは覚えてるんですか?」
舞は、一瞬真顔になった後で吹き出した。
「フフッ、ヘヘッ、ハハハハッ。確かにおっかしいーね。ブハハハハッ」
ルックスとギャップのあり過ぎる豪快な笑い声。それは、多くの人が知る宝田舞の個性の一つでもあった。細川は舞の笑い声を聞いて昔を思い出していた。ステージやテレビ収録の前、他のメンバーが緊張でブルブルと震えているようなときでも、舞だけは一人でケタケタとよく笑っていた。
「なんだかわからないけど、その顔をジッと見てたら…細川さんの名前が自然とでてきちゃった」
「それじゃあ、僕とあなたの関係性については何か思い出せませんか?」
「うーん思い出せない。少なくとも恋人ではない、ってことだけはわかるんだけど」
「僕も、ニシユルのマネージャーだったんです。以前はね」
「へぇーそうなんだ」
この話題に関して、舞はまったく興味を示さなかった。
解離性健忘というが、彼女は本当に記憶を失っているのだろうか。映画や漫画の都合のいい設定を真似ているのではないだろうか。正直なところ半信半疑ではあった。その反面、細川はちょっとした優越感にも浸っていた。西新宿ゆるふわ組として一緒に活動していたメンバーや葉月里音に関する記憶がないと主張する舞が、自分の顔と名前だけは覚えていてくれたからだ。
武蔵ノ宮病院を出てから20分が経過し、細川の尿意は臨界に近づいていた。
葉月たちが病院に現れたときからずっと我慢していたが「舞を病院から連れ出す」という緊張感のあるミッションの実行、さらには舞が記憶を無くしているという信じ難い事態の発覚もあり、しばらくは尿意を意識の外に追いやっていた。しかし、徐々に落ち着きを取り戻すに連れ、細川の下半身には再び尿意の疼きが蘇ってきていた。
脂汗を滲ませながら運転をしていた彼は、コンビニの看板を見つけるや否や急いで駐車場に車を停めた。
「ちょっと待っててください。すぐに戻ってきますから」
細川は、舞一人を車中に残すことに不安を感じないわけではなかった。ただ、10代の女子の隣で小便を漏らせるほどの図太い神経も持ち合わせていなかった。
細川はコンビニのトイレで用を足しながら考えていた。舞に、今回の事件のことを聞いてみるべきだろうか。
彼女の話を信用するならば、ニシユルのメンバーとしてアイドル活動をしていたことをまったく覚えていないことになる。自分以外の四人が死んでしまったことや、舞だけが助かった現状についても理解していないかもしれない。先ほどの舞の様子を見るに、葉月やブレインランドの人間たちも、あえて舞にその事実を伝えていない可能性が高い。
もし仮に、舞に対してその事実をストレートに伝えたら、どんなことが起こってしまうのだろう。
細川はレジでじゃがりこのチーズ味とミルクティーを購入した。いずれも数年前に舞が好んで食べていたものだ。舞の好みが変わっていなければ喜んでくれるはずだ。
しかし、コンビニの外に出た細川は、驚きのあまり手にしていたビニール袋を落としてしまった。
駐車場に停めていた車の周りに人がいる。若い男が二人と女が一人。
黒いジャケット姿の長髪の痩せた男が、こちらをジッと睨みながら話しかけてきた。
「細川さんですよね? ご無沙汰しています」
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