夢、現実
綸
蝶が生まれる
電気を落とした部屋の天井は黒色に塗りつぶされたキャンバスだ。目を閉じることもなく漠然と見上げていれば、何色にも似つかない様々な色が浮かび上がる。それらは規則的な模様であったり、不規則に変形を繰り返し、絶えず不気味な示唆を続ける不吉な模様であったりする。
幼い頃はそれらの光を見ていると、言い知れぬ不安感に襲われて眠れなくなった。目を閉じていても、瞼の向こうに広がるそれらの光が自分を見ているのだと想像すると泣き出してしまいそうだった。
大人になった今は別の理由で眠れなくなっている。
あれらの光は存在しているだけで、何かの意味も意図も持ち得ないことは成長するにつれて理解できた。そんなものよりも恐れているものは”夢”だ。幼い頃には救いであったそれは、今になれば理解の及ばない現実として広がっている。
眠ることを意識すればするほど、それらの夢は現実のものとして瞼の内側、瞳のその内部から姿を表すように思えてならないのだ。
人は誰しも他人の夢を見ることは出来ない。
見ることができないからこそ、人々は自分自身の夢をオリジナルであると信じて疑わない。けれど僕は自分の見ている夢が誰かと共通したものであったり、全員が見ているものだと信じた方が救われる気持ちになるのだ。
それらは何処かに存在する現実を写しているのではなく、夢と一笑できるような架空のものであると信じていられた方がよっぽどいい。心の底からそう思うのだ。
夢の中の僕は、一匹の蝶だ。
羽を必死に羽ばたかせ、地面に落ちて蟻に喰われないように空に居続けようとしている。けれど、夢の最後では僕という蝶は地面に落ちて、生きたまま蟻に喰われていく。羽がもがれて、足を一本一本ちぎられて、腹が裂かれて、最後には絶命する。
蝶を死なせるための蟻による一連の作業は、僕にとって絶え難い痛みを伴うものであった。意識が失われるまでの数分間を、まるで数時間、数日間、あるいは一生をかけて苦しみ続けているように思えた。
しかし、それらは苦痛であると同時に夢が終わることの合図でもあったので、人間としての僕は喜びを抱いていた。
夢の中の僕は蝶であり、傍観者だった。浮遊するだけの存在ではなく、そこにある現実を目に焼き付けることを生きる目的としていた。
蝶が見る夢の中の現実は、実際に人間として生きる僕が見る現実よりも生々しく、生という営みに瑞々しさが感じられる。メモリにデータが焼き付けられるように、僕の記憶にもそれらの事実は鮮烈に刻まれる。
僕にとって苦痛であったのは、まさにその”観測”と”記憶”であった。
いつも気がつけば羽ばたいている。
暗い闇の中から始まることもあれば、都市の中を人々の頭の横を抜けて飛んでいるところから始まることもある。
今日はそのどちらでもなく、限られた人数で運営される小さな集落に僕はいた。そこには僕以外にも多くの蝶がいて、彼ら人間は蝶を大切に扱っていた。
集落の至るところに花を咲かせ、家の中の気温を蝶にとって心地の良いものに調整していた。
僕はその集落を隅から隅まで見ていき、一見すると何も異常なことはないことを確かめた。そのうち飛ぶことに疲れてくると、人間の肩の上で羽を休ませた。彼らの肩は大きく広く、そしてその歩みは空気の抵抗を全く受けないほどに静かで落ち着いていた。
今回はこれ以上何も見るものはない、そう思っていた頃だった。一人の人間の顔がしわくちゃになった。紙の上に手のひらを置いて、5本指の先に力を入れて握ったような顔だ。乾燥しているわけでもない、血の通った人間であるはずが、まるで水分を全て失ったかのようだ。
その奇妙な人間を見ていると顔に張り付いた皮が剥がれ、その内から四つの大きな空洞が顔を表した。風が吹くたびに、深い洞窟の奥に閉じ込められた子供が泣いているような声がした。
ただ、その空洞からは子供は出てこない。真っ暗な深い闇の中からは、蝶が出てきた。羽を広げて、空に羽ばたいて行った。それも何匹も何匹も、大量に。
人間の身体はいつの間にか凹凸だらけになって、絶えず蝶と蛹が生まれている。気味が悪いと思ったが、飛んでいるだけの僕には何を言うことも、することもできない。ただその悍ましい光景を眺めるしかなかった。
やがて集落の人々が集まって、その人間から生まれた蝶を眺めて手を合わせた。膝をつき、感謝をするように涙を流した。彼らの腕にも大きな瘤が出来ていて、一人が爪を立てると、中から蝶が出てきた。
驚いて瞬きをすると、その蝶も瘤もなくなっていて、ただ大量の蝶が辺りを埋め尽くしていた。その蝶たちは自分を産んだ人間の上に止まると、触覚を長く伸ばして皮膚へと突き立てた。血も水分もないような干からびた死体から、何かしらを吸い取っていた。
「これが私たちの世界です」
突然、一人の男が話し出した。目線は蝶へと向けられ、僕のことは見ていない。ただ、それでも彼は説明をするような口調で続ける。
「私たちの世界は蝶が支配しています。蝶がトップなのです。私たちは蝶がいることで生きていることが出来て、蝶が許してくれるから生きていられる。種を続けられる」
彼は腕に爪を立てて、一本、長い傷跡をつけた。
その傷口からは最初に血が滲み出てきたが、蝶が大量に集まってきて触覚を伸ばした。血を吸っているわけではないようで、何かもっと別のことをしているようだった。
「私たちの身体は蝶の卵なのですよ」
男の全身からは小さな瘤が無数に出来て、それらが一瞬、全て蠢いた。
僕は飛んで行った。どこまでも逃げるように飛んで、最後は水の中にボチャっと落ちて死んだ。
目を覚ませばいつもの天井。言い表せない光もない、真っ白な壁紙の貼られた天井が広がっている。
身体を起こして目を覚まそうと思ったら、額から汗の粒がたくさん落ちた。呼吸も心なしか荒れている。腕を見れば、細かい瘤が、いや鳥肌が出来ていた。
「本当に気持ち悪い夢だった」
どこか苦い顔をしながら、そんなことを呟いた。
夢、現実 綸 @Rin-sansan
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