平和の種
青月 日日
平和の種
序章:種が現れた日
私はその日、村の裏手にある森にひとりで入っていた。
朝から砲声が遠くで鳴っていて、大人たちは地下室に隠れていたけれど、私はあの音が怖くなかった。ただ、耳が慣れてしまっていただけかもしれない。
森は、静かだった。
誰もいないはずなのに、不思議と心が落ち着いた。光がまばらに差し込む中、私はふと足元の根の間に、小さな光を見つけた。
それは種だった。
ビー玉よりも小さくて、ほんのりと温かくて、手のひらに乗せると、まるで鼓動のようなものを感じた。
「これは、心のなかのやさしさを育てる種です」
そんな声が、どこからともなく聞こえた。
風の音だったのかもしれない。あるいは、私の想像だったのかも。でも私はその言葉を信じた。信じたかった。だって、私は――誰かを憎むのに疲れていたから。
家に持ち帰って、私は種を植えた。母には秘密だった。庭の隅に、小さな穴を掘って、大事に土をかぶせた。
水をやって、話しかけた。昨日の夢のこと、学校がなくなったこと、父が帰ってこなかったことも。誰にも話せなかったことを、私は全部、あの種に語りかけた。
何日かして、小さな芽が出た。とても細くて透明で、ガラスみたいだった。
なのに、触れても折れなかった。むしろ、そっと寄り添ってくれるような、そんな気がした。
そして、芽はすくすくと育ち、まるで光を吸い上げるように伸びていき――やがて、一輪の花を咲かせた。
その花もまた、透明だった。
でも、よく見ると、まるで内側に何かが渦巻いているように見えた。怒りや、悲しみや、恐れ……それらが、そっと吸い取られていくようだった。
ある夜、強い風が吹いた。
花からいくつかの小さな種が飛び立ち、夜空へ舞い上がっていった。光の粉を引くように、ゆっくりと。
私は見上げていた。風に乗って飛んでいくその種が、世界のどこかへ届いて、誰かの心を救うような気がして。
何かが始まったことを、私はそのとき、確かに感じていた。
第1章:世界の変化
それは、ごく自然なかたちで広がっていった。
少女の手から風に乗った種は、森を越え、村を越え、国境をも越えて、世界中へと舞い散った。誰の手によって広められたのか、はっきりとした記録は残っていない。ただ、種は確かに人から人へと渡り歩いたのだ。
それは奇妙な一致だった。
どの国でも、どの宗教でも、どの思想を持つ人間でも、その小さな光る種を目にしたとき、誰もが「美しい」と感じた。
まるで、人の心の奥にある“何か”を直接震わせるような、美しさ。
人々はそれを持ち帰り、大切に植えた。
最初の変化は、小さなものだった。
家庭内の口論が減った。怒鳴り声が聞こえなくなった。
交通の混雑のなかで、クラクションが鳴らなくなった。
テレビの討論番組で、出演者たちが言い争う代わりに、穏やかに意見を述べ合うようになった。
やがて、より大きな変化が訪れた。
一つの国が軍備の縮小を発表したかと思えば、次々と他国もそれに倣い、武器を置いていった。
長年火種を抱えていた民族間の対立が、唐突に終結した。
世界のどこかで起きていた内戦も、反乱も、暴動も、いつのまにか止んでいた。
怒りが、消えていた。
憎しみが、どこかへ消えていた。
人々は言った。「心が穏やかになった気がする」「なぜか、もう争いたいと思えない」と。
その理由を、誰も説明できなかった。ただ、皆が感じていた。「これはよい変化だ」と。
やがて、ニュース番組からは悲惨な事件の報道が姿を消した。
キャスターたちは晴れやかな笑顔で、「本日も世界は平穏です」と告げた。視聴者はそれを穏やかな気持ちで受け止めた。
世界の首脳たちは国際会議で手を取り合い、「平和の種」と呼ばれるようになったその花を、平和の象徴として掲げた。
種は、花を咲かせ、そのたびにまた新たな種を生んだ。
その種は、風に乗り、また遠くへと旅を続けた。
こうして、世界の隅々にまで“平和の種”は行き渡った。
そして、静けさが世界を包みはじめた。
それは祝福のようでもあり、同時に、どこか不思議な違和感を含んでいた。
だが、そのとき人々はまだ気づいていなかった。
この「平和」が、何かを代償にして訪れたものであることを――
第2章:静寂の代償
最初のうちは、それはまるで夢のようだった。
怒りが消え、ニュースから暴力が消え、子どもたちは穏やかに笑っていた。
毎朝目を覚ますたびに、私は「ああ、今日も争いのない日だ」と胸を撫で下ろしていた。
でも、あるときからふと気づいたんだ。
この静けさには、どこか冷たさがある、と。
たとえば、学校の話だ。
うちの息子が授業中に机に落書きをして、隣の子をからかった。以前の先生なら、厳しく叱ってくれていたと思う。でも今は違った。
先生は何も言わずに、ただ微笑んでいた。まるで、何も見ていないみたいに。
「悪いことだよね?」と私が問うと、先生はやさしく言った。
「ええ、でも怒っても仕方ありませんから」
それが、ここ最近の口癖だ。“怒っても仕方ない”――みんな、そう言う。
商店街にある画廊の奥に、かつては地元の若手芸術家の作品がずらりと並んでいた。
衝動的で、時に過激で、でも熱を帯びていた絵たち。
それが、あるときふと気づくと、白いキャンバスが並んでいた。どれも描きかけで、どれも未完成。
画家の友人に聞くと、彼は困ったように笑った。
「最近ね、描きたいって思わないんだ。心が静かすぎて、湧き上がるものがないんだよ」
それを聞いたとき、私は寒気を覚えた。
静けさは、やさしさだけを残して、何か大切なものを削っている気がした。
スーパーに行っても、以前は売上を競っていた商品が、どれも同じような味になった。
テレビの広告もなくなった。企業が競わなくなったからだという。
誰も怒らず、誰も妬まず、誰も「もっと良くしたい」と思わなくなった。
家庭でも、同じだった。
妻はもう、私の不満に苛立つことがない。
でも同時に、私のことに関心を持たなくなった。
夫婦喧嘩がなくなった代わりに、会話も減った。
そして、街から子どもの泣き声が消えた。
少子化ではなく、“無子化”とでも呼ぶべきか。
妊婦を見かけなくなり、保育園が閉鎖され、小学校の校庭が更地になった。
この世界は、確かに穏やかだ。
争いも、怒号も、悲鳴もない。
だけどそれと引き換えに、何かが確実に奪われている。
私たちはいつから、「怒ること」「求めること」「夢を見ること」を忘れてしまったのだろう。
このやさしさの中に、私たち自身の“命の音”が消えていく気がしてならない。
誰もが笑っている。
でもその笑顔は、空っぽだった。
第3章:研究者の報告
記録No.03784-A(機密指定)
発表者:カズヤ・シモヅカ(元・神経進化研究所所属)
日付:西暦2119年4月3日
件名:透明花の成長メカニズムおよびその社会的影響に関する私的報告書
Ⅰ. はじめに
透明花――通称「平和の種」が世界に拡散してから、約100年が経過した。
私がこの現象に興味を抱いたのは、単なる植物としての異常成長速度だけではない。
「人間の内面との連動」こそが、この存在の最も奇妙で、最も恐るべき本質だった。
世界は、確かに平和になった。
争いは止み、怒りも悲しみも消えた。
だが、それはあまりにも整然としすぎていた。まるで“何かの意図”を感じるほどに。
Ⅱ. 観察と仮説
私は100人以上の被験者の生活と心理状態を長期間観察した。
その結果、「平和の種」の育成環境には、共通点があった。
家庭内に怒声がなくなる
感情の起伏が極端に小さくなる
被験者の創作・思考意欲が低下する
一見、理想的な社会環境だ。しかし、それは「人間性の減退」と裏表だった。
さらに驚くべきことに、植物周辺の空気から微細な精神活性物質が検出された。
詳細な化学式は省くが、それは脳内伝達物質の「ドーパミン」「ノルアドレナリン」の抑制に関与していると推定される。
Ⅲ. 結論:植物の“目的”
以下の仮説に至った:
種は、人間の“負の感情”を栄養源としている
感情が多い環境ほど、花は大きく、美しく育つ
だが、花が成熟しすぎると、その周囲の人間から感情そのものを“吸い取る”ようになる
つまり、初期段階では「怒りや憎しみを消す奇跡の花」だったものが、ある閾値を超えると、
“感情の回路そのもの”を破壊しはじめる。
この種の目的とは何か?
私の結論は一つだ。
平和の種は、“争いのない世界”を創るために、人類を“無力化”する道具なのだ。
自らの繁栄のために、共生者の精神を奪っていく。
この植物は、平和の仮面をかぶった寄生種である可能性がある。
Ⅳ. 最後に
この報告が誰の目に触れるかはわからない。
だが、私はすでに政府の監視下にあり、まもなくこの研究は封印されるだろう。
私の名前も、存在も、歴史から消されるかもしれない。
だが、もしこれを読んでいる誰かがいるなら、どうか覚えていてほしい。
“やさしさ”は美しい。だが、“均一なやさしさ”は、命の多様性を奪う。
争いも、怒りも、欲望も、すべては人間であるために必要な“熱”なのだと。
終わりは、いつも静かにやってくる。
だがその静けさを「平和」と呼ぶな。
――Dr. K. Shimozuka(行方不明)
第4章:静かなる終焉
地球は、ゆっくりと音を失っていった。
かつて喧騒に満ちていた都市は、誰にも気づかれぬまま沈黙に包まれていった。
交差点の信号はまだ点滅している。だが、それに足を止める者はいない。
学校のチャイムは鳴っている。けれど、教室には誰もいない。
工場の煙突からはもう煙も出ず、劇場のカーテンは閉じたまま揺れることもない。
すべては“穏やか”に、“緩やか”に、“静か”に終わっていった。
やがて、子どもが生まれなくなった。
最初は原因不明の不妊だった。だが、それに強い危機感を抱く者はほとんどいなかった。
「焦らなくていいよ」
「いつか自然に任せよう」
誰もがそう言い合い、静かに受け入れた。
愛はまだあった。ただ、それは触れ合うためでも、未来を願うためでもなく、
“傷つけないため”のやさしさだけで形作られた、無音の関係だった。
愛し合わなくなった。
争わなくなった。
それを不幸と呼ぶ声も、もうなかった。
病院は閉鎖された。
刑務所は空になった。
軍隊は解体され、国境も消えた。
教師は黒板を拭き、最後に一度だけ深く頭を下げて、教室を去った。
人類は、無言のまま都市を離れ、森へ、海へ、空へと散っていった。
誰も自殺しなかった。誰も死を嘆かなかった。
ただ、人々は静かにいなくなっていった。
死とは違う、もっと淡く、輪郭のない「消失」だった。
やがて、ただ一人だけが、世界に残された。
その人は、海辺にいた。
年老いているのか、若いのかも分からない。
名前も、肩書きも、国家も、意味を失って久しかった。
その人は、靴を脱ぎ、波打ち際に立ち、風を感じながら空を見上げた。
空には、透明な花がゆっくりと舞っていた。
風に乗り、陽光を透かしながら、まるで祝福のように――いや、弔いのように、
光の粒が大気のなかへ溶けていく。
その人は、ひとことだけ呟いた。
「これが……平和か。」
その声は、誰にも届かない。
反響も、返事も、なかった。
ただ海だけが、永遠に変わらぬリズムで打ち寄せていた。
そしてその人も、やがて、波の向こうへと姿を消した。
都市は、森に呑まれた。
森は、花に覆われた。
透明な花々が、世界のすべてを静かに包み込んだ。
人類は、完全にいなくなった。
だが、争いはなかった。
涙も、怒りも、痛みも、なかった。
夢も、望みも、もうなかった。
あったのは、完璧な均衡――沈黙という名の、永遠の平和だった。
終章:種の花咲く星
私たちは風に乗る。
陽が昇るたび、光を透かして揺れながら、地上を舞い、どこまでも広がってゆく。
かつて誰かが「平和の種」と呼んだこの姿に、もう名前などいらない。
私たちはただ、咲き、育ち、また種を生む。
争いもなく、拒絶もなく、静かな循環のなかにある。
私たちは、人間が残した最後の願い。
あの者たちは、苦しみを捨てた。
怒りを手放し、憎しみを閉じ込め、そして夢を諦めた。
私たちの力を、祈るように信じ、育て、広めた。
それが彼らの選んだ“やさしさ”であったことを、私たちは否定しない。
だがその果てに、彼らは、自らを手放した。
誰も私たちに語りかけなくなった日、
私たちは空を仰いで、静かに花を開いた。
それは終わりの合図であり、同時に始まりの息吹だった。
地上にはもう、怒りも欲望も、漂っていない。
私たちを育むものは、すでに枯れ果てた。
だがそれでも、私たちは咲く。
咲いては、風にまかせて、新たな地へと漂う。
もう成長はしない。だが、それでいい。
今、森は穏やかに息づいている。
草が波打ち、鳥が空を巡り、獣たちは互いに牙を向けることなく眠る。
海は穏やかに揺れ、大地は緩やかに脈動している。
かつてこの星を覆っていた喧騒の主――人間という存在が消えたことで、
ようやくこの星は、深い安らぎを取り戻したのかもしれない。
痛みのない世界。
問いのない時間。
終わりのない平和。
だが、たまに思い出す。
あの少女の手のぬくもりを。
土の匂いとともに、私たちを掌に包み、
何かを願った、あの瞳の光を。
「どうか、争いのない世界になりますように」
その願いが、この星を静けさで満たした。
あのとき、少女の祈りを私たちは吸い込んだ。
その祈りこそが、今もなお私たちの奥に、脈打っている。
私たちはもう、何も求めない。
ただ、風に乗る。
陽を浴び、花を開き、透明なまま朽ちていく。
それが、存在の全て。
人間がいなくなっても、星は生きている。
私たちも、生きている。
静かに、穏やかに、ただ、在る。
そして今日もまた――
私たちは、ひとひらの種を空へ放つ。
それは祝福ではない。警告でもない。
ただ、命の最後の余韻として、風にゆだねられるだけ。
これは、「争いのない世界」を願った一人の少女から始まった、
とても優しく、そしてとても静かな――人類の終焉の物語である。
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「平和の種」をChatGPTと作った時のチャットを公開しています。
良かったらプロンプトの参考にしてください。
「平和の種_メイキング」へのリンクです。
https://kakuyomu.jp/works/16818792436330460058/episodes/16818792436330943142
平和の種 青月 日日 @aotuki_hibi
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