漂流騎オデッセイ~次元の旅と死者の呪い~

飯塚摩耶

第1話-プロローグ-

 悪意が横入りして来た。


 春――

 広大な田園いっぱいの、命の香りが鼻先をくすぐる。

 瑞々しい緑色の海に、花弁たちが星々のように彩を添える。

 道々には子供が駆け回り、それを、仕事に勤しむ大人たちが笑顔で見守る。


 平和、であった。

 平和だけが、あった。

 その時、その瞬間、そこに不吉の気配は無かった。


 ──地上に稲妻が閃く、その時までは。


 抜けるような晴天の下、チラチラと光の糸が躍った。

 それは、のたうつ蛇のように跳ね回りながら、じわじわと大きさを増していき、やがて内側から弾けたように爆発した。

 人々が悲鳴を上げて地に伏し、おそるおそる顔を上げた時──


 そこには悪意が形を成していた。


 靄の中に立っているのは漆黒のヒトガタ。

 全身を覆う分厚い装甲、額に反り立つ一本ヅノ。

 素顔を閉ざした兜には深紅色の光が灯り、まるで両目が燃えているようだ。


 実に5体の、鋼鉄の鬼。


「やったぞ、ついに成功だ……!」

「ええ、本当に我々は〝壁〟を突破したんだ!」


 鬼どもは笑声を上げ、握手をし、肩を抱き合った。

 その度に打ち合わされ擦れ合う鎧が、剣戟のように耳障りな音を立てる。


「さぁ支配しよう。たった今から、この世界は我々のものだ」


 鬼たちは一斉に地を蹴り、高々と空を往く。

 赤い光を噴き上げ、重力に逆らって宙を奔る。

 透き通る蒼天を、光を吸い込む暗黒が侵す。


 と、1体の鬼が着地するなり、目の前で放心する男性の頭に手を添えて、


 ぐしゃり、と、おぞましい音。

 先まで額に汗して微笑み、仕事に励んでいた顔が、熟れた果実よろしく握り潰された。


 ――同じ現象は、別の場所でも起こっていた。


 鉛色の空の下、白い粉雪が舞い落ちる広大な平野で、夥しい数の兵士が、ふたつの塊を形成し、互いの未来を賭けて、雌雄を決する戦いに備えていた。

 地上に稲妻が閃く、その時までは。


「この世界、頂戴する!」


 突如として戦場の真ん中に現れた黒い鬼たちは、圧倒的な破壊をもたらした。

 岩も斬り裂くと謳われた剣を圧し折り、雷さえ跳ね返すと語られた盾を粉砕する。

 対して名を馳せた戦士の一斬も、天下の名槍の一突きも、雨霰と浴びせられる矢の洗礼さえ、漆黒の鬼の蛮行を押し止めるには、まるで足りない。


「素晴らしいな。まるで衝撃を感じない。本当に射られているのかすら疑問だよ」

「では、脱いで確かめてみるか?」


 仲間の軽口に肩をすくめて鬼の1体は、ついに自身の武器を取った。

 腰から取り外した箱型の物体が形を変え、くの字になって手に収まる。

 銃だ。


「小うるさい虫どもめ」


 そして深紅の光線が、撃ち放たれた。

 それが兵士たちを溶かし、蒸発させ、大地を抉って凄惨な結果を見せつける。

 いったい何が起こったのか、人々は鬼たちを遠巻きに眺めながら放心して立ち尽くした。

 やがて、誰かが忘我の呟きを漏らした。


 無理だ、次元が違い過ぎる。


 そう〝次元が違う〟。

 突如として降って湧いた、それは彼等とは全く無縁の、桁外れの存在だった。

 もはや両軍の区別なく、叶うのは、たったひとつのことだけのみ。

 ただ、祈った。

 嗚呼、夢なら醒めて。

 どうか目の前の魔物を打ち倒し、我らを救ってはくれまいか……。


 ──そして、稲妻が。


 寄り集まった光が弾け、こぉん、と抜けるような高い音がひとつ、鳴り渡る。

 誰もが、そこで起こる出来事を信じられない思いで見上げた。

 失意の兵士らは言うに及ばず、あの邪悪の鬼たちでさえも。


 同じ存在が、春の村にも来訪していた。

 闇を払う閃光と共に出現したのは、全身鎧のヒトガタであった。

 青空よりもなお鮮烈に神々しさすら身に帯びて、それは滞空している。


 白い兜が、上げられる。

 頭部に戴いた二又の角が、ギラリと光を照り返す。

 その居姿は天の遣いか、あるいは神話に語られる聖獣──白竜を思わせる。


「次元侵犯を確認。状況を開始する」


 騎士は神託のように告げ、雷霆の一撃のように、黒い鬼たちを目がけて降った。


     ****


 人は歩みの果てに、世界の禁則を侵した。

 新たな戒律が生まれ、新たな地平が拓かれた。

 これは、そこに厳格なる秩序をもたらそうとする者たち――

 その牙となり、戦うことを宿命づけられた騎士たちの、長い旅の物語である。

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