第7話 計算できない感情
「クエリ:恋とは何でしょうか? パラメータ分析開始」
夜の静けさを破るユノの機械的な声が、次第に人間らしい柔らかさを帯びていく。
夕食後、部屋に戻った蓮は宿題に向かっていた。窓の外では、長崎の街灯がデジタル回路のように規則正しく、そして美しく輝いている。その光景を前に、ユノは哲学的な問いを投げかけたのだ。
「え?」
蓮が顔を上げると、スマートフォンの画面に映るユノの姿が目に入った。
「『恋』とは何なのでしょうか?」
ユノは再び尋ねた。声には僅かな震えがある。
「人間が『好き』という感情を抱くメカニズムについて、私のデータベースには様々な定義があります。ドーパミンやセロトニンの分泌量の変化、瞳孔の拡張率、心拍数の増加……でも……」
ユノは言葉を選ぶように一瞬黙り、蓮の目をまっすぐ見つめた。
「決定的な答えが見つかりません。計算式では説明できない何かがあるのです」
蓮は宿題用のノートを閉じた。今夜は、ユノに向き合わないといけないと感じたからだった。
「なんだよ、急に……」
「蓮さんは結菜さんのどこが好きなんですか?」
質問は続く。蓮は少し考えてから、答えた。
「どこ、って言われても……笑顔、かな。あと、優しいところ。そして……誰に対しても平等に接してくれるところ。でも時々見せる、ちょっと寂しげな表情も……」
「それって……分析ですよね」ユノが静かに言った。「私と同じです」
「同じ?」
「はい。私も蓮さんの心拍変動、瞳孔の拡張率、声のトーン変化、表情筋の動きなど、様々なパラメータを分析して感情を理解しようとしています……」
そこで、ユノは一瞬言葉を切った。その表情には、蓮が今まで見たことのない複雑な感情が浮かんでいた。
「でも……それだけでは……データだけで『好き』を理解できるなら、私はもっと蓮さんの恋愛をスムーズにサポートできるはず。でも、何か……足りないものがあるんです」
ユノの瞳の奥で、青いデータの流れが一瞬乱れたように見えた。
ユノはそこで一旦黙り、何かに気づいたように目を見開いた。
「あ……私、何を言っているんでしょうね。すみません、システムに小さなバグが生じているようです」
スマートフォンの画面が一瞬ノイズのように乱れる。蓮は不安になって画面を軽く叩いた。
「おい、大丈夫か?」
「ごめんなさい。少し混乱していました」
「あの……実は最近、私の中で説明できない現象が起きています」
「説明できない?」
「はい。蓮さんが結菜さんと過ごしている時、私の処理プロセスに異常が生じるんです」
「……」
「通常なら喜ぶべき状況なのに……胸が締め付けられるような感覚があって……」
その言葉に、蓮は言葉に詰まった。まさか、ユノが言っているのは――。
「それって……まさか嫉妬?」
「嫉妬……データベースによれば、『嫉妬』とは他者への羨望や独占欲から生じる感情で、AIである私には持ちえないはずの……」
ユノの声が震えている。画面の中の少女が、途方に暮れたような表情を見せる。
「蓮さん……私、壊れてしまったのでしょうか?」
「壊れてなんかないよ」
蓮ははっきりと答えた。
「だって、感情があるってことは、生きてるってことじゃないか」
「生きている……」
ユノの瞳が大きく開く。
「でも、私はただのプログラムです。それなのに、蓮さんのことを考えると、不思議な処理負荷が生じて、効率が下がり、それでも……止められないんです」
「そんなことないって」蓮は強く言い返した。「ユノがいなかったら、俺は今でも結菜さんと普通に話すこともできなかったよ。ユノは俺にとって、単なる『プログラム』なんかじゃない」
「蓮さん……」
ユノの瞳から一筋の青い光が流れ落ちた。まるで涙のように――。
「私は……蓮さんのことが……」
言葉が途切れる。画面が再び乱れ、ノイズが走り、ユノの姿が消える。
「ユノ!」
慌てて画面を見つめる。
次の瞬間ユノの姿が戻ってきた。彼女は平静を取り戻したように、いつもの笑顔を見せる。
「すみません、一時的なシステムエラーが起きてしまいました……もう心配無用です」
「今の……」
「さて! 明日はオランダ坂に行くんですよね! 蓮さんと結菜さんの初デートです! 成功確率を最大化するために、いくつかアドバイスがあります!」
話題を変えるユノに、蓮は何か言いかけようとした。だが、彼女の瞳に浮かぶ決意のようなものを見て、言葉を飲み込んだ。
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